第3話 獣人の愛情料理

粗末な寝具だけの部屋で、ノアは不安げに目を覚ました。

薄暗い空気が部屋にこもり、ひんやりとした壁が肌寒い。

王宮にいたときだって、こんなに静かで、そして息苦しい夜はなかった。

広大な寝室に一人でいた夜でも、遠くから聞こえる人々のざわめきや、護衛の足音があった。

だが、ここは完全に隔絶された場所だった。


ノアはそっと寝具から足を下ろした。冷たい床の感触が、皮膚に嫌でも現実を突きつける。

(今なら…この隙に逃げられるかもしれない…)

だが、足は鉛のように重く、震えて、どうしても立ち上がれない。


そして、それ以上に、体が妙に熱く、喉は焼け付くように渇き、心臓はずっとバクバクと落ち着かない。

下腹部からじんわりと熱が広がり、ぞわぞわと皮膚の下を何かが這い回るような不快感があった。

(…なんだこれ…暑い…気持ち悪い…まさか、発情期の前兆…?)

まだ本格的な発情期には早いはずなのに、Ωとしての体がじわじわと熱を帯びていく感覚に、ノアは脂汗をかく。

眠ろうとするが、体の内側から湧き上がる熱に寝付けず、必死に息を殺すしかなかった。

昨日のセトの言葉が脳裏をよぎる。

「夜鳴きは、するなよ。…したらどうなるかわかるな。」

まさか、本当に…。


夜が明け、太陽の光が薄く差し込む頃、重い扉がギィと開いた。

無言で入ってきたのは、セトだった。

彼は昨日と変わらない無表情で、その金色の瞳がノアを捉える。

ノアは必死に平静を装うが、額にはすでに薄っすらと汗が滲み、全身の震えを隠しきれない。

セトはノアの様子に気づいたのか、無言で近づき、寝具のそばに座り込む。


ノアが思わず身を引くと、セトは低い声で囁いた。

「…怯えるな。噛まない。」

その言葉に、僅かに安堵しかけた瞬間、セトの手の甲がノアの額に触れた。

ひんやりとした感触が、熱を持った肌に心地よく、ノアの心臓が大きく跳ねる。


「…熱があるな。」

「平気だ。ほっとけ…っ」


唇は青白く震えていた。

セトはノアの額から手を離すと、水差しから冷たい水を汲み、ノアに差し出す。

ひんやりとした水差しが、熱い指先に触れる。

ノアは受け取ろうと手を伸ばすが、熱と動揺でふらつき、水差しを取り落としそうになる。

その瞬間、セトが素早くノアの体を支えるように抱き寄せ、水差しを奪い取った。

その腕は、驚くほど強固だった。

ノアはセトの腕の中で、熱い息を「ふうっ」と吐き出す。

セトの長い耳がぴくりと動き、僅かに鼻をノアの首筋に寄せる。

獣人独特の、野性的な匂いがノアの鼻腔をくすぐり、Ωとしての本能がぞわっと粟立つ。

「…いい匂いだな。甘い。…美味しそうだ。」


「っ…や、やめろ…! 汚い…っ!」

(この獣人、俺をなんだと思ってるんだ…!? 食い物か!? 俺は王子これでも王子だったんだぞ…!)


ノアはセトの腕の中で必死にもがく。

「や、やめろ…! 俺は…尻軽なΩじゃ…ないっ…!」

(やだ…っ…なんで…こんな…獣みたいに…っ…でも…熱い…っ…気持ち悪いのに…身体が…)


セトはノアの抵抗をものともせず、腕の力を緩めない。

むしろ、抱きしめる腕に少しだけ力がこもる。


「Ωじゃないなら、この匂いは何だ?…それに、お前はもう王子ではない。ただのΩだ。…そして、俺の番になる。」

ノアは悔しさに唇を噛み締め、セトを睨みつけるが、その瞳には生理的な涙が滲んでいた。


「いいから眠れ。」

セトはそう言って優しく毛布を整えた。



朝食の時間になった。

セトはノアを解放すると、部屋の隅にある簡素な火鉢に火を熾し始めた。

薪がパチパチと音を立て、小さな炎がゆらめく。

(何を始めるんだ…?)

戸惑うノアをよそに、セトは慣れた手つきで袋から肉塊を取り出し、ナイフで手際よく切り分け、鉄鍋に放り込む。

どこで手に入れたのか、見たこともない種類の野草も数種類加え、水を注ぎ、煮込み始めた。

湯気が立ち上るたび、鍋から溢れる香りが鼻腔を満たし、喉奥が熱く疼く。

体の奥…もっといやらしい部分まで痺れるようで、ノアはゾクリと身を震わせた。

唾液が溢れ、喉が無意識に鳴る。

肉が煮える香ばしい匂いと、野草の爽やかな香りが混じり合い、ノアの胃を直接刺激する。

ノアは思わずゴクリと喉を鳴らした。

王宮では毎日決められた時間に、豪勢な食事が運ばれてきた。

だが、こうして目の前で、誰かのために料理が作られるのを見るのは初めてだった。

しかも、その料理の匂いが、ノアの胃を直接刺激する。

セトは無言で器を差し出す。その瞳に、ごく僅かに何か…言葉にならない感情が滲んでいた。


それは、肉と野草がたっぷり入った、滋味深いスープだった。


「食え。熱があるなら、栄養のあるものを。」

ノアは警戒しつつも、飢えと匂いには抗えず、スプーンを手に取った。

一口、口に運ぶ。その瞬間、ノアの目が見開かれた。


(な……なんだ、これ…!?)


王宮で食べたどんな豪華な食事よりも、この簡素なスープは、ノアの疲れた体に染み渡るような、信じられない美味しさだった。

肉は柔らかく煮込まれ、口の中でとろける。野草の苦みが絶妙なアクセントになり、体が芯から温まっていくのを感じた。

ノアは夢中でスープを口に運び、あっという間に器を空にした。

セトはノアの食べっぷりを見て、満足げに口角を緩めた。その瞳には、微かな光が宿っている。


「美味しいか?」


ノアは、はっと我に返り、慌てて視線を逸らす。


「っ…まあまあだ! おっ王宮の飯よりはうまくないが!」


そう言い放ったものの、ノアの頬は真っ赤に染まっていた。

そんなノアを見て、セトはフッと短く笑った。

セトはそんなノアを面白がるように見つめ、低く囁いた。


「…いい子だ。たくさん食え。…そうすれば、夜鳴きも盛大になる。…可愛い声、もっと聴かせろ。」


ノアは、セトの声の甘さと、その言葉の背後にある意味に、全身が粟立つ。

(夜鳴き…俺が、この獣人にむけて…!? やだ…! でも…この料理は…抗えない…っ)

食欲と、獣人の存在が混ざり合い、ノアの心は深いところで揺さぶられる。

そして、体中の熱が、さらに増していくのを感じた。

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