第5話 湖底に踊る銀鱗

輝石採掘の成功から一週間が過ぎた朝、ライセルは『蒼き月』の食堂で朝食を摂っていた。今朝は少し肌寒く、窓の外には薄っすらと霧がかかっている。


「今日は霧が深いわね」


そう言いながら、エレンが新鮮な果物を運んでくる。


「ああ。でも、こういう日は海が美しいんだ」


「海?」


「今日の依頼でちょっとな」


ライセルは手にしていたパンを一口かじりながら、今日の予定について考えていた。昨日ギルドで受けた依頼は、これまでとは少し毛色の違うものだった。


「実は、魚を捕まえる仕事なんだ」


エレンが目を丸くする。


「魚?それって漁師の仕事じゃない……?」


「まあ、未開の地の魚だからな。普通の漁師じゃ何かあった時に対処できないし」


ライセルは苦笑いを浮かべながら、温かいスープを口に運んだ。確かに、剣を振るって魔物を倒すのが冒険者の仕事だと思われがちだが、フロンティアでは様々な依頼がある。


「キィ」


ハインが窓辺から外を見つめて短く鳴く。霧の向こうを見透かすような、鋭い琥珀色の瞳。鷹にとって魚は馴染みのある獲物だが、今日の依頼は少し特殊だった。


「お前は海畔で待っていてもらうことになりそうだな」


「キィ〜」


ハインはどこか不満そうな鳴き声を上げた。


「なるべく早く戻るから、それまで辛抱してくれ」


――――――


朝の霧が晴れ始めた頃、ライセルはギルドに向かった。石畳の道を歩いていると、街の人々が活気よく朝の準備をしている光景が目に入る。


パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂い、雑貨屋では店主が商品を並べている。フロンティアの朝は、いつも新しい一日への期待に満ちていた。


ギルドに足を踏み入れると、セリアがいつものように丁寧に出迎えてくれた。


「おはようございます、ライセルさん。昨日お話しした依頼書をお持ちしました」


「ありがとうございます」


セリアの手から差し出された依頼書には、見慣れない内容が記されていた。


『依頼:シルバーフィン捕獲』

『依頼主:リムヴァルド料理組合』

『場所:クリスタル海・深部』

『報酬:銀貨二十枚(一匹につき)』

『詳細:体長三十センチ程度の希少魚。銀色の鱗が特徴。海底の岩陰に生息。最低三匹の生け捕りが条件』

『注意事項:水深四十メートル以上の深部での作業。特殊装備必須』


「シルバーフィン……聞いたことがないな」


「フロンティア特有の魚です」


セリアが説明用の資料を広げる。そこには美しい銀色の魚の精密な絵が描かれていた。


「その鱗は微量の魔力を帯びており、高級料理の素材として珍重されています」


絵を見ると、確かにその魚は美しかった。鱗一枚一枚が宝石のように輝き、ヒレは絹のように滑らかそうだ。


「ただし、海の深部まで潜る必要があるうえ、シルバーフィンは非常に警戒心が強く、少しでも気配を感じると深い岩の隙間に隠れてしまうので気を付けて下さいね」


「水中での作業は初めてだけど……面白そうだな」


ライセルが資料を確認していると、セリアが別の資料を取り出した。


「もう一点。クリスタル海には他の大型魚類も生息していますので、十分ご注意ください。特にディープバスと呼ばれる大型魚は、縄張りに侵入者があると攻撃的になることがあるそうです」


(ディープバス……名前からして大きそうだな)


「どの程度の大きさですか?」


「目撃情報によると、体長三メートルから五メートル程度。もし遭遇した場合は、刺激せずにその場を離れることをお勧めします」


ライセルは依頼書を改めて眺めた。確かに報酬は魅力的だが、水中での作業という未知の領域に加えて、大型魚の脅威もある。


「分かりました。挑戦してみます」


――――――


リムヴァルドから北に向かう道は、次第に森深くなっていく。朝の霧はすっかり晴れ、木々の間から差し込む陽光が美しい光の帯を作っていた。


道中、様々な鳥の鳴き声が響く。ハインは時折、仲間の鳥たちに反応して鳴き返している。


「キィ、キィ」


「お前も楽しそうだな」


一時間ほど歩くと、森は次第に開けてきた。そして二時間後、ついにクリスタル海の全貌が目の前に現れた。


「これは……」


海は想像以上に美しかった。その名の通り、水面は水晶のように透明で、海底まで見通すことができる。太陽の光が水面で反射し、キラキラと宝石のように輝いている。


海は思っていたよりもはるかに大きく、対岸がかすんで見えるほどだった。周囲は豊かな緑に囲まれ、まさに秘境の名にふさわしい光景だった。


海畔に着くと、ライセルは早速ギルドから渡された専用の装備に着替えた。


魔法で空気を供給する特殊なマスクと、水の抵抗を軽減する軽装、そして消音性能のある特殊な網と捕獲用の袋の一式だ。


装備を完全に身に着け、ライセルは海畔に立った。透明な水面の向こうに、海底の岩場がはっきりと見える。


「それじゃ、行ってくる」


「キィ」


ハインが心配そうに鳴く。


「大丈夫だ。すぐに戻ってくるって」


ハインにそう言って、ライセルは海に足を踏み入れた。その瞬間、予想以上に冷たい水が体を包む。しかし、水中服の効果で、すぐに適温に感じられるようになった。


マスクを通して流れる空気は清涼で、魔法の力を実感する。呼吸も自然にできた。


(すごい技術だな。これなら確かに長時間の作業ができそうだ)


ゆっくりと深度を下げていく。十メートル、二十メートル……水圧の変化を感じながら、慎重に潜降を続ける。やがて、海底に足を着けた。深度約四十メートル。上を見上げると、遥か彼方に海面の光がきらめいている。


底には大小様々な岩が転がっており、その隙間に魚影がちらほらと見える。普通の淡水魚らしき小さな魚たちが、ライセルの存在に驚いて岩陰に隠れていく。


(この辺りがシルバーフィンの生息地か……)


水中での移動は、予想以上に体力を消耗する。水の抵抗で思うように動けず、普段の三倍は時間がかかる感覚だった。しかし、水中服の効果でバランスは保てている。


岩場を慎重に探索していくと、そこには小さな洞窟のような空間があった。ゆっくりと中を覗き込むと、そこには──


(いた!)


奥の方で、銀色の光が一瞬見えた。間違いない、あれがシルバーフィンだ。


近づいてみると、確かにマルクの説明通りの美しい魚がいた。体長三十センチほどで、鱗が宝石のように輝いている。ヒレの動きも優雅で、まさに海の宝石といった風情だった。


しかも、一匹だけではない。岩陰をよく見ると、三匹、四匹……少なくとも五匹はいるようだ。


(これは幸先が良いな。一度に複数匹捕獲できるかもしれない)


網を慎重に構え、魚を囲むように配置する。シルバーフィンたちは、まだライセルの存在に気づいていないようだった。


しかし、網を動かした瞬間、魚たちの動きが変わった。警戒心の強さは本物で、すぐに逃げようとする。


ライセルは素早く網を閉じた。しかし、水中での動作は思った以上に遅く、五匹中三匹は逃げられてしまった。それでも、二匹は無事に捕獲できた。


「よし、まずは二匹」


捕獲袋に移すと、袋の中で新鮮な水が循環しているのが分かる。シルバーフィンたちも、特に弱った様子はない。


(あと一匹は必要だな。もう少し探してみよう)


岩場をさらに探索すると、別の場所でも何匹かのシルバーフィンを発見できた。今度はより慎重に近づき、確実に一匹を捕獲した。


三匹目の捕獲にも成功し、ライセルは安堵の息をついた。


(よし、これで依頼達成だな。せっかくだから、もう少し探してみるか)


品質の良い個体がいれば、追加報酬も期待できる。ライセルはさらに奥の岩場に向かった。


そこには、これまで見た中で最も大きな岩の塊があった。その周囲には、より深い溝が走っている。


(あの辺りにも良い個体がいるかもしれない)


そう考えてそちらに向かおうとした時、視線の先に巨大な影が差した。


最初は雲が太陽を遮ったのかと思ったが、影は動いている。しかも、それはだんだんと大きさを増していた。


見上げると、そこには信じられない光景があった。


体長五メートルはある巨大な魚が、悠然と泳いでいるのだ。全身が深緑色で、背中には鋭いヒレが立っている。そして口からは、鋭い牙がいくつも覗いていた。


(あれが……ディープバス!)


マルクから聞いていた話を遥かに上回る大きさだった。まるで水中を泳ぐ恐竜のような迫力がある。


巨大魚は既にライセルに気づいており、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。


(刺激しないで、そっと離れよう……)


ライセルは慎重に岩陰に身を隠そうとした。しかし、既に手遅れだった。ディープバスの目つきが変わる。縄張りに侵入した異物として、ライセルを認識したのだ。


巨大な体が一瞬で加速し、ライセルに向かって突進してくる。水中とは思えない速度だった。


「うわっ!」


間一髪で横に跳んで避けるが、ディープバスの巨体が岩を砕きながら通り過ぎていく。破片が水中に舞い散り、視界が悪くなった。


(まずいな。水中じゃまともに動けないし……)


トランスロッドを剣に変化させて迎え撃とうとするが、水の抵抗で思うように振れない。陸上なら軽々と扱える剣が、まるで鉛のように重く感じる。


ディープバスが体勢を立て直し、再び襲いかかってきた。今度は口を大きく開け、鋭い歯を剥き出しにしていた。


ライセルは剣を突き出すが、水中では力が入らず、魚の硬い鱗に弾かれてしまう。


「くっ、やっぱりだめだ……!」


陸上なら確実に勝てる相手でも、水中という環境では圧倒的に不利だった。魚にとって水中は我が家も同然。人間が太刀打ちできる相手ではない。


(仕方ない、英雄招来を使うしかないか)


「英雄招来!」


能力を発動すると、いつものように頭の中に英雄の知識が流れ込んできた。しかし――


『美食の求道者ガストン』──料理の技術を極めた英雄の力。


(料理人!?よりにもよってこんな時に!?)


頭の中に流れ込んできたのは、剣技でも魔法でもなく、包丁捌きと食材を見極める眼だった。トランスロッドも、いつの間にか鋭い柳葉包丁の形に変化している。


そんなライセルの動揺を他所に、ディープバスが再び突進してくる。その巨体から放たれる威圧感は凄まじく、普通なら恐怖で動けなくなってもおかしくない。


(こんな時に料理人の英雄って……どう戦えばいいんだ!)


ライセルは必死に避けながら考えた。ガストンの知識を探っても、戦闘に関する技術は見つからない。あるのは、様々な食材を調理する技術ばかり。


肉を切り分ける技術、魚を捌く技術、野菜を刻む技術……


(待てよ……魚を捌く?)


その時、ガストンの知識が閃いた。料理人にとって魚は戦う相手ではない。調理する対象なのだ。


目の前のディープバスを見つめると、その急所が手に取るように分かった。背骨の位置、頭部の構造、内臓の配置、血管の走り方……捌いた後の様に、魚の体内構造が透けて見える。


そして最も重要なのは、最も効率よく捌くための切れ目の場所。一撃で仕留めるための、完璧なポイント。


(そうか……魚を「捌く」んだ!)


ライセルは包丁を構え直した。戦うのではなく、調理するのだ。


ディープバスが三度目の突進を仕掛けてくる。口を大きく開け、鋭い牙でライセルを食い千切ろうとしている。


その瞬間、ライセルは魚の動きを完全に読み切った。


「そこだ!」


包丁を一閃させる。まるで魚を調理するかのような、滑らかで正確な動き。


水の抵抗など存在しないかのように、柳葉包丁はディープバスの急所を正確に貫いた。


包丁は魚の鱗を切り、筋肉を裂き、背骨を断った。まさに一刀両断。


巨大な魚の体が二つに分かれ、静かに海底に沈んでいく。


「はぁ……はぁ……」


ガストンの力が薄れ、包丁が元のトランスロッドの姿に戻る。ライセルは深い疲労感と共に、英雄の力の奥深さを改めて実感していた。


(料理人の英雄でも、使い方次第でこんなに強力になるのか……)


英雄招来の能力は、まだまだ奥が深い。戦闘に向かない英雄でも、発想次第で強力な力になる。今日はそのことを身をもって学んだ。


捕獲したシルバーフィンを確認すると、戦闘の衝撃で弱っている様子はない。袋の中で元気に泳いでいる。


(よし、さっさと浮上しよう)


ライセルは海面に向かって、ゆっくりと浮上を始めた。


――――――


その後は、特にトラブルもなく海からが戻ってくることができた。専用の装備を脱ぐと、ハインが嬉しそうにライセルの肩に止まる。


「キィ〜」


「ああ、無事に戻ってきたよ。心配かけたな」


鮮度を落とさないように急いでギルドに戻ると、セリアがいつものように迎えてくれた。


「おかえりなさい、ライセルさん。初めての水中作業はいかがでしたか?」


「思った以上に大変でしたが、何とか完了しました」


「それは良かったです。料理組合の方々もきっと喜ばれるでしょう」


ライセルは捕獲したシルバーフィンを納品して、セリアから報酬を受け取った。


「今回の実績により、新しい依頼も受けられるようになりました。また次回ご案内しますね」


「本当ですか!?ありがとうございます!」


新しい分野の依頼が受けられるようになったのは、冒険者としての成長を示している。ライセルは満足感と共に、ギルドを後にした。


――――――


『蒼き月』に帰ると、エレンが好奇心いっぱいの顔で出迎えてくれた。


「おかえりなさい!魚は捕れた?」


「ああ、無事に捕獲できたよ。でも、水中での戦闘は予想以上に難しかった」


「水中で戦闘までしたの?その様子だと、大変だったみたいね……今日は温かいスープを作ったから、ゆっくり休んで」


「ありがとう。助かるよ」


夕食のスープは、体の芯まで温めてくれた。水中での長時間作業で冷えた体に、温かさが染み渡る。食事を楽しみながら、今日のことを思い返していた。


(英雄招来の可能性は、本当に無限大だな……)


戦闘に向かない英雄でも、発想と使い方次第で強力な力になる。今回の出来事で、ライセルは英雄招来に対する理解をさらに深めていた。


「今日は早めに休むか。お休み、ハイン」


「キィ」


外では夜の静寂が街を包み、遠くで夜鳥の鳴き声が響いている。ライセルは温かいベッドに横になりながら、明日への期待を胸に眠りについた。

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