第31話 決戦のフェルマータ

和泉 律の心の中で、過去の「月蝕の庭」での経験と、アトリエ「ノクターン」での現在が、美しいハーモニーを奏で始めた。完璧を求める苦しみから解放され、不器用でも確かな「音」を奏でられる喜び。その律の「音」は、アトリエの仲間たちを強く支え、彼らの「路地裏のコンチェルト」は、今や大阪の街全体に響き渡ろうとしていた。


NPO団体との連携は、着実に成果を見せていた。アトリエのウェブサイトやSNSは、日ごとにアクセス数を増やし、「#路地裏のコンチェルト」は、単なるハッシュタグではなく、アトリエの存続を願う人々の合言葉となっていた。クラウドファンディングの支援額は、目標金額に達し、彼らの活動を経済的に大きく後押しすることになった。


**星宮 灯(ほしみや あかり)**がデザインしたオリジナルグッズは、瞬く間に人気を集めた。彼女の描く温かいタッチのイラストは、見る人の心を癒し、アトリエの魅力をストレートに伝える。グッズを手にした人々が、「私もアトリエを応援しています」とSNSに投稿するたび、灯は小さな喜びを噛み締めていた。彼女の「沈黙の音色」は、今や多くの人々の心に届く、確かな「色彩の歌」となっていた。


**瀬戸 美緒(せと みお)**の作品は、NPOの仲介で、公共のスペースでの展示が実現した。彼女の彫刻は、都会の喧騒の中に、一服の清涼剤のような安らぎをもたらした。作品の前には、いつも人だかりができ、人々は美緒の創り出した美の世界に、静かに見入っていた。美緒は、遠巻きにその様子を見つめながら、その表情には、確かな自信と、深い満足感が浮かんでいた。


**風見 拓人(かざみ たくと)**のアトリエのテーマ曲は、地元のラジオ番組で取り上げられ、そのメロディは大阪の街中に響き渡った。彼のライブパフォーマンスには、多くのファンが集まり、彼らはアトリエの「音」に熱狂した。拓人は、もう過去の挫折に囚われることはない。彼の「弦の軋む音」は、かつての痛みを乗り越え、アトリエの「居場所」を守るための、力強い「希望の歌」を奏でている。


そして、**佐倉 結月(さくら ゆづき)**は、彼らの活動の全てを、冷静に、そして情熱的に支え続けた。メディア対応、クラウドファンディングの管理、そして何よりも、メンバーたちの心のケア。彼女の存在が、この「路地裏のコンチェルト」の全てを包み込み、調和をもたらしていた。


アトリエの活動が、社会に大きな波紋を広げ始めた、その矢先だった。


アトリエに、再開発会社からの最終通告が届いた。それは、アトリエの立ち退き期限を明記した、最終的な通知だった。彼らがどれだけ抗っても、法的な手続きは、彼らの「音」とは別の次元で、確実に進行している。


律は、その通知を見て、一瞬、体が硬直した。これまで築き上げてきた全てが、この紙切れ一枚で消されてしまうかもしれない。再び、無力感が彼を襲おうとした。


しかし、その時、律の耳に、アトリエの仲間たちの「音」が響いてきた。


拓人のギターの、力強くも優しいメロディ。美緒の、静かに、しかし確かな存在感を放つ彫刻。灯の、色彩豊かな、そして希望に満ちたイラスト。そして、結月の、全てを包み込むような温かい声。


律の心の中で、「見えない音符」たちが、一斉に、力強く主張し始めた。彼らは、もう怯えるだけではない。彼らは、ここで見つけた「居場所」を、簡単に手放すことはしない。


「まだだ…」律は、静かに呟いた。「まだ、終わってない」


律の言葉に、アトリエのメンバーが、それぞれの「音」で応えるように、律の方へ視線を向けた。彼らの瞳には、不安と共に、確かな闘志が宿っていた。


再開発という巨大なオーケストラに対し、彼らは、この「路地裏のコンチェルト」という、不揃いだが、魂のこもった演奏で立ち向かおうとしている。最終的な「楽章」に向けて、彼らの「音」は、今、最後のフェルマータ(音を長く伸ばす記号)へと向かっていた。それは、彼らがこの場所で奏でてきた全ての「音」を凝縮し、未来へと力強く響かせようとする、決意の響きだった。


続く

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