第二話 お弁当が繋ぐ秘密、 そして恋の予感
柚葉が遥にお弁当を届けた翌日から、
学校中では二人の関係が噂になり始めていた。
朝、教室に入った瞬間から、
女子たちのひそひそ話が耳に飛び込んでくる。
「ねえ、見た?昨日、一条先輩の妹さんが
お弁当届けに来てたんだよ!」
「マジ!?一条先輩に妹いたんだ!全然知らなかった!」
「しかも、なんかめちゃくちゃ可愛かったよね?」
昼休みになると、噂はさらにヒートアップする。
クラスのあちこちで、女子たちが小さな輪になっては、
興奮した声で囁き合っている。
「可愛い!」「仲良しすぎ!」「いいなー、妹さん!」
「あの完璧な一条先輩が、
妹さんのお弁当を食べるなんて意外!
普段はコンビニ弁当ばっかりなのに!」
といった声が耳に届くたびに、
柚葉は内心苦笑いしつつも、
周囲からの好奇の視線に
居心地の悪さを感じていた。
まるでスポットライトを浴びているかのように、
教室のあちこちから視線が集まってくる。
特に、クラスの中心にいる明るいグループの子たちが、
しきりに柚葉の方をちらちらと見ては、
何かを言いたげにしているのが分かった。
噂は瞬く間に広がり、
あっという間に学年中の話題になっているようだった。
廊下を歩くたびに、
今までとは違う視線を感じる。
それは悪意のあるものではなく、
ただ純粋な興味や羨望が混じったものだったが、
それでも柚葉は落ち着かない気持ちになった。
まるで、いつ剥がれるかわからない
薄い仮面を被っているような、
そんなソワソワした感覚がつきまとった。
一方、遥は学校では相変わらずクールな王子様を装っている。
その姿勢は、微塵も崩れることがない。
周囲の騒がしさも、彼の耳には届いていないかのように、
いつも通りの無表情で授業を受け、
休み時間も静かに過ごしている。
だが、柚葉にはそれが分かる。
朝、家を出る時、遥の視線が少しだけ
柚葉の持っている弁当袋に向けられること。
その一瞬の視線の動きに、
遥の隠しきれない期待が滲んでいるのを、
柚葉は見逃さなかった。
そして、弁当を食べる昼休みには、
いつもより少しだけ、彼の口元が緩むこと。
遥は決して言葉には出さないけれど、
柚葉が作ったお弁当を心から楽しみにしている様子が、
柚葉には確かに伝わってくるのだ。
その小さな変化が、柚葉の心を温かくする。
同時に、彼の完璧な仮面の下に隠された
「干物」の素顔を知っているのは自分だけ、
という秘密の共有感が、
柚葉の胸にひそかな優越感をもたらしていた。
「今日も、美味しく食べてくれてるかな……」
そんなことを考えながら、柚葉も自分の弁当を広げた。
今日のメインは、遥が特に好きだと言っていた
鶏肉の照り焼きだ。
彼が喜んでくれる顔を想像するだけで、
柚葉の心は満たされていくようだった。
昼休みが終わり、五限目の授業が始まる直前。
突然、教室のドアが小さくノックされた。
コン、コン、と控えめな音だが、
その場にいた全員の視線が、一斉にドアに集まる。
クラスメイトたちのざわめきが、
ピタリと止まった。
そこに立っていたのは、一条遥だった。
遥は、右手に空になった弁当箱を提げ、
いつもと変わらない涼しい顔で、
柚葉の担任の先生に小さく会釈した。
「すみません、桜庭にこれを返しにきました」
その一言で、再びクラス中がざわめく。
女子たちの間で「キャー!」という小さな悲鳴が上がり、
「わざわざ返しに来たんだ!」「優しすぎない!?」
「何あれ、もしかしてラブラブじゃん!?」
といった興奮した声が聞こえてくる。
柚葉は、教室の真ん中に立ち尽くす遥に、
思わず固まってしまった。
まさか、遥がわざわざ教室まで返しに来るなんて。
そんなこと、今まで一度もなかったのに。
柚葉は慌てて自分の席から立ち上がり、
早足で遥の元へ駆け寄った。
「お、お兄ちゃん……じゃなくて、先輩!
わざわざ、その……ありがとうございます!」
柚葉は小声でそう言うと、
遥から弁当箱を受け取った。
弁当箱は、綺麗に洗われていた。
彼なりに、気遣ってくれたのだろうか。
遥は柚葉の顔をちらりと見ると、
普段より少しだけ優しい声音で、
「ああ。美味かった。助かった」とだけ呟き、
再び小さく会釈して教室を後にした。
彼の背中が見えなくなるまで、
教室のざわめきは収まらなかった。
柚葉の心臓は、まだドキドキと高鳴り続けている。
まるで、教室のざわめきがそのまま
自分の胸の中で響いているかのようだった。
放課後、柚葉は人目の少ない昇降口で
遥を待っていた。
今日のクラスメイトからの視線は、
いつも以上に柚葉の心をざわつかせた。
一刻も早く、学校という「表」の場所から離れて、
「裏」の顔を知る家へと帰りたかったからだ。
しばらくして、遥が姿を現した。
昇降口には他に生徒の姿はなく、
二人きりの静かな空間が広がる。
西日が差し込み、二人の影を長く伸ばす。
遥は柚葉の隣に立つと、
周囲を気にするようにちらりと見回し、
それから柚葉の耳元に、こっそりと親密に呟いた。
その声は、昼間の教室で聞いたものよりも、
ずっと穏やかで、親しみがこもっていた。
「今日の弁当、美味かった。助かった」
その瞬間、柚葉の胸がドキリと高鳴った。
心臓が跳ねるような感覚だ。
こめかみのあたりがじんわり熱くなってきて、
思わず視線をそらしてしまった。
耳の奥まで、熱が伝わってくるようだ。
学校でのクールな先輩と、
家でのだらしない干物兄。
そして、今、二人きりの場所で見せる
優しい声と表情。
遥の学校と家でのギャップに戸惑いつつも、
彼が自分の料理を心から喜んでくれることに、
柚葉は大きな喜びを感じ始めていた。
遥の「美味い」の一言が、
柚葉にとって何よりも大切なご褒美になっていく。
それは、まるで魔法の言葉のようだった。
柚葉は、遥の料理への反応が
自分の心を映す鏡のように感じられるようになる。
遥が美味しそうに食べてくれるから、
柚葉ももっと美味しいものを作ろうと思える。
彼の笑顔が見たいから、頑張れる。
この日から、遥という存在が、
柚葉の心により深く刻まれていった。
柚葉の心は、電子レンジの中のバターみたいに、
じゅわじゅわに溶けていくような感覚だった。
家に帰り、自室のベッドに横になった柚葉は、
今日の出来事を何度も思い返した。
昇降口での遥の優しい声、
そして「美味かった」という言葉。
胸の奥がキュンと締め付けられる。
これは、兄に対する気持ちとは少し違う。
何かが、確実に変わり始めている。
遥の干物な姿を知る「秘密」が、
柚葉にとって特別な共有体験になっていくことを
示唆しているようだった。
柚葉の頬は、熱いままだ。
夜空を見上げると、星が瞬いている。
この秘密は、星空の下、
二人だけのものとして輝き続けるのだろうか。
そして、このささやかな恋の予感は、
一体どこへ向かっていくのだろう。
誰にも見せない彼の笑顔を、
私だけが知っている──それだけで、十分だと思っていた。
でも──、柚葉の心は、
この関係に、もう一歩踏み出したいと、
ひそかに願い始めていた。
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