第3話 流れゆく日々

 ストルアンの庵で暮らし始めてからいくつかの季節が巡っていた。

 初めのうちは悪夢にうなされ、クラスメイトたちの嘲笑う声に飛び起きる夜もあった。


 だが急かさず詮索もせず、ただそこに在ることを許してくれる老賢者の存在は、ささくれ立った俺の心を少しずつ癒していった。


 薪を割り水を汲み薬草を仕分ける。そんな当たり前の日常が、これほどまでに穏やかで満ち足りたものだとは知らなかった。


(もう秋か)


 庵の窓から見える木々が赤や黄色に色づいているのを眺めながら、俺は物思いにふける。


 怒鳴られることも蔑まれることもない。静かな時間だけが川のように流れていく。


 ストルアンさんは俺がどこから来てなぜ打ちひしがれていたのか、深くは尋ねなかった。その沈黙が心を軽くしてくれたのは事実だ。


(でも、このままでいいのか?)


 ふと胸の奥に燻る焦燥が顔を出す。俺はいつか日本に帰らなければならない。両親に、菜月に生きていると伝えなければならない。


 そのためには力がいる。現状を打破する力が。





 ある日の午後、庵の前で瞑想をしていると背後から静かな声がかけられた。


「和希よ。心の傷は少しは癒えたか」


 振り返るとストルアンさんが穏やかな表情で立っていた。俺はこくりと頷く。


「はい。おかげさまで」


「うむ」老賢者は満足げに頷くと俺の隣に腰を下ろして、真っ直ぐに俺の目を見た。


「では次の段階に進もうか」

「次、ですか?」

「お前の持つその力の話だ」


 ストルアンさんの言葉に俺は思わず身を固くする。影隠れはこの能力で生き延びられたという思いと、無力感の象徴で複雑な感情を抱いていた。


「お前の影はただ隠れるだけの闇ではない。それはお前自身の魂の半身、未だ形をなさぬ可能性そのものだ。ただ隠れることで生き延びたお前だからこそ、その真価を引き出せる」


(俺の力が? でもこれは、少なくとも戦闘で何の役にも立たないって、あいつらは……)


 脳裏に串崎たちの顔がよぎるが、目の前のストルアンさんの眼差しには侮蔑も嘲りもなかった。


 あるのは古い書物を紐解くような真摯な探究心と、俺に対する揺るぎない信頼だった。


(役立たず。あの言葉が呪いのようにずっと俺を縛り付けていた。でもこの人は違う。俺の可能性を信じてくれている)


 変わりたい。

 心の底から渇望が湧き上がってくる。

 もうあの日の無力な俺のままではいたくない。俺は顔を上げて決意を込めて言った。


「やります。俺、強くなりたいんです!」


 俺の答えを聞くとストルアンさんは深く頷き、静かに立ち上がった。


「難しいことは言わん。力を支配しようとするな。まずは友になることからだ」


 彼は俺の足元に伸びる影を杖で指し示した。


「今日一日、己の影から決して目を離すな。その形、濃淡、日の光によってどう変わり何を映しているのか。そのすべてをただ、見つめ続けよ。それがお前の最初の修行だ」


 言われた通りに俺は自分の足元に広がる影を見つめた。

 今まで気にも留めなかった、ただの黒いシミ。だが今は違うものに見えた。それは俺が確かに「ここにいる」という証明であり、俺が決して独りではないことの証のようだった。


 俺は初めて自分の能力と、そして自分自身と対峙した。






 あれからどれくらい時がたっただろうか。


 俺の日常は庵での静かな暮らしから、己の限界を超え続ける熾烈な修行の日々へと姿を変えた。単に力を求めるためのものではない。

 失われた自信と生きる意味そのものを、俺自身の手に取り戻すための努力。


 夜の森。目隠しをされた俺に、容赦なくストルアンさんが投げた小石が飛んでくる。


「見るな、感じろ! 皮膚を撫ぜる風と木の葉のざわめき、迫る殺気がお前の影をどう揺らすのかを!」


 初めのうちは、額や腕にいくつもの痣を作った。だが来る日も来る日も繰り返すうちに視覚に頼らずとも、気配の揺らぎを影が捉えて体が自然と反応するようになっていった。


 ストルアンさんとの組み手は力と力のぶつかり合いではなかった。


「力ではない、ことわりを掴め!」


 老いた身体は柳のようにしなやかで、俺が全力で放った拳はことごとく空を切る。現代でいう合気道、あるいは柔道のようなものに思える。柔よく剛を制すというか。


 俺の影を的確に杖で突き、体勢を崩されたところをいとも容易く組み伏せられる。でも、身体的にきつくても充実感があって楽しかった。


「影はただの映し身にあらず。地面に縫い付けられたお前自身の一部なのだ。それを理解せよ」



 修行の合間の暖炉の火を見つめながら二人で語らう夜が、俺にとってはかけがえのない時間だった。ストルアンさんは古代魔術や世界の成り立ちについて語る。


 俺は少しずつ自分の過去を打ち明けていった。串崎のことや裏切られた日の絶望、そして胸の内に渦巻く感情を。


「悔しいんです。今でも夢に見るんです。あいつらの俺を嘲笑う顔を。いつか絶対にあいつらを見返してやりたい。俺が『役立たず』なんかじゃなかったって、証明してやりたいんです」


 ぽつりと漏らした俺の告白をストルアンさんはただ黙って聞いていた。そして静かに燃える薪をくべながら穏やかに言った。


「うむ。その怒りはお前の心が生きている証拠だ。当然の感情よ。だが和希。怒りは両刃の剣だ。強大な力にもなるが、それだけではいずれ己の魂を喰らい、修羅に変える。真に見返すべきは奴らではない。あの日に絶望して己を『役立たず』と断じた、過去のお前自身だ。その痛みを知るからこそ誰よりも深い影の主となれる」


 その言葉は凍てついていた俺の心をじんわりと溶かしていった。


「やり返すなとは言わん。しかしそれは己を制御できてこその話だ」







 更に長い年月が過ぎたある晴れた日。俺はいつものように庵の近くにある滝壺のそばで瞑想していた。岩に砕ける水しぶきが光を浴びて虹を作り、岩肌には深い影が落ちている。


 光と、影。ただそれだけの光景を俺はぼんやりと見つめていた。

 その時師の声が心に直接響いた。


 ――光あるところに必ず影はある。光が世界を照らし形作るならば、影は世界の裏側でその存在を支えるもう一つの実在。

 天秤の両皿のように。光と影は、分かたれながらも一つになるものなのだ……。


(そうか!)


 雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。


 俺は今まで光ばかりを見ていた。串崎たちの輝かしくて分かりやすい力ばかりを。


 でも違うんだ。光があればこそ影は濃くなる。影は光の欠如なんかじゃない。光の裏返し。この世界のもう一つの本質なんだ!


 俺の力は無力なんかじゃなかった。それはこの世界の半身そのものだったのだ。


 目を開けた瞬間、世界が違って見えた。自分の影がただの黒い平面ではなく、底知れぬ深度と質量を持つ「空間」のように感じられる。俺の意志に影が明確に反応していた。


 庵に駆け戻った俺は震える手で意識を集中する。床に置いてあったストルアンさんの木杯に向けて、影を伸ばした。


 ずるりと音を立てるかのように影が動き出す。木杯を優しく包み込むと、俺の手元へと静かに引き寄せた。


「できた、本当に!」


 歓喜に打ち震える俺の背後から、「まだまだ形が歪だ。意思を込めることを急ぐな。まずは影とお前とが完全に一つになる感覚を掴め」と、師の厳しいが温かい声が飛ぶ。


 そこから先は夢中だった。失敗と成功を何百回、何千回と繰り返した。影で剣を作り盾を構え、鳥の形を模倣して夜の闇に飛ばす。

 その全てが俺が俺自身を取り戻していくための大切な儀式だった。






 成長した俺に反比例するように、師の時間はゆっくりと終わりに向かっていた。老衰により床に伏していることが多くなったのだ。


 俺は鍛え上げた能力を今度は師のために使った。


「師匠、食事の時間です」


 影で匙を操り滋養のあるスープを彼の口元へ運ぶ。庭で日差しが眩しければ影を天蓋のように広げて、穏やかな木陰を作った。


(師匠。あなたが暗闇にいた俺に光をくれた。今度は俺が守る影になりたいんだ)


 そんな俺の献身をストルアンさんはいつも満足そうに、目を細めて見ていた。





 ある夜、嵐の前の静けさのように澄み切った空に月が輝いていた。弱々しいながらもはっきりとした声で俺を呼んだ。


「和希……もう良い」


 彼の皺深い手が俺の手をか弱く握る。


「見事なものだ。お前の心の傷は見事に美しい力へと昇華された。もうワシがお前に教えられることは、何一つない」


 そう言うと、震える指でベッドの脇に置かれた古びた革鞄を指し示した。


「これを、持って行け」


 言われるがままに鞄を開けると様々な道具。中には星図のように複雑な紋様が刻まれた魔道具とびっしりと文字が書き込まれた分厚い日記。更に丸められた一枚の羊皮紙が入っていた。


「それは時空の歪みを測るための魔道具。ワシの生涯の研究だ……」


 途切れ途切れの声で師は最後の力を振り絞る。


「日記にその使い方も、何もかもが記してある。そしてその地図が示す先は……旧魔王領の奥深くにある、『世界の傷』。……そこがお前の故郷へと繋がっている、考えられる可能性……」

「師匠! 俺、絶対に帰ってもう一度会いに来ます! だから!」


 俺の叫びに師は穏やかに首を横に振った。瞳には深い慈愛が満ちていた。


「行け、和希。振り返るな。お前はもはや『役立たず』の少年ではない……。これからは己のために、自由に生きるために力を使うがよい……。己の道を切り拓く影法師なのだ」



 それが、師の最期の言葉だった。

 まるで眠りにつくかのように彼は静かに息を引き取った。



 俺は声を殺して泣いた。とめどなく涙が溢れたがそれはもう、かつて教会で流した絶望の涙ではなかった。

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