冷えた白パン

 真ん中でフィリップは寐ていた。広い体育館にたった一人で横たわっているその対比は、まるで彼が世界の苦しみを一身に背負っているように私に思わせた。

 裸足で淵から入り、音を立てぬよう近付いて、私はフィリップの顔のすぐ横まで来た。

 もともと白い彼の肌は、灰色の影を落としてもう死んでしまったようにも見えた。けれど私には彼の息が見えているような気がしていた。

 担架に乗せることが出来ない、と救急隊の一人が言った。意識はあるようなのに体を動かしてくれない、とも。

 恐らく彼らはフィリップに触れたくなかったのだろうけれど、実際そのとき私はそんなことに思い至りはしなかった。こんな状態の人間に、自分で動けなんて言っていただろうということにも、怒りを感じなかった。確かにフィリップは動けるはずだった。動かないのは、私を待っていたからだと、そう思った。

 私がそっと、フィリップの手をとり持ち上げる。肌は青白いのに、信じられない程の熱を持っていた。握ると、僅かにフィリップの意識が現実に向いたのがわかった。

 見晴らしのいい場所まで連れていくように、私は彼の手を引いた。朦朧としたようすで、それでも彼は動いた。起き上がりこそしなかったけれど、ちゃんと担架に乗ることが出来た。


「フィリップ」


 ここに私がいるからね。私も一緒に行くからね。そう声に出すことはなかったけど、名前を呼ぶだけで彼はすべて解ったと思う。



 彼は教師だった。その巨体と、彼がスウェーデン人だということと、いつも険しい表情をしていたことの為に、生徒の間では非常に恐れられていた先生だった。

 何を考えているのかわからない。言葉も通じなさそう。暴力すら振るいそうな、憤怒の表情。

 私もはじめはとても怖かった。とにかく彼は、難しい顔ばかりしていたから、私たちも学校もなにもかも嫌っている印象が深かった。

 あるとき、彼に廊下で出会ってしまって、びっくりした私は咄嗟に、さっきまでかじっていたパンを「あげます」と差し出していた。多分物を献上することで自分の身を守ろうという防衛反応だったのだけれど、すぐにそのパンが食べかけなのを思い出し、私はとんでもないことをしてしまったと背筋を凍らせた。

 彼の顔を見ると、不意をつかれたような表情をしていた。そして、そっと私の指先に手を伸ばし、最後にはひったくるようにしてパンを受け取った。


 彼にとってそのパンが、異国での生活ではじめてのプレゼントだったということを私は後に知ることになる。

 彼は、人に好かれたい気持ちはあるけれど、上手く接することができない、不器用なひとだった。故郷を飛び出したのは自分の人生をやり直すためだったのだけど、差別と恐懼は彼を疑心暗鬼にしていくだけだった。

 私はそんな彼の姿を知って、もっと普通に接してみようと思うようになった。接しているうちに、不器用さや小さな優しさを愛しく思うようになった。


 けれどもその時期には、生徒たちの恐れは排斥の気持ちに変わっていた。ある男子が強がりで言ったフィリップへの悪口が広まって、見事なまでに嫌われ者になってしまっていた。学友は皆私に、フィリップに近付くなと言った。それでも私は毎日フィリップに会いに行った。

 いつしか私は生徒たちに変わり者扱いされるようになった。だからと言って私には何も気にするべきことがなかった。フィリップが私の全てになっていて、フィリップも私が全てになっていることを感じたから、私はとても閉鎖的な気持ちになっていた。



 救急車の中は寒かった。この病気は、気温の高さが致命傷になるのだと言っていた。フィリップの体は相変わらず熱い。だから、私は平気だった。フィリップが私を温めてくれるから、救急車の中で隣にいても大丈夫だった。

 クリーム色に近い色をした金髪をかきあげてやる。汗くらいかいててもいいようなのに、少しもそんなことはなかった。ただ、熱が私の指に纏わり付くだけで。

 大きな体に抱きつきながら、私は、きっとみんな勘違いなのだと思っていた。私がフィリップを恐れたり、皆が根も葉も無い悪評を信じたりしたのと同じように、この原因不明と言われている病気だって実は気のせいで、ただの風邪なんだ。触れても伝染うつったりはしないし、誰も死んだりしない。そう思い込んでるだけで、夢を見ているようなものなんだ、と、そう思っていた。


「…フィリップ。大丈夫だよ。私はここにいるよ」


 呟くように言うと、眠っていたフィリップが急に体を起こして、私に口づけをした。いつだって、彼の行動はこんなふうになんの前触れも説明もない、突然のものだった。彼の舌は私の舌を焦がしていくみたいに凶暴だったけど、それは単に必死なだけなのだと私は知っている。こんなに不器用で必死で、だから愛されないなんて、なのに愛されないなんて、もう無しだ。

 私がここにいるから、彼は生きてゆけるはずだった。これからも、ずっと、今までと同じように。

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