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 開け放った扉の先に、眩しすぎるくらいの青空と爽快な風とがあった。某パーキングビルの屋上。人気の無いその場所が好きで、ハルは何度もここへ来ている。

 いつものように扉を閉めて、もう少し高いところへ行くため緩やかな坂を登る。停められている車は少なく、味気ないコンクリート色が見えるだけだ。青緑色のフェンスが見えてくると、彼女ははっと足を止めた。

 珍しく人がいた。ハルと同じ学校の制服を着ている女子生徒。しかも立っている場所はフェンスの向こう側。


「っ…」


 その下は、工事中で植木も何もないところだ。落下したら死ぬ、かもしれない。

 けれど下手に声を出すことが出来なかった。その女子生徒は何か、自分のテリトリーに無闇に人を入れさせないような雰囲気を纏っていた。

 陰鬱なものでも威圧的な感覚でもなく、今ハルの頬を撫ぜている風と同じくらい——たとえるなら、神聖な儀式の最中のような。


 ふと、彼女が振り向いた。一層強くなった風がその、高い位置で括られた髪を躍らせている。

 女子生徒は何も言わなかったし、ハルもやはり何も言えなくて二人の間にはしばし沈黙が続いた。ああでもこのままじゃ、駄目だ。こちらの存在に気付いてくれたなら言葉も届くはず。

 彼女が——飛び降りる前に。


「とびおりる、の?」


 いまいち現実味のない言葉が自分の口から滑り落ち、緊張感の無いかたちを成した。ぽかんと口を開けていた女子生徒が、その意味を考えるように尚もハルを見つめ返している。

 やがて口元を結び、フェンスに左手をかけて短く「うん」と返事をした。それから何の説明もなしに彼女はフェンスを登り始める。ハルは慌てたが、単にこちら側へ戻ってくる為に上っていただけだった。

 ある程度までフェンスを降り、「ていっ」と場にそぐわない掛け声でコンクリートの上に跳んだ。

 ハルは、何の問題もなしに戻ってきた彼女に困惑していた。


「…いいの?」

「見つかっちゃったからやめようと思って」


 迷惑でしょ。肩をすくめてさらりと言ってみせた。でも、そんな簡単ならどうして——自殺、なんて。

 大体こんなビルの上からじゃあ人目にさらされて当然だ。もしかしたら、人は皆うつむいて歩いているから気付きやしないかもしれないけれど。

 腑に落ちない様子が顔に出ていたのか、相手がちょっと首をかしげて「怒ってる?」と聞いてきた。


「怒っては、ないけど…」

「ごめんね」


 ふるふると首を横に振る。彼女の思考回路はなんだかよく分からない。本当にハルは怒っているつもりなんてなかったのだけれど、何故そんなふうに思ったのだろう。

 考え込んでいると目の前の彼女はこちら側にあった学校指定の鞄を取り上げて肩に掛けた。帰ってしまうのかと思ったが、それ以上動こうとはしていなかった。


「同じ学校なんだ」


 突然、状況から逸れた話題が出た。そうだね、と返すもやはりよく分からない。

 ただそんな話題が出たものだから、彼女がどの学年なのか、自分は彼女を見たことがあるのかどうかを無意識に考えていた。

 襟の線は緑色。ハルと同年だ。


「何組?」

「あ、えっと、二組…」

「そっか。あたし七組」

「…あの」


 何? 言葉と共に軽く揺れた前髪に、陰りは見えない。

 今すべき会話はこんなありふれたものじゃないはず、だけれども彼女がもう先ほどのことを忘れて欲しいのであればむしろ当然の流れなのかもしれない。

 だから少々憚られるのだが、


「どうして…」

「自殺?」


 言葉の重みなどまるでない調子で彼女が言った。注意深く、ゆっくりと頷けば、他人事を扱うくらい簡単に、「合わなかったかんじ」と答える。

 それには、今までの人生は自分には不向きなものだったという意味が込められていた。けれどそんなに冷静な見解で自分の死を片付けようとしている彼女が、なんというか、いじらしい。

 そんなふうに言い切れてしまう『彼女』はなんなのか、知らない自分が惜しい。そんな感覚に囚われた。


「まあ死ぬならもっと人のいないところでやればよかったんだけど」


 続けて彼女は言った。


「どうせ死ぬならここで死のうと思ってたんだよね」

「……どうして?」

「青空見て死にたかったから」


 あおぞら。それが、今自分達の真上に広がっているものだと思い出すとハルは空を仰いだ。

 その青さと、風と、彼女の表情や声音。死なんて程遠い空間なのに、確かに数分前までここに現れる可能性があった。

 それとももしかして、自分がそこから追い出されているだけなのだろうか。下で歩いている人、まだ家路をたどっているかもしれないクラスメイト、当然いつも通りの夜を迎えると思っているはずの、この女子生徒の家族達。

 彼らと同じように。


 ねえ、学校で会ってあたしが声掛けたら返事してくれる?


 歩き出していた彼女が、微かな笑みをみせると共に聞いた。

 ハルはそのまま階段への扉へ向かっていく彼女の姿を目で追ったままで、何を言われたのか思い出すと慌てて声を返した。



『ユーエヌ,』

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