新しい記憶
姫様がお望みの……、降り注ぐ陽光のようにそっと触れるだけ。たったそれだけの、挨拶程度の口づけだ。
その後は見つめ合ってはにかむ……がご所望だったはずだが、そのような初々しさなど、イードは持ち合わせていないので、口づけを終えた後のフェリチェの様子をまじまじと観察した。
翠玉の瞳は大きく見開かれ、その下の頬は化粧もしていないのに紅色に染まっている。見つめるほどに、色付きはますます深くなるようだ。
触れたばかりの淡紅色の唇は細かに震え、声とも息ともつかない、微かな音が洩れる。
やがてその音が、はっきりとした呻き声に変わるとともに、毛布の下でフェリチェの体が大きく跳ねた。
フェネットのしなやかな筋肉と、強靭な膝のバネで、フェリチェは覆い被さるイードを押し返す。
突然のことに、なんの構えもなかったイードは、寝台から転げ落ちた。
「いったた……なに、どうかした?」
「き、貴様っ……いま、くちっ……口にっ……!」
ひどく狼狽えて、フェリチェはうまく言葉を紡げない。何とか意味の伝わる形に整えるが、どもってしまった。
「なぜ、口にしたっ……」
「えっ? だってキス、だから?」
「フェ、フェリチェがされたのは、おでこだ!」
「ええぇ……?」
そう言われてイードは、数回瞬きする間に、再び一日を振り返った。フェリチェが披露宴から帰ってきて、キスされたとわめき、やたらと打ちつけていたのは……。
「……ああ、おでこだ」
それなら、フェリチェに色魔呼ばわりされた男の軽率な振る舞いの
おまけに、フェリチェが想定の数段上を行く純情な娘ということも再確認できたので、額くらいで……とは言わない。
「でも、今日の君の口ぶりじゃあ、どう考えたって口にされたものだと思うけど」
「あ、あんな恥知らずなオスと、口と口でキスだと? そんなことになっていたなら、フェリチェは舌を噛んで去ぬ!」
「そう。じゃあ俺は?」
「う……む?」
ずいと身を寄せて、イードは小首を傾げる。
「俺となら、いいの?」
「い……、い……いいわけあるか! どうしてくれるっ……。返せ、フェリチェの初めて!」
「返せって言われてもなあ。とりあえず、もう一度したら、返したことになるかな?」
「なるか、馬鹿者!」
フェリチェは一分の隙も見せぬよう毛布をすっぽり被り、さながら甲羅に籠る亀のようだ。
「最低だ! フェリチェの記憶は、上書きどころか、新たに唇を奪われた記憶にすり替わってしまったではないか!」
「じゃあ、どうする? 一応おでこにもしておく?」
「何でそうなる!」
亀は甲羅から、不信の目だけ覗かせてぼそぼそと語る。
「イードがフェリチェを、どう思っていようと……。お前のようなオス……、大切な図鑑に載せてなどやるものか。お前は――変だ。一緒にいると、フェリチェも変になる……。きっと、フェリチェには毒なんだ」
ああ、そう――と。
いつもの素っ気ない相槌を打つイードだが、言葉のわりに声音は穏やかで、どこか嬉しそうでもあった。
「でもドクイモって、美味いよね。チェリも好きになっただろう? 研究してみないと分からないことって、たくさんあるよね」
イードは己の存在を知らしめるように、毛布をちらりとめくる。
「だっ、黙れっ。覗くなっ。あっち行けぇ!」
「ここ、俺の部屋なんだけど」
「……うっ。そ、そうだった。すまない……、フェリチェが出て行くっ。出て行くから、ついてくるなよ!」
律儀なことに寝台の上をきちんと調えて、フェリチェは扉に向かった。その背に、ひたすらのんびりとした声が掛かる。
「眠れそう?」
「眠れると思うかっ? 明日の仕事に影響が出たら、貴様のせいだからな!」
入ってきた時と同様にけたたましく扉を鳴かせ、フェリチェは自室へ駆け戻った。
* * *
布団に潜り込んで、ぎゅっと目を瞑るが、案の定眠気などやってこようはずもない。
ほんのちょっと触れただけの唇の感触が蘇っては悶絶する……を、幾度となく繰り返すのは昼間と同じなのに、どういうわけか今度は背筋ではなく胸がざわついた。
(……違う、違う。イードさんなんて……ちっとも、なんとも……)
真実の愛は、もっと甘美で情緒的であるべきなのだ。なのに、イードときたら……情緒も順序もあったものではなくて、フェリチェはいつも、うっとりするどころかびっくりさせられてばかりだ。
(そ、そうよ。この胸の昂りは戸惑い……。恋慕などではありませんのよ!)
厚みの増した花婿図鑑を抱いて、フェリチェは自分に言い聞かせる。
結局、一睡もできぬまま朝を迎えたのだが、夜中にフェリチェの頭突きの音が響くことは一度もなかった。
〈次回は……二人の関係に大きな進展が♡〉
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