干物王子!おにいちゃん ー私がいないとホントに干物になっちゃうー
五平
第一話 突然の家族、お兄ちゃんの正体は完璧な干物
料理が大好きな高校一年生、桜庭柚葉は、
今朝も慣れた手つきでお弁当作りに勤しんでいた。
フライパンの上でジュワッと心地良い音を立てる
玉子焼きの甘くて香ばしい匂いが、
まだ寝静まったリビング全体にふんわりと広がる。
それは、柚葉にとって、幼い頃からずっと、
どんな時も心を落ち着かせ、
自分だけの小さな“居場所”を与えてくれる、
かけがえのない大切な時間だった。
湯気とともに立ち上る料理の匂いは、
柚葉の心をいつも温かく包み込み、
穏やかな気持ちにさせてくれる特効薬だ。
いつか「食べる人を心から笑顔にする、
最高の料理人になりたい」と、
ぼんやりとした、けれど柚葉の心の中では
確かな夢を胸に抱いていた。
そんな、ごくごく普通の高校生活を送っていた
柚葉の日常が、
ある日突然、激変することになる。
それは、母親からの突然の再婚発表だった。
夕食の食卓でその話を聞かされた時、
柚葉は味噌汁をよそっていた手を、
ぴたりと止めてしまった。
お玉がカチャリと小さな音を立て、
味噌汁の表面が微かに揺れる。
その揺れが、柚葉の心の動揺を
そのまま映しているようだった。
驚きと、そして少なからぬ戸惑いを隠せない柚葉。
しかし、さらに衝撃的だったのは、
新しい義兄となる人物が、
なんと学校で誰もが憧れる、
あの完璧な生徒会長、一条遥だと知らされたことだ。
一条遥。
その名前を聞いた瞬間、
柚葉の頭の中には、
学園の王子様と称される彼の姿が鮮明に浮かんだ。
いつも乱れることなく完璧に整えられた制服に身を包み、
どんな時も涼しい顔をしていて、
成績は常にトップ。
運動神経も抜群で、体育祭ではいつも脚光を浴びる。
まさに非の打ちどころがない、絵に描いたような優等生。
女子生徒からの告白は後を絶たず、
男子生徒からも尊敬を集める、
学園中の憧れの的だ。
そんな彼が、自分の義兄になるなんて。
信じられない気持ちで、柚葉はもう一度
味噌汁の器に目を落とした。
「お、お母さん、それって、本当なの……?」
か細い声しか出せなかった。
母親は少し申し訳なさそうに、けれど幸せそうに、
柚葉の顔を覗き込みながら優しく頷いた。
遥は柚葉の一つ上の学年で、
まさかの同じ高校。
元々同じ学区だったため、
不思議な巡り合わせで縁があったのかもしれない。
最初は週末の顔合わせだけの予定だったはずが、
遥の父親の急な転勤が決まったことで、
なんと一週間後には同居開始という
あまりにも急な展開になったのだ。
柚葉の心には、新たな家族ができることへの
期待よりも、
大きな戸惑いと漠然とした不安が
募るばかりだった。
これから一体どうなってしまうのだろう。
自分の平穏な日常が、
音を立てて崩れていくような予感に、
柚葉は胸騒ぎを覚えていた。
まるで、予測できない台風の進路を前にしたように、
心がざわついて仕方なかった。
私はその夜、一人で台所に立ちながら、
何度も“お兄ちゃんになる人”のことを考えていた。
一条遥先輩。
完璧すぎて、遠い存在だったあの人が、
まさか家族になるなんて。
想像するほどに、不安が大きくなっていった。
この一週間、柚葉は母と何度も話し合った。
特に寝る前のひとときは、
温かい紅茶を二人で飲みながら、
母の膝の上で不安な気持ちを打ち明けた。
「遥先輩はどんな人なんだろう。
うまくやっていけるかな……」
そんな柚葉の不安を、母は優しく聞いてくれた。
「大丈夫。きっと、いいお兄ちゃんになるわよ」
母の言葉は、柚葉の心を少しだけ軽くしてくれた。
けれど、心の中のざわめきは消えなかった。
そして、運命の同居開始の日。
柚葉は、重たいリュックを背負いながら、
期待と不安が入り混じった複雑な気持ちで
新しい家の玄関のドアを開けた。
「ただいま……」
心臓がドクンと大きく鳴る。
緊張で、全身の血の巡りが悪くなったような感覚だ。
そこに立っていたのは、母親の隣に立つ、
見慣れないけれど確かに一条遥の顔をした
義兄の姿があった。
彼は、学校で見る、あの完璧な王子様姿とは
似ても似つかない、
ヨレヨレのジャージ姿。
髪はボサボサで、眼鏡は鼻の半分までずれ落ち、
手にはゲームのコントローラーを握りしめている。
「おう、いらっしゃい。俺が一条遥だ。
……ま、今日からよろしくな」
気だるげな声でそう言ったきり、
彼は視線すら合わせようとしない。
まるで、そこに柚葉がいないかのように、
再びゲーム画面に集中し始めた。
「え……?」
柚葉は目を疑った。
これが、学園の王子様と呼ばれる一条遥?
信じられない。
柚葉は一瞬、何かの間違いではないかとすら思った。
自分の認識と、目の前の現実とのギャップに、
頭の中がフリーズしそうだった。
彼の部屋に案内された時、柚葉はさらに衝撃を受ける。
足の踏み場もないほど散らかった床には、
脱ぎ捨てられた衣類や漫画雑誌が散乱し、
食べ終わったカップ麺の容器や
空のペットボトルがゴロゴロと転がっている。
洗濯物もたたまず放置されたまま、山になっている。
まさに、完璧なる「干物兄」がそこにいた。
「お兄ちゃん、家でジャージは
やめて~~!」
心の叫びがこだまする。
柚葉は、その光景に眩暈がするほどの戸惑いを覚えた。
頭の中の王子様像が、音を立てて崩れていく。
学校での一条遥は、
いつも清潔感あふれる制服をきちんと着こなし、
髪も乱れず、どんな時も冷静沈着で、
どこから見ても絵になる存在だ。
それが家では、こんなにもだらけきった
「干物モード」になってしまうなんて。
そのギャップは、想像をはるかに超えていた。
同居生活が始まって、数日が経過した。
柚葉が「お兄ちゃん」と呼ぶたびに、
遥は学校でのピシッとした姿から、
家でのだらけた「干物モード」へと
切り替わる。
そのスイッチングの描写を見るたびに、
柚葉はそのギャップに
思わず笑ってしまうのだった。
まるで、目の前で変身ヒーローが
オフモードになるのを見ているような気分だ。
柚葉が作る料理だけが、
遥にとっての唯一の楽しみだった。
毎日の食卓で、遥は柚葉の作った料理を
まるで宝物のように目を輝かせながら食べる。
「うめぇ……柚葉、お前、天才か?」
そう言いながら、夢中になって食べ始める遥。
その嬉しそうな顔を見るたびに、
柚葉は内心ほっとすると同時に、
少しだけ誇らしい気持ちになった。
彼の胃袋を掴むことは、
意外と簡単なのかもしれない。
「私がいないと……ホントに干物になっちゃう」
柚葉は、呆れつつも、そんな感情を抱き始めた。
どこか、放っておけない気持ちも芽生えていた。
この干物っぷりは、私にしか知らない秘密だ。
そう思うと、少しだけ優越感もあった。
学校では遥の妹だと知られていないため、
クラスメイトからは
「一条先輩って、完璧だよね!」
「そういえばさ、一条先輩に妹できたって噂、
ほんとかな?」
「えっ、再婚したってやつ?生徒会の
三好先輩が言ってたんだよ、
『一条先輩、妹できたんだって』って。
ガチらしいよ」
といった、ひそひそ話が聞こえてくる。
そのたびに柚葉は複雑な心境を抱いた。
もし、彼らの憧れの遥先輩の真の姿を
知ったら、どう思うのだろう。
こんな干物モードの遥先輩を見たら、
幻滅してしまうのではないか。
そんなことを考えるたびに、
柚葉は胸の奥がチクリと痛んだ。
この秘密は、絶対に守り通さなければ。
そんな決意が、柚葉の心に芽生え始めていた。
まるで、秘密の共有が二人の絆を
少しずつ深めているかのように感じられた。
それは、少しだけドキドキする、
けれど心地良い秘密だった。
けれど、この秘密を知る者も、
いずれ現れるのかもしれない。
そんな予感が、柚葉の胸をよぎる。
同居生活が始まって数日。
家では干物ぶり全開の遥先輩にも、
少しずつ慣れてきた……と思っていた矢先。
ある日の朝、珍しく遥がひどく慌てていた。
「やべっ、弁当忘れた!」
遥の大きな声に、柚葉は思わず顔をしかめる。
遥は普段から忘れ物が多く、
特に弁当はしょっちゅうだった。
呆れつつも、柚葉は仕方なく、
遥が忘れた手作り弁当を持って学校へ向かった。
昼休み、賑やかな声が聞こえる遥の教室の前で、
柚葉は立ち止まる。
どうやって呼び出そうか。
迷っていると、中から遥の声が聞こえた。
意を決して、柚葉は小さな声で遥を呼んだ。
「お、お兄……一条先輩!」
柚葉の声が届いたのか、教室中が、
一瞬にして静まり返った。
全ての視線が、針のように柚葉に刺さる。
柚葉の心臓が、ドクドクと警鐘を鳴らし始めた。
遥が驚いたような顔でこちらを見た。
「桜庭、どうした?」
遥は普段のクールな表情を保ったまま、
柚葉に近づいてくる。
その時、遥のクラスメイトたちが
ひそひそと囁き始めた。
「あれ……あの子、もしかしてウワサの……?」
「えっ、あれが一条先輩の妹?」
「ちょ、マジ!?ってか、かわいくね?」
ざわめきが大きくなっていく。
教室の空気が、突然、凍りついたみたいだった。
遥は柚葉の顔を見て、少し眉をひそめる。
柚葉は焦りながら、差し出した弁当が
小刻みに震えるのを感じた。
「あの……一条先輩。これ、その、わ、忘れ物です!
………あっ、ち、ちがう!お、お弁当た、食べてください!」
思わず口から出た言い間違いに、顔が真っ赤になる。
『お願い、お願いだから……今だけは“妹”って
呼ばないで……!』
遥は少し目を丸くしたが、すぐに表情を戻した。
サッと弁当を受け取ると、
柚葉の顔をじっと見つめ、ふっと小さく微笑んだ。
その笑顔は、教室では見たことのない、
少しだけ優しい表情だった。
まるで、身内にだけ見せる顔のように――。
遥は、弁当を受け取る一瞬だけ、
頬をかすかに赤らめながら、視線を逸らした。
まるで「ありがとう」が口にできない
不器用な人みたいに。
遥はふと、柚葉の手元に視線を落とす。
器用に詰められた弁当。
──昔、母が作ってくれた弁当も、
こんなに温かかっただろうか。
「ああ、助かる」とだけ言って、
すぐに教室へ戻っていった。
そのクールな対応と、一瞬の笑顔に、
柚葉は内心ホッとしながらも、
胸の奥がじんわりと温かくなった。
もう少し、話したかったな。
そんな幼い感情が胸をよぎる。
二人の関係がクラスメイトにバレかける
ハプニングに、
柚葉の心臓は高鳴りっぱなしだった。
まるで、ジェットコースターに乗っているような
ドキドキ感が止まらない。
これが、二人の最初の大きな山場となる出来事だった。
この日を境に、柚葉の日常は、
一条遥という存在を中心に、
少しずつ、しかし確実に、色を変えていくことになる。
柚葉の恋心が、まだ見ぬ未来へと
そっと芽吹き始めた瞬間だった。
しかし、この穏やかな日々がいつまで続くのか、
柚葉はまだ知らなかった。
この秘密が、いつか誰かに知られてしまうかもしれない。
そんな、ほんのわずかな不穏さが、
柚葉の胸に小さな影を落とした。
──もしも、彼がいつか遠くへ行くことになったら。
私は、今日みたいに、彼の弁当をまた作れるのかな。
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