〈幕間〉アンシアにて

ユーバインからの手紙


 アンシアの山々が秋色に染まる頃、フェネットの里に数通の手紙が届いた。

 里長フェリクスとその息子たち宛てに各々と、墓前に供えるための手紙が一通。

 それらに加えて、もう一通……己の名が記された手紙を、ルタは胸に抱いた。


 たどたどしい筆跡の人族語で記された表書きには、かの大帝国ヒルダガルデの通行検印が捺されている。差出人は、半年前に帝国へと渡った、里の宝と等しきフェリクスの愛娘フェリチェだ。

 いち使用人に過ぎない己が、姫直筆の手紙を受け取ることを畏れ多く思いながらも、同時にルタは姫にとっての特別である光栄に身を浸す。


 一人になりたい時、ルタは里の外れに向かう。危険だからと誰も寄りつかない断崖で、ルタは初めて手紙の封を切った。

 中から淡い橙色の便箋を引っ張り出し、ルタは小さく安堵の笑みをこぼす。

 覚束ない宛先と違って、柔らかく流れるような筆跡で書かれたアンシア語の一つ一つを、ルタは懐かしく思いながら目で追った。


『親愛なるルタ。お元気ですか?

わたくしは先の宣言通り、ただ一人の花婿を探すため、ユーバインの街に根を下ろしました。

お父様の仰る通り、外の世界はたくさんのひとやもので溢れていて、目が回りそうです!』


 迷子になっていやしないかと、はらはらしつつも、ルタは微笑ましく手紙を読み進める。


『お父様たちには、ご心配をおかけすると思って、お伝えしなかったのだけれど……。ルタには本当のことを話しておきますね』


 こうやって一緒に秘密を抱えさせられることは、昔からよくあった。やれやれと思いながらも、こうして自分だけを特別に扱ってくれる姫のいじらしさに、毎度絆されてしまうのだから、ルタも甘い。


『実は、わたくし……ユーバインに着いて早々に、人間の暴漢に襲われたのです』


 ルタは掛けていた木の根から、腰を浮かせた。どうしようもないのだが、居ても立っても居られなかった。


『人間なんて、大嫌いだと思いました。やはり分かり合えないのだと。

ですが……、危ないところを助けてくださった方がいたのです。その方もまた、人間の男性でした』


 若く、見目麗しい男が姫を颯爽と助けに入る光景が、ルタの脳裏に勝手に広がった。

 純朴で、恋に焦がれる姫様はきっと、それでまたころっと行ってしまったのだろうな……と思うと、何だかルタは面白くない。


『お名前はイェディエル様と仰います。学者様で、ご自身で図鑑なるものをお書きになられる、たいへん博識なお方です。

穏やかで、一緒にいると時間がゆったり感じられるお人柄でいらっしゃいますが、研究のこととなると、……他にない熱意を見せられるので、たいへん驚かされます』


 心なしか手跡が震えている。何かあったのだろうか、とルタは不思議に思うが、姫の手紙にはイェディエルという男がいかに信頼に足る人物かを説く言葉ばかりが並ぶ。

 姫にそこまで語られる男に、うっすら嫉妬心を燻らせるルタだったが――。


『でもね、わたくしが彼を安全だと感じたのは、一番初めに聞いた声が、どこかルタと似ていたからなのよ?』


 砕けた口調で書かれた一文が、何よりも特別で、ルタは嬉しくなった。


『あとは、お父様にもお伝えした通りです。わたくしはイェディエル様のもとでお世話になっております。助けていただいたご縁と、彼のお作りになる×××……図鑑に興味を惹かれたのです』


 不自然に、何か訂正したような部分を日に透かし見ると、図鑑という文字の下に「お食事」と読むことができた。

 そういえば……と数節前を読み返してみると、男の作る料理についての評論が、やたらと詳細に記されている。これは餌付けされたな、とルタは苦笑を否めなかった。


『彼のもとで読み書きを学びながら、わたくしはわたくしで、花婿候補の図鑑を作っています』


 ルタの口はあんぐり開いて、声にならない嘆きは風にさらわれた。

 姫様は何か、とんでもない方向に走り出したらしい。これまでなら、そばで見守りながら、危ない時には軌道修正だってしてやれた。だがこの手紙が届いている時点で、それももはや手遅れなのが、何とも言えずルタをそわそわさせた。


 手紙を読み進めるのが恐ろしくなりながらも、ルタは目を背けることができない。懐っこく語りかけてくる声さえ聞こえてきそうなフェリチェの文字を、目が勝手に追ってしまう。


『気になる殿方が、できたりもしたのですが……、なかなかうまくはいかないものです。真実の愛とは何か、見極めるにはまだまだ、わたくしには足りないものが多いようです。

しかし、これだけたくさんのひとが溢れる国ですから、きっとどこかで運命の一人に出会えると信じて、歩み続けます。

必ずルタを安心させられる殿方を連れて帰るから、待っていてね』


 そう締めくくられた便りを丁寧に封筒へ戻し、ルタは深く息を吸って、吐いた。手紙を開いてから初めて、まともに呼吸できた心持ちがした。


 少ししか齢の変わらない姫とは、物心ついた時からずっと一緒で、こんなに長いこと離れたことはなかった。

 手の届かないところに行ってしまったことが寂しいのは当然ながら、同時に、やはりついていかなくて正解だったと、ルタは安堵した。

 そばにいたら、こんな風に凪いだ心で見てはいられない。口を挟み、手を出して、時には姫の心に潜り込んだ男に嫉妬するかもしれない。

 そうしたら、フェリチェとこんな風に語り合うこともできなくなるのだと思うと、ルタはやはりこの場所に落ち着いていたくなる。


 恋人とも友人とも家族とも違う、他にはない存在として姫の幸せを願い見守ることが、ルタに許された特権で幸福だ。


 ◇ ◇ ◇


 断崖を後にしたルタは、空になって久しいフェリチェの部屋を、いつものように掃除に向かった。

 いつ帰ってきてもいいように……というよりも、姫との思い出に埃をかぶせたくなくて、懐古に浸りながら手を動かす。


 初夏用の羽織り物に刺していた野花の刺繍は、芽吹きかけのまま秋を迎えてしまった。

 完成品をお披露目してもらえる日を指折り数えて、ルタは今日も丁寧に作業台を磨く。


「ルタ、やはりここにいたか」


 不意に掛けられた声に顔を上げると、戸口にフェリクスの長男フェレスが立っていた。頭の天辺で一つに括って、背に垂らした雪白の髪が、たてがみのように優雅に揺れる。

 ルタはフェリクスにするのと同様に、膝をついてこうべを垂れた。


 寛大に、顔を上げるよう促した後で、フェレスは砕けた調子で口を開いた。


「フェリチェからの手紙を読んだか? 元気そうで、一安心だな。しかし……」

「いかがされましたか?」

「実際には、どうなのか――とな。手紙も、フェリチェと同じで、海を超え山を越え届けられたのだ。記されてから、随分経っただろう。今はどうしているだろうか……。不思議と、食いっぱぐれている気はしないのだが」


 フェレスの口ぶりからして、彼宛ての手紙にもどうやら、居候先の食事について熱弁が奮われていたことが窺える。


「父上も口にはされないが、気になっているようでな」


 しかし長として、里を空けるわけにもいかない。そんな葛藤からか、フェリクスの尻尾はどこか落ち着きがないようだ――とフェレスは父の様子を苦笑まじりに語った。


「わたしが妹のもとへ赴けたらいいのだが。しかし、まもなく親となる身だ。初めてのことで何かと心細かろう妻に、ついていてやりたい。それでだな、ルタ。お前がヒルダガルデへ渡り、フェリチェの様子を見てくるのはどうか――」


 その申し出は、ほぼ命令と同義だ。ルタは断れる立場にない。……ないのだが、断れる理由もどこかにないか、懸命に探した。

 その場は一先ず従順に場を取り繕って、後でフェリクスのもとを訪ねることにした。なんにせよ、長の承諾なしに海を渡るわけにもいかないのだ。


 ※ ※ ※


 フェレスが取り次いでくれたおかげで、夕餉の前にフェリクスへのお目通りが叶った。

 ルタが一度声をかけたくらいでは気付かないほど、フェリクスは無心で手許に目を落としていた。そこには便箋が何枚も重なっている。漆黒の紙の束に、ルタは目を見張った。


 黒色はフェネットに敬意を示す色だ。黒いものを贈る心には「この世にあなたほど眩く輝くものはありません」、そうへりくだる意味がある。

 フェネットの長に宛てた手紙に黒の便箋を用いるとは、なんと粋で細やかな心配りか――それを選んだ姫の姿を思い浮かべて感嘆の息を吐いた。


「……おお、ルタか。フェレスが無理を言ったようだな。お前には苦労をかける」

「とんでもございません。身に余るほどの信頼を頂戴していること、光栄に思います」

「そう畏まるな。さて、ルタよ。フェレスの申し出だが、お前はどうしたい?」


 まさかそう問われる用意はなく、ルタはすぐに言葉が出なかった。


「わたしが一つ命ずれば、お前を送り出すのは容易いことだが、お前は果たしてフェリチェに会う覚悟があるのか――と気になってな」


 フェリチェが里を離れて半年。何も変わらぬことはあるまい、とフェリクスの声は深く静かだ。思い出を磨いているルタには、酷な現実もあるのではないかと心配している様子だ。


 ルタが言葉を探す間、部屋は静かだった。表の木で休んでいた隼が翼を開く羽音さえ、間近に感じられる。

 フェリクスも黒い便箋を撫でながら、じっと待っていた。何かとても喜ばしいことが記されているのだろうか。愛おしむように細められた目を見ているうちに、ルタの心は決まった。


 フェリチェがルタの知らないものになっていたとしても、その心は変わらない。そう思ったら、なぜか無性にあの笑顔が恋しくなった。

 どんな理由を並べて自分を納得させようとしても、会いたい思いに勝るものが見つからなくなってしまったのだ。



 ◇ ◇ ◇



 ルタはその晩、フェリチェに返事がてら、訪問の意志を告げる内容の手紙をしたためた。変に緊張して、必要以上に堅苦しい書き出しになってしまう。納得いく頃には、丸めた便箋が山となっていた。


 親愛なるお嬢様……、から始まる手紙が姫の手に届くのは、まだ少し先の話だ――。






〈次回は……二人の関係に大きな進展が♡〉

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