第1章「あなたのお陰で、しばらくは生きていけそうよ」

「……違う」


吐き捨てるように、そう呟いた。


献血パック。

今日も、職場から“こっそり”持ち帰ったもの。

同僚には見つからないよう、廃棄処分予定の中から選んだ。

少し古いが、栄養価はある。いつもなら、十分なはずだった。


けれど今日は、喉を通っても何も感じない。

甘みも、温度も、命の気配すらも。


「……どうして」


冷蔵庫に残るパックを手に取り、もう一度口元へ。

一気に喉奥へ流し込む。

二つ目。三つ目。

満たされるどころか、空虚が広がっていく。


「あの子が……ほしい」


自分の声に、ぞっとする。


ハッと我に返って、慌てて口元をぬぐう。

震える手でパックを握りしめ、無理やり中身を飲み干す。


忘れろ。

あの体温を。あの香りを。あの血の味を。


確かに、ただの吸血鬼かもしれない。

それでも、人間と共に生きると決めた。

何百年も、そうやってやってきた。

理性の檻に、己を閉じ込めて。


それなのに――たった一滴、少女の血を吸っただけで。


吸血鬼の中の何かが、壊れ始めていた。


「私は……化け物じゃない……そう思ってたのに」


言葉は震え、すぐにかき消える。

心臓が、痛い。

胃の奥が焼けつくように熱い。

だが、少女の顔が吸血鬼の頭から離れない。


もう、気づいている。

献血パックでは満たされない身体になってしまったことに。


――あの子の血が欲しい。


どうしようもなく、喉が渇いていた。





先程までは雲ひとつない青空だったはずなのに、

気づけば空の色は少しずつ鈍く、重たくなっていた。

昼下がりの光も、どこかぼんやりと白く霞んでいる。


「天気、変わるのかな……」

少女は立ち止まり、スマホの天気アプリを開いた。

ゲリラ豪雨注意の通知が画面に浮かぶ。

地図には、小さな赤い塊が自分の位置に近づいていた。


その時、不意に小さな雷鳴が遠くで鳴った。

まだ降っていない。風もない。

けれど、なぜか――肌の内側がざわついた。


すぐに耳をふさぐほどでもない音だったはずなのに、心臓だけが跳ねる。


少し深呼吸をして顔を上げた、その時。


前方の交差点。

信号待ちの人々の奥――歩道の影に、見覚えのある姿が立っていた。


白いブラウスに、黒い髪。

街の色に溶け込んでいるのに、なぜかひときわ目を引いた。

その人は、こちらをじっと見ていた。


思わず数歩だけ近づいて、まばたきする。

人混みの間に隠れかけたその姿が、またふいに見える。


「……お姉さん?」


呼んだ声は、自分でも驚くほど小さかった。

その瞬間、彼女はふわりと微笑んだように見えた。

信号が青に変わる。少女が再び歩き出すと――

先にいた彼女も、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。


どこにでもある夏の日の街角。


「……偶然ですね」

吸血鬼は、あの日と同じように優しく声をかけた。

だがその微笑みは以前とは違い、少しぎこちなかった。


「お仕事、忙しいですか? お姉さん、疲れてるように見えます」

少女は相変わらず無邪気で素直に声をかける。

お姉さんはその様子を見て、安心しているように笑った。


「そうですね。でも、あなたの顔を見ると、何だか落ち着きました」

「それなら良かったです」


そんなたわいもない会話を繰り返しながら、2人は自然と横並びになって歩いていた。

2人の様子は友人のように仲が良さそうで、とはいえ親戚の叔母と姪のように少し距離があった。

相変わらず空は灰色に覆われていたが、雷鳴も2人にとっては楽しい会話のキッカケになる。


少女の大学の目の前に到着すると、吸血鬼は不意に路地へと少女を引っ張った。

細い路地に入った途端、空気がひんやりと変わった。

外の喧騒が遠ざかり、まるで時間までが静かに沈んでいくようだった。


吸血鬼は立ち止まり、少女の方へと向き直る。

その瞳は、何かを堪えるように揺れていた。


「……お願い、吸わせて」

か細く、掠れた声だった。

甘えるように、縋るように。

けれど、どこか必死で――どこまでも苦しげで。


少女は一瞬、戸惑いの色を浮かべた。

けれど次の瞬間には、小さく頷いて、ゆっくりと髪をかき上げる。


髪をかき上げて、白いうなじを露わにする。

そのしぐさに、怖れも戸惑いもない。

ただ静かに、過去の恩に報いたい――その一心だった。


吸血鬼は笑った。

その笑みには安堵も、満足も、後悔もなかった。

あまりに自然で、あまりに滑らかで、はじめからこの展開を望んでいた者の顔だった。


吸血鬼は少女の髪をそっと払うと、かすかにその指先が耳に触れた。

少女の肌がびくりと震える。

静寂の中、衣擦れの音と、吸血鬼の浅い呼吸がすぐ傍で聞こえる。

唇がゆっくりと首筋へ近づく。まるで、ためらいがちなキスのように――触れるだけのように。


少女は目を閉じた。遠くで雷が鳴る。

ぽつりと、雨が落ちてきた。


吸血鬼は首筋にくちづけたあと、そっと牙を立てた。

小さな音――皮膚が破れる、かすかな“ぷつっ”という音がした。

すぐに、ぬるりとした熱が舌に広がる。少女の体がびくりと震えた。


一滴、また一滴。

吸血鬼は血の味を確かめるように、ゆっくりと吸い始めた。

そのたびに、少女の呼吸が浅くなる。

首筋にあたる唇の熱、衣擦れの音、喉を鳴らす音――

どれもが、体の奥にじわじわと染み込んでくる。


足元がふらつく。視界が滲む。

少女は吸血鬼の胸にもたれるように崩れ落ちた。


すぐに、しっかりと抱き止められる。

細い腕のくせに、不思議と安心できる力強さだった。

吸血鬼は牙を抜き、ゆっくりと血を拭いながら、少女の背中を撫でる。


その動きは、まるで母親が子どもをあやすように優しかった。


「……ありがとう。あなたのお陰で、しばらくは生きていけそうよ」


その声に、少女は弱々しく頷くだけだった。


少女がふと顔を上げると、空はすっかり灰色に染まりきっていた。

大粒の雨が降り注ぎ、石畳を叩く音が耳を満たす。

服はとっくに濡れて、肌に張り付き、冷たさと体温が混ざり合っていた。


そんな中で、吸血鬼はポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には、雨粒がぽたりと落ちては流れ、指で拭ってもすぐにまた濡れる。

「……連絡、できるようにしておきたいわ」

そう言って、少女の前にそっと差し出されたのは、連絡アプリのQRコードが表示された画面だった。


少女は驚いたように瞬きをし、それからふわりと笑った。

「じゃあ、私のも……あ、美味しいカフェあるんですよ。あとで送りますね」

雨の中、濡れた指でスマホを操作しながら、QRを読み取る。


スマホの読み取り音がピッと鳴ったその瞬間――

雷鳴が遠くで鳴り響いた。


「……届きました?」

「ええ。ちゃんと、届いたわ」


2人の画面には、互いの名前が並んでいた。

濡れた髪を気にもせず、少女は少しだけ嬉しそうに笑った。

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