第2章「お願い、吸わせて」
連絡先を交換してすぐの週末、少女と吸血鬼はカフェでランチを食べる約束をした。
談笑をしながら注文した商品が運ばれるのを待つ。
今日は雨雲もなく、カフェのすりガラスの向こう側に見える空は青く澄み渡っていた。
「お待たせしました。ペペロンチーノです」
吸血鬼の前に、湯気の立つ皿が置かれる。 彼女は慣れた手つきでフォークを取り、スッとパスタを巻き取ると、優雅に口元へと運んだ。 その所作には、日常に溶け込んでいるような自然さがあった。
「……吸血鬼って、ニンニク苦手なんじゃないんですか?」
少女は笑いながら、おどけるように尋ねた。
「迷信よ。少なくとも、私は平気」
吸血鬼は落ち着いた口調で返すと、ペペロンチーノを口に運び、しっかりと噛んで味わう。 その様子は、まるで人間と何ら変わらない。 だが、サラダの皿から刻みネギに気づいた瞬間、わずかに表情を曇らせた。
「……ネギの方が、まだ苦手ね」
少女は思わず吹き出す。
「ネギ!? なんか、現代人っぽい……」
休日の昼下がり、駅前のカフェはほどよく賑わっていた。 テーブル越しの空気もやわらかく、まるで少しずつ満ちていくような安心感に包まれていた。
食後、カフェを出て二人で歩き出す。
「お姉さん、今日も楽しかったです」
少女の無邪気な声に、吸血鬼はうっすらと笑みを浮かべる。 「そう。私も、楽しかった」
言葉の切れ間に、不意に距離が近づく。 髪を撫でるように触れる細い指先。 そして、少女の耳元に、熱のこもった囁きが落ちる。
「……お願い。吸わせて?」
鼓膜をなぞる甘い声音。 その一言が、少女の全身に微かな震えを伝える。 湿った空気のなかで、吸血鬼の呼吸が肌に触れ、服の繊維が擦れ合う微かな音が響いた。
少女は無言のまま、首筋をそっと差し出す。 吸血鬼はその動きを受け止め、唇をそっと首筋に押しつける。
彼女の吐息が首元にかかり、濡れた服の襟が擦れる。 ちゅっ、と控えめな音を立てて肌を吸い、牙を、今度はゆっくりと、ねっとりと立てた。
少女の身体が少しだけ揺れる。 だが、吸血鬼は彼女を腕でしっかりと支えながら、静かに血を吸っていった。
細く、小さく、けれど確かに命の一滴を味わうように。 指先は背中をなぞり、甘やかな支配のように包み込む。
終わったあと、吸血鬼は首筋にそっとキスをしてから、少女の髪を優しく直してやる。
首筋に残る血をゆっくりと舌で舐め上げる。
ザラザラとした感触が少女の身体を小刻みに震わせた。
その反応を見て、吸血鬼は静かに目を細める。
「ありがとう。今日もあなたのお陰で、元気になれたわ」
吸血鬼の声が耳元で直接響く。
「……良かったです、力になれて」
まだ身体がフラフラとしているようで、返事はとても小さな声だったが、吸血鬼には十分だった。
「このまま一人にはできないわね。家まで送らせてくれる?」
吸血鬼の提案を断る理由はなかった。
ふたりで並んで、少女の家に向かって歩いていく。
夏の生ぬるい風が二人を包み込む。
湿度が高い空気がネットリとまとわりつくような感覚。
「……暑いですね、やっぱり」
「ええ。熱中症に気をつけるのよ」
そんな普通の会話も、蝉の声に隠されていくような気がした。
その翌日、少女の家のチャイムが鳴った。
扉を開けると、そこに吸血鬼が立っていた。
手には、ガラス瓶に詰められたハーブティーと、小ぶりな紙袋。
「急にどうしたんですか……?」
少女が驚いたように眉を上げると、吸血鬼は静かに微笑んだ。
「昨日、少し貧血っぽく見えたから。ちゃんと休めたのか気になって」
「……え、あ、はい。全然、大丈夫です!」
受け取った紙袋の中には、手作りの焼き菓子と、冷たく冷えたゼリー。
可愛らしくラッピングまでされていて、少女は思わず目を丸くした。
「えっ、わざわざ作ったんですか?すごい……!」
「少しだけよ。余ってた材料で作っただけ」
吸血鬼はさりげなく視線をそらした。照れているようにも見えたが、それ以上は何も言わない。
少女は笑顔で頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます。じゃあ……お礼に、またどうぞ」
そう言って、当たり前のように自分の髪をかき上げ、首筋を見せる。
その仕草に、吸血鬼の目がわずかに揺れる。
「……ねえ」
声のトーンが、いつもと違う。
「あなた、自分が何をしてるか、わかってる?」
少女はきょとんとしたまま、吸血鬼を見つめ返す。
「……だって、お姉さん、元気が出るって言ってましたよね?」
その一言に、何かが崩れたように、吸血鬼の瞳が細められる。
次の瞬間、ぐいっと腕を引かれ、玄関の壁に押しつけられていた。
吸血鬼の手が、少女の両肩をしっかりと壁に固定する。
その距離は、呼吸ひとつ分もないほど近い。
「ねぇ、本当に……わかってないのね」
彼女の吐息が少女の頬に触れる。
声は低く、震えていた。怒りでも焦りでもない。
もっと、欲望に近い何か。
少女は逃げる様子もなく、ただその顔を見上げている。
「わかってないかもしれないですけど……お姉さんが元気になるなら、それで……」
その言葉に、吸血鬼の目が細くなる。
「やっぱり、あなたは危うい」
囁くように言って、彼女はそっと指先で少女の首筋をなぞった。
吸血鬼の手が、少女の後頭部をそっと支える。
その手つきは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。
そして、唇を近づけながら、もう一度囁いた。
「ほんとに……何も疑わないのね」
囁くように吐かれた言葉に、少女はかすかに頷いた。
「だって、お姉さんが、怖いことする人じゃないって知ってますから」
その返事に、吸血鬼の指先がぴくりと震えた。
ふっと笑ったあと、声を潜めて囁く。
「じゃあ……もっと深く、欲しがってもいいわよね?」
そして、今までよりもハッキリと、低い声が耳に響く。
「お願い、吸わせて」
耳元に吐きかけられた息が、肌の奥まで痺れを残す。
少女が目を閉じると、吸血鬼は唇を彼女の首筋へと押し当てた。
ちゅっ、と小さな音を立てて吸い付く。
牙を立てる前に、わざと唇だけで肌を舐め、何度も、ねっとりと触れる。
肌を這う舌の感触に、少女の肩がビクンと揺れる。
その反応に、吸血鬼は目を細め、そしてそっと唇を首筋に押しあてた。
柔らかく、優しく、まるで口づけのように——だが、すぐにそれは変わる。
唇のあと、牙がゆっくりと立てられる。
今までよりも深く、ねっとりと。
首筋に伝わる熱と圧、そしてほんの少しの痛み。
「……んっ」
少女の喉から、微かな声が漏れる。
彼女は手を壁についたまま、吸血鬼の身体に全体重を預ける。
吸血鬼は、細く長い指先で少女の腰を撫でながら、しっかりとその体を支える。
血の味を確かめるように、吸っては離し、また吸って。
吐息が耳にかかるたび、少女の身体が震える。
「やっぱり……あなたの血は、特別」
吸血が終わっても、彼女はまだ首筋に唇を這わせていた。
甘く、執着するように。
そして、舌先で血のにじんだ跡をゆっくりと舐め取る。
その粘るような動きに、少女は肩をすくめた。
「ありがとう。お礼、ちゃんと受け取ったわ」
吸血鬼は、少しだけ笑って髪を撫でる。
けれどその目は、どこか焦燥に似た熱を宿していた。
少女はまた、無防備な笑顔のままで、「また差し入れ、してくださいね」と無邪気に笑っていた。
吸血鬼は微笑んだまま黙っていた。
「差し入れ」という言葉の裏に、少女の“許可”があることが、どうしようもなく嬉しくて、怖かった。
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