第2話 影と賢者

 冷たい石の感触が頬をひやりと撫でた。


 目を開けた瞬間、頭が割れるように痛んだ。鈍く痺れた視界の隅に映るのは鈍色の空。灰色の雲がのっぺりと広がっている。

 地面は埃っぽく砂利のような小石が背中に突き刺さっていた。


(ここは……)


 痛む体を引きずりながら上半身を起こすと、乾いた声が頭上から振ってきた。


「おい、いつまで寝てる。とっとと失せろ」


 声の主は、王城の衛兵だった。


 その目に浮かぶのは明らかな侮蔑。彼は迷うことなく何かをこちらに投げつけた。チャリン。金属音が地面に響き数枚の銅貨が散らばる。


「魔王討伐の褒賞だ。貢献者にな」


 鼻で笑いながら衛兵は立ち去っていった。


 俺は震える手で銅貨を拾い集めた。それは異世界に一人置き去りにされた高校生に与えられた、あまりにも惨めな報酬だった。


(これが……俺の全てかよ)


 小さく笑うしかなかった。


 王都の街は今日も賑やかだった。市場の喧噪、子供のはしゃぐ声、恋人たちの甘いささやき……すべてが俺の存在とは無関係だった。

 まるで別世界の出来事のように遠く美しく感じられた。


(これから……俺はどうすればいい)


 帰れない。信じていた仲間には裏切られ帰還の道は閉ざされた。俺のために誰かが残ってくれることもなかった。

 それでも生きるしかなかった。死ぬわけにはいかなかった。


 父さん母さん。それに……。


(菜月……)


 一回り歳の離れた妹。小さい菜月はいつも俺の後をついてきて、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。


 両親と菜月の名を思い出した瞬間、胸の奥がぎゅっと軋んだ。


 俺だけ帰らなかったことはどう報告されているんだろう。死んだと思ってる? それとも、どこかで生きてるって信じてくれてる……?


(生きて……届けてやるよ。絶対に)


 俺は震える足で立ち上がり人々の波に背を向けた。向かった先は、冒険者たちが集う場所――ギルドだった。




 ギルドの扉を押し開けた瞬間、空気が一変した。


 視線。無数のそれが一斉に俺を刺す。


「なんだ、ガキか」「迷子か?」「浮浪者か?」


 そんな視線。そんな言葉。


 俺はただ受付の前に立つと必死に言葉を絞り出した。


「登録……お願いします」


 受付の女は眉をひそめ、ため息を吐いた。


「身分証は?」

「……ありません」


 俺の言葉に女の表情がさらに面倒くさそうに歪んだ。


「……まあいいわ。一応登録だけはしてやるわよ。最下級、Gランク。依頼なんてないだろうけど、せいぜい死なないようにね」


 机の上に無造作に投げられたのはギルドカード。


(ああ、まただ……)


 役立たずという言葉が頭の中にこだまする。


 依頼掲示板を見てもゴブリン討伐、盗賊の掃討、荷物運び。荷物運びならできそうだけど、Gランクでは信用がない。

 どれも今の俺には不可能だ。


 誰にも期待されていない。

 誰にも、必要とされていない。


 ……それでも、生きなきゃならない。




 裏路地の片隅。瓦礫に囲まれた影の中で俺はパンをかじった。銅貨で買ったただの乾いたパン。口の中で崩れ喉に詰まる。


 水すらない。

 宿にも泊まれずぼろきれに身を包んで夜を越す。


(いつまでこんなことを……)


 人の視線が怖かった。誰かの笑い声が自分を嘲笑っているように聞こえる。

 そのうち俺は森へと逃げるように歩き出していた。




 郊外の森。木々の影が揺れている。


(そうだ、俺にも力がある)


 影隠れ。この世界で唯一俺に与えられた能力。誰にも認められなかった力。

 今の俺に頼れるのはこれだけだった。


 影を身に纏いウサギのような小動物を狙う。


(静かに、気配を消して)


 だが心が揺らげばそれは影に現れる。

 小動物は一瞬で逃げ去った。


「くそっ!」


 拳を握る。石を掴み木に叩きつける。何度も、何度も。


「なんで! なんで俺だけ! あんな奴らに裏切られて!」


 拳から血が滲むが心の痛みは消えなかった。





 何日が経ったのかわからない。

 飢えと寒さに思考は霞み、感情は鈍くなる。


(生きてるだけだ)


 無意識に影から影へと移動するようになっていた。

 気づけば、本当に俺は影になっていた。




 その日俺は森の奥で倒れこんだ。

 動けない。

 終わりか。そんな言葉が自然と浮かぶ。


(父さん、母さん。菜月……)


 三人の姿が霞む意識の中に浮かんでは消える。

 その時だった。


 ガサッ――


 茂みが揺れた。

 ゴブリン。

 三体。下卑た笑み。棍棒。

 身体が動かない。

 目の前で、棍棒が振り上げられ――


 ――パシッ。


 乾いた音。

 一体のゴブリンが倒れていた。


 視線の先。そこに立っていたのは古びたローブを纏った老人だった。

 まるで風そのもののように彼はもう一体の攻撃を避けて、杖で足元を払った。

 残った一体は悲鳴を上げて逃げていった。




 静寂の森。老人が近づいてくる。

 その瞳はまっすぐ俺を見ていた。

 同情も侮蔑もない。ただ確かに見ているという目だった。


 パンと水を差し出される。


(罠かもしれない。毒かもしれない)


 でも体が動いていた。食べたあとにひとしきり泣いた。涙が止まらなかった。





 彼は俺を森の庵に連れて帰った。

 ストルアンと名乗った。


 庵は木々に囲まれて外界から隔絶された静寂に包まれていた。蔦が絡まる壁、木の香りが染み付いた家具。

 暖炉には穏やかな火が燃え、空気にはどこか薬草の香りが漂っていた。


 それよりも奇妙だったのは、どこか人の気配が希薄で不思議な温かさが満ちていることだった。





 数日間の間、ストルアンさんは何も聞かなかった。俺が何者でなぜ森の中で倒れていたのか。そのすべてを沈黙の中で受け入れていた。


 けど彼の目は常にこちらを見ていた。ただの観察ではない。傷ついた動物を見守るような静かな視線だった。


 俺が倒れた枝を片付ければ彼は頷き、必要な道具を手渡す。


「礼は要らん。おぬしが動いた、それで十分だ」


 その言葉はまるで存在を肯定されたような重みを持っていた。




 ある夜のこと。暖炉の火がぱちぱちと音を立てる中、ストルアンさんはふいに呟いた。


「和希。おぬしの力を見せてみよ」


 突然の問いに戸惑いながらも、俺は影に身を沈めた。床に映る自分の影へと意識を集中する。身体がじわりと沈み床と一体になるような感覚。


「これだけです。自分の影に隠れるだけ。だから戦いの役には立てなかった」


 口にして胸が締め付けられる。どれだけその言葉を自分に繰り返してきたか。

 けれどストルアンさんは静かに笑った。


「ふむ。では問おう」


 彼は椅子に背を預けゆっくりと語りかける。


「おぬしはそのちっぽけな力で王都の目を欺き、飢えをしのぎ、獣から逃れた。誰も気づかなかっただろうがあれは見事な生き延び方よ」

「……それは」

「力とはな、派手な剣や火球の大きさだけではない。おぬしが無意識にしてきたそれは誰にも真似できぬ術だ。自覚なき才能。生の本能が形になったものだ」


 ストルアンさんはゆっくりと薪を暖炉にくべる。その横顔はどこか懐かしさを感じさせるような、不思議な深みを湛えていた。


「役立たずか否かは己の在り方を定める認識にすぎぬ。おぬしが影を蔑むならその力はおぬしを離れる。だが受け入れれば、その力は応える」


 俺は言葉を失った。影が俺を守ってくれていた。


「影はただの暗がりじゃない。世界の裏側。光に寄り添いながらそれでいて誰にも顧みられぬ存在。それがおぬし自身でもあるのだ」


 言葉の意味がじわじわと胸に染みていく。目の奥が熱くなった。




 夜。俺は影を見ていた。

 壁に揺れる長い影。


(ずっと俺と一緒にいたんだな)


 ベッドを出てそっと手を伸ばす。

 自分の半身に初めて触れるように。

 その瞬間、空気がわずかに震えた。


 影が、微かに応えた気がした。

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