3 - アゲイン

 四階建てアパートの三階が俺の住む部屋だった。左から三番目、四号室。

 本当は三部屋しかない四階に借りたかったけれど、もう人が入っていた。でも、暮らし始めて三ヶ月以上経ってる今もまだ騒音に関する苦情は来ていないから、まあいい。

 いつもより遅くなった六月の夜、帰った家が妙に暖かく明るく感じたのは雨で湿った外気から脱出したからだったかもしれない。でも多分それだけじゃなかった。

 珍しく部屋の電気が点いていて、珍しくテレビが色と音を発していて、それから珍しく座布団の上で声を上げて笑っている風尋がいた。

 一瞬夢でも見てるような気分になったけれど、そういえばこの間札束を渡したところだったから、薬を打って気分が高揚しているところなのだろうと気付いて息をつく。

 ただいま、と一声かけると、おかえりー、と上機嫌な声。このやりとりが自分にどれだけのものを与えて、どれだけまた自分を縛っていくのだろう。


 鞄と弁当の入ったビニール袋を床に下ろして、湿った靴下を脱ぐ。テレビはお笑い番組を映しているようだった。笑い声がテレビと室内とで重なって響く。

 篭に靴下を放り込んで、風尋の隣まで行くと、ばんばんとすぐそこの座布団をたたいて俺が座るのを促した。

 夕飯について聞くと、いらない、という答えが返ってきた。この場合の「いらない」は、「今はいらない」という意味合いであることが多かったので、俺も風尋にあわせて食べようと思った。

 二組のコントが終わったところで、風尋が話しかけてくる。


「あのさ」

「うん?」

「俺、今日死のうと思う」


 —— 一瞬、全ての音が飛んだ。

 フェードインしてくるテレビの音と一緒に、彼が言葉にした話の意味を脳がゆっくりと読み取っていく。

 納得するとか腑に落ちるとかそういうの以前に理解しきれてない状態のまま、風尋がまた言葉を繋いでいく。それを何とか耳に引き込む。


「考えたんだよね。…めっちゃ迷惑かけてるし」

「……」

「このままじゃ、もうさ、駄目だと思うし」

「……」

「駄目だと思うけど、もう直せないと思うんだ、俺」

「………」


 室内に笑い声が響いている。それを遠くに聞きながら、必死に情報を集める。


 駄目だと思う。

 迷惑かけてる。

 直せない。


 だから、死ぬ?


 組み立てなおした彼の言葉を頭の中で唱えて、そこでやっと、何かが崩れたあとだということに気がついた。

 ひとつ大きな呼吸をして、唇を噛んだ。

 駄目だと思う。駄目だというのは思っていた。最初からずっと。けれど上手にとめられないまま。

 迷惑かけてる。迷惑だと思ったことはない。望んでいた。とめられなかったからせめて、味方でい続けたいと、そう願っていた。

 直せない。いつかは元に戻ると、いつかはやめてくれると、心のどこかでそんな希望に縋り続けていた。まだ、そう、さっきのように笑うことも、こうやって話すことも、まともに食べたり飲んだり考えたりすることもまだ出来るのだから、まだ、大丈夫だと


 大丈夫だと


(思って、何もしなかったのが、)


 ———だから、死ぬ。


「……風尋、」

「観朋。俺さ、俺ね」


 体を丸めて、膝に顔を埋めて、まるで泣くように言った。


「生まれ変わったら俺、今度はちゃんとするよ」

「……風尋」

「今度はちゃんとする、きっと。」


 “今度は”なんて

 言わせているのは誰だろう。


 そっと風尋の方を見ると、埋めた顔は向こう側に向いていた。

 窓の外は真っ暗で、星は見えなかった。


「そしたら、やりたいこと、いっぱいあるんだ」

「……」

「観朋とやりたいこと、いっぱい。……まともじゃないと出来ないこと、いっぱいさ」


 だからそのときはよろしく、と言った声は、確かに泣いているように聞こえた。

 ぱっと顔を上げた風尋は、手元にあったリモコンを掴んで電源ボタンを押す。ぶつりとテレビの画面が切れて、死ぬほど部屋が暗くなった。

 お握り買ってきてよ。風尋がそう言って、立ち上がった。玄関まで歩いていって、今日買ってきた弁当の片方をゴミ箱に突っ込んで、もう一度、お握り買ってきて。と。

 頷くのに、かなりの時間を要した。けれど、


 頷いて、


「……わかった」


 友人が笑った。隈の酷い、やつれた顔だった。



 そういえば中学のころ風尋はよく梅お握りを食べていた。

 家には親がいないのが常だったから、適当に銀行から金を引き落としてきて昼食や夜食を買っていた。

 よくそればっかり食べて飽きないなといったら、これが一番美味いからといって、やっぱりそればっかり食べていた。



 家に帰ると風尋は死んでいた。

 コンビニのビニール袋を頭に被って、ご丁寧に紐で縛って、だから、窒息死だった。

 死んでることはもう知っていたけど俺は救急車を呼んだ。警察も来て取調べをしていって、部屋から薬が見つかって、俺も色々聞かれた。

 俺は今まであったことを全て、何一つ違えず伝えた。

 そうしないと風尋は生まれ変わることが出来ないような気がしたから。


 ——生まれ変わったら、

 海に泳ぎに行きたい。あと、スキーとか、なんかのアーティストのライヴでもいい。男二人ってのもなんだけど遊園地とか動物園とかでもいい。

 なんでもいい。

 なんでもいいから、もう二度と、こんなふうにはしない、と、

 もう二度とこんなふうにはしないから、


 もう一度だけやり直したいと、思った。

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