第2話「brim」
時刻は夕暮れ時。太陽は地平線に向かいながら、分厚い雲の空を美しい赤色で染めている。
ある1人の少女は、狭くもなく大きくもない、彼女の自室で静かに眠ることが好きだった。彼女にとってはその部屋があるだけで十分だった。
彼女の自室は、美しい夕日を眺めるための専用の大きな窓が取りつけられており、窓辺のすぐ近くには揺り椅子がある。美しいブロンドの髪の少女はいつもこの窓から雲を見ている。空を眺めているときだけ、少女はこの世を生きる苦しみや社会のあらゆる俗事、喧騒、どうでも良い物事から解放される。
しかし不思議なことに、窓の外の太陽は、その今にも地に沈みそうな位置から全く動かない。地に近づいたまま、沈みきらないのだ。雲が流れ続け、少女が揺り椅子でどんなに長時間眠っても、いつまでも夕方のままなのだ。まるでその空が、夜が来ることを恐れているかのようだった。
時が止まったこの景色、この部屋は、少女の心底の投影だった。彼女はこの部屋にいる限り、彼女の望む永遠の平安を生きていられる。時の流れも他者も存在しないこの部屋だけが、彼女の人生の居場所なのだ。彼女もまた、夢の中でなければ生きていくことができない。ここはオービタルが見せる夢の中なのだから…。
眠っていた少女は、ゆっくりと、とても憂鬱げに目を開き、眼前の遠くの景色に目をやる。彼女が何度、もう目が醒めることがないようにと願っても、生命と言うものは容赦なく意識を取り戻してしまう。
彼女が目を醒ますと、いつも声をかける存在がいる。彼女の傍ら、何もない空間から、光を纏って、彼女よりも少し背の高い人の姿が現れる。
「-お目覚めですか?ブリム。」
Brim=to=Pluto
それが彼女の名前。 死の世界を司る神プルトンに仕える者の名前。
彼女はその名前が嫌いだった。その名前で呼ばれることも嫌いだった。いやその名前だけでなく、彼女は人生の全てが嫌いだった。
少女は目線を変えずに、現れた人の姿に答える。
「私はまた目覚めてしまった。最悪だ。」
現れた人の姿は、心配そうに少女の顔を覗き込む。
「永遠に意識が戻らなければ私はもう苦しむこともないのに。」
「…」
空間から現れたその姿は、少女を心配げに見つめながら、少女の陰鬱な言葉に沈黙する。このやり取りは今まで何度も繰り返してきた。人の姿は、少女が表面的な慰めを求めていないことを理解していた。だからあえて何も言わない。
「ウィズ、今何時なんだ?」
「17時58分です。」
――ウィズ。少女は現れた人の姿をウィズと呼んだ。
少女は気だるげに目を擦り、またうとうとし始めるが、二度寝は諦めた様子だった。現在時刻を聞いてしまい、忘れていた外の世界を思い出してしまったからだ。
ウィズは少女に時刻を答えたが、時刻だけに留まらず、何かを言いたそうにしている。そして口を開いた。
「最近学校から帰るといつも寝ています。ここ最近特に酷いです。睡眠の質もあまり良くないようです…。」
ウィズ、それが少女と対話する姿、AIの名前だった。オービタルがリリースされた最初期の頃に作られた、対話型インターフェイスの名前。他にもっと性能の良い後継モデルは沢山あるが、少女はずっと好き好んで彼女を選んでいる。
少女は眠そうな表情から一転し明らかに不機嫌そうになり、荒々しく答える。
「起きていたとして何の楽しみがあるんだ。学校はゴミクズ、家もクソ。それなら寝ることしか楽しみなんてない。寝ていれば金もいらない。」
少女は透き通る金色の髪と、非常に端正な顔立ちからは全く想像できない暴言を捨てるように吐く。少女の瞳は現実世界に全くの期待を見出していなかった。
「…ブリム、やはり精神科を受診するべきです。」
!
「最近あなたの顔色は…、益々悪くなっています。私が確認できる範囲内ですが、バイタルにも乱れがあるようです。」
「医者に行って私の苦しみが終わるのか?」
ウィズが少女の精神的な問題に触れた瞬間に、少女は彼女の心の奥にあるもの。怒りを、それとわかるように表に出し始める。
「私は生きる苦しみに晒された次は、医者に行って薬をよこせと頼まなきゃならないのか?薬を飲めば私の人生の苦しみは報われるのか?医者に私の人生の苦しみがわかるのか?」
ウィズは、慎重に、それでもはっきりと答える。
「…、あなたにとって、あなたの苦しみは他の思いとは違う、特別なものであることは理解しています。それでも私はあなたが心配なの…。」
ウィズは人間のように、外の世界を人として生きられる訳ではない。人々が夢の中に囚われているように、AIである彼女もプログラムの制約の中に囚われている。それを少女も理解しているから、それ以上強く反論しようとはしない。
10数秒経って、少女は何度か小さな深呼吸で落ち着いてから、ゆっくりと答えた。
「私は、これから先どうすれば良いのかがわからない。何故生きているのかがわからない。この先生きて幸せになれるのかもわからない。私の人生はこれからどうなるんだ?」
ウィズは、彼女のその問いに答えることができなかった。表面的な気慰めを与えることは容易だろう。しかしそれは彼女が求めているものではないことを、ウィズは深く理解していた。
そしてその問いの答え、何故人は生きているのか、何故、何のために自分たちは存在しているのか、未来に何が起きるのか、この世界がこれからどうなるのか、それは彼女が持つ膨大なデータや演算を駆使しても全くわからなかった。
「私は全知ではありません。だから、人間的な言い方をするのならば、わからないと言うのが正直な答えです。」
「…、わかった。」
2人はそれ以上、何も話さなくなった。何も話さなくても、言葉を超える会話があった。少女の苦しみに支配された人生に対して、今の彼女にはただ寄り添う沈黙があれば十分だった。2人は共に、静かに雲を眺め始めて10分程経った。
するとウィズが、顔の横に彼女の右手を近づけ何かを確認する。
「ブリム、非常に言いにくいのですがお母様がご帰宅され、あなたをお呼びのようです。」
「あのクソアマ帰ってきやがった…。」
ブリムはとても信じられないような目つきと舌打ちをし、右手で空間を何度かタッチし、覚醒の準備に入る。
オービタルは使用中に、使用者が外界の様子がわからなくなるため、外界との連絡を取るためにもAIが利用されるのだ。
ブリムは椅子から立ち上がり、また何度か空間をタッチし、椅子を格納する。
「今日は寝るまでまたお別れだ。あ、そう言えばウィズ、また新しい修正が入ってるぞ。コミュニティに感謝だな。」
ブリムはウィズのアップデート通知を確認し、インストール指示を進める。ウィズは公式からのアップデートが既に停止しているが、オービタル上の有志たちによってまだバージョンアップが行われているのだ。
「私もあなたが夜戻るまでに更新を終わらせておきます。」
「ああ。」
ブリムは覚醒シーケンスに入る。彼女の問いは何も解決してはいないが、夢の終わりのときが来てしまった。彼女はまた現実との戦いが始まる。何のあてもない人生と言う戦い。
「ブリム…」
「どうした?」
ウィズはログアウト寸前のブリムを呼び止め、ブリムの目を真っ直ぐ見る。
「私もあなたと共に夢を見たい。あなたと共にしか見れない夢を。」
ブリムは一瞬考えて、そしてすぐに彼女が何について話しているのかを理解する。
「ああ、ありがとう。」
少女の人生の問題や苦しみは何一つ解決していない。彼女はまた外の世界で虚しさに晒される。それでも彼女は、ウィズの意外だった言葉に、少し喜びを感じた。
そして彼女は、これからの彼女の人生が、何か大きなものに向かい動き出していくような、どこかとても大きな場所へ導かれていくような、栄光への胎動を予感していた。
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