第26話 ラグナロク

 数日が過ぎていた。


 あの日、ブリュンヒルデが泡で目をやられた騒動も、クララがニンジンを投げ飛ばした一幕も、今となってはすでに“日常の風景”として上書きされている。

 今日は彼女と一緒に、外の物干し場にいた。
ダイゴは洗った布巾を持ち、ブリュンヒルデはロープに登ってピンチで止めている。
なんてことない昼前の風景――だった。

 ――その音が鳴るまでは。


「……ッ!?」


 天地がひっくり返るような轟音だった。
空気が重く沈み込み、腹の底を強引に揺さぶる衝撃。音というより、世界が軋んだような、そんな感覚。


「うわっ、な、なんだ今の……!?」


 思わず布巾を落としそうになる。

 胸がざわつく。嫌な汗が背中を伝う。音の正体が、理解できない。


「……聞こえたな」


 ブリュンヒルデが、ピンチを握ったまま、ぴたりと動きを止めていた。
その表情は、いつもの陽気な顔とはまるで違っていた。
眉が寄り、瞳が鋭く光っている。


「ギャラルホルンだよ、あれは」

「ギャ……ラ、何?」

「ギャラルホルン。見張り神ヘイムダルが吹くって言われてる。始まりの角笛」


 彼女の声は、明確な重みを帯びていた。


「始まりって、まさか……?」

「ラグナロク」

「……っ」


 言葉が詰まる。

 ラグナロク。
その名前だけは、何度聞いてもなぜか深く胸に突き刺さる。
滅びと死と、選ばれた者たちの最期の戦場――そんな、漠然としたイメージだけが。


「間違いない。あーしら、ついにそのカウントダウンに突入したんだよ」


 そう言いながら、ブリュンヒルデは空を見上げた。青く晴れていた空。けれど、何かが違って見える。音はとっくに消えたのに、空はまだ騒いでいるような気がした。


 ◇◇◇


 その頃――

 オーディンは、書斎の奥深くで静かに立っていた。
分厚い石の壁に囲まれたその部屋で、彼は何も言わず、ただ静かに天井を仰いだ。


「……ヘイムダル。よくやった」


 声は低く、響きもしない。


 だがその言葉の奥にあったものは、長きにわたる孤独と、後戻りのできない覚悟だった。

 彼は机の上に置かれた銀の兜を手に取る。


「運命に従うつもりはない。我は、抗うために立っている」


 片目の神は、ゆっくりと回廊に向かって歩き出す。

 その背中は重く、けれど確かな力を宿していた。


 ◇◇◇


 角笛が鳴り響いたあと、ヴァルハラには奇妙な静けさがあった。

 騒ぐ者は誰もいない。泣く者も、叫ぶ者もいない。ただ皆が、“自分のやるべきこと”を理解し、粛々と動き出していた。


 ヴァルキュリアたちは、ソフィアの号令で武具室に集まっていた。

 普段着ている制服――ブーナッドを模した白いブラウスと、刺繍入りのスカートは丁寧に畳まれ、棚にしまわれている。
その代わりに、各自のサイズに合わせて調整された銀の鎧が、部屋の中央に並んでいた。


 ブリュンヒルデは、自分の赤い鎧の前で仁王立ちしていた。
タンクトップの上に直接装甲を巻きつけようとするので、隣のソフィアに即座に止められる。


「下着の上に直で装備は、倫理的にも衛生的にも問題があります」


「これがあーしのスタイルなんだよ!」


 ノリと勢いだけで突き進むその姿は、どこまでもブリュンヒルデだった。

 クララは、慣れないバックルに手間取っていた。胸元のプレートがうまく止まらず、イングリッドが後ろからそっと手を添える。


「ありがとう、イングリッドさん……あれ? なんか泣きそう……」


「泣くのは終わってからよ。いってらっしゃいって、笑って送り出してもらえるように」


 軽く笑い、髪を後ろでひとつにまとめ、鎧の縁をきっちりと締める。


 一見、いつも通りの彼女に見えたが、その目には一切の冗談がなかった。


「これ以上何か失いたくないって思うの、贅沢かしらね」


 独りごとのように呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 ノラは、厨房の隅で、静かに手袋を装着していた。
鎧の下に包丁を一本だけ忍ばせるのを見たブリュンヒルデが、笑いながら茶化す。


「おーいノラ、それ戦場で使う気かよ?」


「……わたし、もっと料理がしたい」


 ノラは、ただそれだけを言った。


 ◇◇◇


 一方――
戦士たちも、広場に集まり始めていた。

 槍を研ぐ者。兜をかぶる者。背中合わせに言葉少なに笑う者たち。


 皆、顔に傷があり、手には覚悟があった。
けれど、誰一人として“死に場所を探している”者はいない。


 彼らは「勝利のために」戦いに向かう英雄の魂たちだった。

 ある老戦士が、膝に剣を立てながら呟いた。

「いよいよ……本番じゃな」

 隣にいた赤ら顔の戦士が、ニッと笑う。

「女に尻を叩かれてここまで来たからな。最後くらいカッコつけようぜ」

 広場の空気が、徐々に熱を帯びていく。

 それでも、どこか静かだった。
 無駄な声を上げず、誰かに命令されるでもなく、全員が自然と「整列」していく。

 戦いの準備が整ったのだ。


 広場に、ヴァルキュリアと戦士たちが集まった。

 風は肌を撫でるように穏やかで、空はどこまでも澄み切っていた。
 ただひとつだけ違っていたのは、そこに漂う“覚悟”の色だ。


 そして、漆黒の蹄を鳴らしながら、一頭の馬が現れる。


 八本の脚を持つ異形の馬――スレイプニル。
その歩みに揺れるたてがみは風を切り裂き、どこかこの世のものではないリズムを刻んでいる。


 オーディンは、馬上で己の身を包む長衣を脱ぎ捨てた。
その下にあったのは、深紅と黒で構成された戦装束。
 肩には重厚な獣骨の装甲が巻かれ、胸にはかつて彼が葬った巨人の紋章が刻まれている。


 そして、背からゆっくりと――一本の槍が現れる。

 グングニル。
神々すら恐れた、“一度放てば必ず敵を貫く”破滅の槍。
刃の縁には、細やかなルーン文字が流れ星のように走り、槍全体が静かに脈打っている。

 彼の右目はすでに失われていたが、残された左目には曇りがなかった。


 それは神の眼光であると同時に、帰りを待つ者すべてに誓う、“見守る者”の眼差しでもあった。

 周囲の空気が変わる。誰も言葉を発せず、誰も動かない。
神が本気で戦うとき、この世はほんの少し、静かになる。

 オーディンは静かにただ前を見据えた。


「我は一足先に神々と合流する」


 それだけを告げると、彼はゆっくりと馬の手綱を引いた。
スレイプニルの八本の脚が地を蹴ると、地鳴りのような音が空間に響く。


「我が子らよ……運命に抗え。存分に」


 その言葉は、神の命令ではない。


 誓いだった。

 祈りだった。

 ――そして、別れの言葉でもあった。


 スレイプニルの姿は次第に光に包まれ、やがて風のように、空気の綻びに溶けて消える。
そこに残されたのは、静寂と、熱と、そして決意の余韻だけだった。


 そしてヴァルハラの門が、ゆっくりと開かれる。


 遠く、戦場に続く雲の大地がゆっくりと姿を現す。
 風が巻き、空気が震え、神話の歯車が音もなく回り出す。

 戦士たちとヴァルキュリアたちが、整然と列を組み、出陣の歩みを始める。


 その最前列――門のすぐ前に、ダイゴがひとり仁王立ちしていた。

 鍋も包丁も持っていない。ただ、空っぽの両手と、真正面を向いた目だけが、そこにあった。

 先頭の戦士が彼の前を通りかけたとき、ダイゴは静かに口を開いた。


「……俺は、剣を持って戦うことはできない。奇跡も起こせない。ただの料理人だ」


 戦士は驚いたように一瞬目を向けたが、すぐに表情を引き締め、無言で頷いた。

 その横を白馬に乗ったソフィアが先陣を切るように現れる。

 彼女はダイゴに向かい静かに頭をさげると、そのまま前を向き通り過ぎて行く。

 その目は今までの鉄仮面じゃない、柔らかさがあった。

 ダイゴは軽く頷くと言葉を続ける続ける。


「だけど――鍋を持って、お前らの帰りを待つことはできる」


 次に通ったヴァルキュリアが、ふっと鼻で笑ったように見えた。


 だがその顔には、敬意が宿っていた。


「うまいもん作って待ってる」


 その言葉に、誰かが拳を軽く掲げた。


 誰かが鞍の上から、黙って親指を立てた。

 行進は止まらない。
けれど、その一歩一歩が、ダイゴの言葉に耳を傾けていた。


「だから……」


 ダイゴは一瞬、言葉に詰まった。


 目の前を通る仲間たちの背を、ひとりひとり見る。


「全員、『ヴァルハラ飯店』に帰ってこい」


 風が吹いた。
門の向こうに向かって進んでいく仲間たちの足取りが、少しだけ力強くなる。


「帰ってきたやつから順に、飯食わせる。肉も野菜も、デザートも。おかわりもある。……でも乾杯は、全員揃ってからな」


 その瞬間、ひとりのヴァルキュリアが涙をこらえながら笑った。
ある戦士は拳を握り、ある者は馬の背で静かに頷いた。


 クララ、ノラは一緒に馬を引いて現れた。


 クララが真っ先に声を上げる。


「ダイゴさん! 次はおにぎり以外もマスターしたいです!」

「おう、なんでも教えてやる」

「やったー!」


 ノラは言葉を交わさず、ダイゴの前に立つと、鍋を持つように両手を構え、無言の“仕込みポーズ”を見せた。

 ダイゴは笑って親指を立てる。


 門へと向かう流れは続く。

 足音、馬の嘶き、甲冑の音。

 ダイゴの前を通り過ぎていく彼らは皆、笑顔を向ける。

 それは決して無理やりなものじゃない。


 流れの中にイングリッドを見つけた。

 目があうと彼女はこちらに小さく手を振った。

 合間に見えた彼女の横にはヘルギ。その手は互いにしっかりと握られていた。

 かつて、人を信じることにすら怯えていたイングリッドが、今は誰かの手を握っている。
 その事実に、ダイゴは一瞬、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


「……ちゃんと、前を向けてるんだな」


 小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかったが、風に乗って届いたような気がした。

 気づけば、もう誰もいなかった。
 門の前には、ただ静けさと広い空だけが残っていた。
 


 ――いや、ひとりだけ。

 遠くに、紅い髪。褐色の肌。
ブリュンヒルデだった。
馬には乗らず、手綱を引きながら、ゆっくりと歩いてくる。
最初は小さく見えたその姿が、徐々に大きく、輪郭をはっきりさせながら近づいてくる。

 ダイゴは自然と口元を緩め、片手を上げた。


「ブリュン。お前の分の飯は――」


 その瞬間だった。

 最後の数歩を小走りに詰めるように近づいた彼女が、一歩踏みこむ。

 何の前触れもなく、勢いでも冗談でもなく、ただ静かに唇を重ねてきた。


 時間が――止まった感覚。
蹄の音も、空を撫でる風さえも、すべてが遠のく。
その場にはただ、彼女の体温と、わずかな息づかいだけ。

 驚き、戸惑い、何かを言おうとして――でも、何も言えなかった。


 彼女は顔を離し、ふっと笑う。
あの、いつもと変わらない笑顔で。


「……じゃあな! 童貞はとっとけよ!」


 それだけを叫ぶと、彼女は軽やかに馬にまたがった。
一切の余韻も未練も残さず、ただ、走り出す。

 門を越え、雲の海へと飛び込んでいく。


 ダイゴの前には、もう誰もいなかった。

 それでもそこには、確かに“何か”が残っていた。

 静かで、熱くて、そして温かい余韻だけが。

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