あなたがいるだけで

カムリ

あなたがいるだけで

 風見緑子かざみみどりこは今日も生ごみが出せなかった。

 縛って置いただけのビニール袋の山には小蠅がたかっている。

 朝はずっと嫌いだ。毎朝起きれずに溜まっていくごみ袋の山のことを思い返して、また自分が何もできない人間だという事実を再確認してしまう。


 水分を取っていないからか、身体が重かった。

 重い瞼をこすりながらふらふらとキッチンに向かう。

 シンクは洗っていない食器やタッパー、弁当容器が積み重なりはち切れそうだった。

 水垢のこびりついたコップを適当に取り、水道から生ぬるい水を飲む。

 このところの猛暑で、冷たい水は蛇口から出てこない。

 マンションの管理会社に連絡するなり、水を冷蔵庫で冷やすなりすればよかったのかも知れないが、人と話すことも自分のために生活にひと手間を加えることも、緑子の生活の周期からは失われて久しい。生命維持の他に、自分という存在をいたわってやる価値を感じられなかった。


 水を飲んだら、顔を洗わなくてはならない。

 緑子の生活は常に通奏低音のような強制によって稼働していた。

 鏡に映った、自分の写像を眺める。

 馬鹿みたいに寝こけているはずなのに疲れ切った容貌には、何故だか隈ができていた。女児アニメのプリントが剥げた古いスウェットが、運動不足気味の猫背をみすぼらしく包んでいる。鏡を見るたびに惨めになるから、最近緑子は目をつぶって歯磨きをする。


 顔を洗って歯を磨いたら、また眠る。

 眠っているとき自分は世界に存在しない。だから緑子は寝るのが好きだった。

 目をつぶると嫌な思い出がざらついた痛みと共に思い出されるが、それも意識を失うまでの苦役だと思えば耐えられる。

 

 「緑子さんと付き合ってる姿が想像できないんだよね。ごめんね」

 「風見さん、次のシフト少し減らしてもいいかな? ごめんね」

 「緑子はもう働けなくなっちゃったんだもんね。ごめんね」

 

 彼らはきまって、緑子の人生が惨めなのを、緑子のせいだとは言わない。

 ただ無言のままに、緑子をいらないものとして扱うことによって、責任の所在がどこにあるのかを示してくる。彼女の精神は無言の教化に耐えられなかった。

 自分が無能で魅力のない人間だということなど、最初からわかっている。

 ただ、どんな人間も、自分が本当に無価値だと理解したまま生きることなどできないはずだ。もしも自分の価値をゼロとして定量化できる者がいるならば、その場で死を選ばない選択肢がない。まともな精神を持っているのなら。

 

 緑子にとって、人生とは微睡みに落ちる前の、瞼裏がんりの闇に似ていた。

 いずれ眠りに落ちる時が来る。それまでに思い出してしまった苦痛も喜びも、やがて意識の暗渠へと溶けていく。いま二十八歳の緑子は、あと何回日々を繰り返せば本当の眠りへとたどり着けるだろう。

 死を選ぶほどの気力も、すさんだ生活によって失われるはずの見当識すらも、既に緑子にはなかった。眠り、起き、死へ向かうだけの存在として存在することだけが、自分の日常だ。何もしなければ、もはや苦しいことも起きない。相手に苦しみを与えることもない。緑子は残りの人生を全てつかって、眠る時計になった。

 生誕への恨みすらも擦り切らせたまま、やがて汗のにおいがするへたれた寝床の上に、小さな寝息が流れ始める。いつか本当に来る眠りへの針を着実に進めたことだけが、彼女にとっての幸福だった。

 



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