その聖女、前世は魔女と呼ばれた殺し屋でした
蟹三昧
プロローグ
※読み飛ばし可
「プロローグなんてまどろっこしいぜ!」という方は、第1話からどうぞ。
雪は音もなく降り続き、街外れの古びた倉庫を白く覆っていた。
もう何年も使われていないのであろう。
錆びついたシャッターは歪み、隙間から吹き込む風が、低く唸るような音を立てている。
中は薄暗く、古い油と湿った埃の匂いが、ツンと鼻を刺した。そんな、決して居心地が良いとは言えない場所に、ふたつの人影があった。
一人は、縄で縛り付けられた初老の男。
仕立ての良い背広に、磨き上げられた革靴。政治家か、官僚か、はたまた会社の重役か――。金と権力の匂いが、まるで体臭のように、全身から滲み出ていた。
だがこの男が、何者で、どんな罪を犯し、いかなる恨みを買ったのか。〝彼女〟は知らない。
知る必要もない。ただ、命じられたとおり――裁きを下しに来ただけなのだから。
その、もう一人。
東洋系の女は、こんな寂れた倉庫には似つかわしくない、華やかなドレスを身に纏っていた。
深紅の布地は細身の身体をなぞり、裾のスリットからは、白く長い脚がのぞく。
艶やかな黒髪に、赤い口紅。オリエンタルな色香を纏ったその姿は、埃と油の匂いが充満するこの倉庫内では、あまりにも異質であった。
女は、感情の欠片もない冷ややかな表情で、男を見下ろしている。
「キミ……いや、お前は、一体何者なんだ?」
男は、わなわなと震えながら問いかけた。
床に這いつくばったまま、必死にその顔を見上げている。額には脂汗が滲み、歯がカチカチと、小さく鳴っていた。
「……さあ? でも、みんなは〝魔女〟って呼ぶわ」
顔色ひとつ変えず、静かな声で、女は答える。
同時に、カチッ――と銃口が上がり、男の顔色がみるみるうちに蒼白へと変わっていった。
「な、なに……!? 〝魔女〟って、あの――」
男の目が、大きく見開かれる。瞬きすら忘れたように固まり、喉の奥からは、かすれた音が漏れた。
それは、彼が生きる業界で、知らぬ者はいない。正体不明の、伝説の殺し屋の名だった。
だが、男が恐怖を噛み締める間もなく――乾いた銃声が、その嘆きを断ち切った。
体が僅かに震え、次の瞬間。
まるで
「……なんだ、知ってたんだ」
女は、心底どうでもよさそうに呟くと、視線を外し、銃を下ろした。
◇
港町の路地は、夜の帳と、降りしきる雪に閉ざされていた。
先ほどのドレスは、倉庫に脱ぎ捨ててきた。今の彼女は、フード付きのダウンジャケット姿だ。
ヒールの音は消え、足元には防寒ブーツ。ドレスも、死体も、証拠も――すべて、後処理係が引き取る。
彼女が、あの場所を振り返ることはもうない。
女は、灯りの少ない通りの一角で、通信端末を耳に当てて立っていた。長い黒髪が、フードからこぼれ、肩先で凍えるように揺れている。
『……任務、ご苦労だった』
受話口の向こうから響くのは、落ち着いた男の声。低く、温度を感じさせない声だった。
「そっちの処理は?」
女は問い返す。手袋越しに持った端末は、使い古されたガラパゴスな専用通信機。
旧式の回線を使用するこの機体には、発信地も特定されず、通話履歴も一切残らない。彼女が仕事で使用するのは、いつもこの旧式端末だった。
『終わった。迎えを寄越している。そこで待て』
「了解。三分後には、ここを離れたい。この雪だし……道、塞がれてないといいけど」
『……問題ない。だが、あちら側の護衛が勘付いたようだ。……気を抜くなよ』
ぷつりと、通話が切れる。
「……はいはい。わかってますって」
女は受話器を下ろし端末を折りたたむと、ポケットへと滑り込ませた。
白い息をひとつ吐き、空を見上げる。雪は音もなくしんしんと降り続いていた。
ふと彼女は、別の端末――私物のスマートフォンを取り出す。画面をタップし、ロックを解除した。
迎えが来るまでの短い間。〝彼女自身〟に残された、数少ない娯楽の瞬間だ。
通知をひとつ開いたその瞬間。先ほどまで感情を欠いていた瞳が、子供のように輝きだし、わずかに見開かれる。
「……え、うそ」
画面には、ゲームニュースの速報が流れていた。
凍てつく空気の中、彼女の指がかすかに震え、頬もみるみる紅潮していく。
「えっ、マジ? どうしよう、嬉し過……ッ」
――パァン。
その歓喜の言葉が終わるよりも早く、銃声が響いた。
乾いた破裂音とともに、彼女の体がわずかに弾かれ、スマートフォンが手から滑り落ちる。
その体はふわりと――雪を汚す血の匂いよりも先に、柔らかな雪の上へと倒れ込んだ。
そして、手から滑り落ちた端末の画面が、静かに光を放ち続ける。そこには、
『輝石が紡ぐ王国で始まる、見習い魔女の選択と冒険が再び――アルカナ∽クォーツ十五周年!HDリマスター発売決定!』
という見出しとともに、瑠璃色の髪の少女のイラストが浮かんでいた。
彼女の顔には、まだ微かに驚きと喜びが残っており、夢を見ているかのような、安らかな表情であった。
その横顔に、静かに雪が降り積もっていく。
白い雪に包まれ、まるで憑き物が落ちたような顔をしている彼女だが、この先には、なお過酷な運命が待ち構えている。
――この物語は、かつて〝魔女〟と呼ばれた殺し屋が、〝聖女〟として生き直し、やがて辿り着く世界と、己の運命を書き換える、救済の記録である。
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