第2話 獣人の檻
「立て、ノア。」
突然名前を呼ばれ、思わず顔を上げた。
金色の瞳が真っ直ぐに俺を射抜いている。無表情。冷たい光しか宿していない瞳。
なのに、息が詰まるほどの威圧感があった。
それは、第一王子が持つような表面的な威圧感とは全く違う、本能に訴えかけるような、獣の威圧感だった。
「や、離せっ!」
全力で腕を引いたが、獣人の手はびくともしなかった。
「や、やめ――っ!」
「無駄口が多いと噛むぞ。」
耳元で低く囁かれた声に、全身がビクンと震えた。
獣人独特の、ほんのり獣臭と冷たい金属の匂いが鼻をくすぐる。
(噛むって…!? 何言ってんだこいつ! 普通に人のこと噛む宣言してんのかよ…! こいつ、絶対おかしいだろ…っ)
恥ずかしさで耳まで熱くなる。
セトはちらりと俺を見下ろし、ピクリと長い耳を動かして、微かに口元を緩めた。
その笑みは、獣が獲物を捕らえる寸前のような、不敵なものだった。
「可愛い声だな。」
「っ!?」
その言葉に、顔どころか首まで真っ赤になるのが分かった。
恥ずかしすぎて、何も言えない。こんなに動揺させられたのは、生まれて初めてだった。
セトはそんな俺を面白がるように見つめ、再び歩き出した。
王の冷たい声が、俺の耳に追い打ちをかける。
「ノア、お前はもはや王子ではない。廃嫡とし、以後、王族の庇護は受けられぬ。護衛のセトは、お前の監視も兼ねるものとする。獣人領へと向かえ。」
監視。その言葉が、俺の心を深く抉った。
(家畜以下ってことか…? この王宮で、俺はもう…)
悔しさに唇を噛み締める。視界が滲んだ気がした。
セトの指が、俺の腕を強く掴んだ。まるで逃がさないとでも言うように。
「護衛なんか…いらない…っ」
自分でも驚くほど弱い声だった。
セトは無言のまま、俺を謁見の間から引きずるように連れ出した。
貴族たちの嘲笑うような視線が背中に突き刺さる。
その嘲笑の中には、ほんの少しの同情も、憐れみも含まれていない。
ただただ、冷たい軽蔑だけがあった。
王宮の廊下を無言で連行される。
セトの歩幅は大きく、俺は必死についていくしかなかった。
王宮の石壁は冷たく、どこか無機質な空気が漂う。俺の心と同じだ。
「っ…待てよ! そんな乱暴にしなくてもいいだろっ!」
たまらず足を止め、抗議の声を上げた。
セトはぴたりと立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
そして、その大きな体をかがめ、俺の顔にぐっと近づけた。
金色の瞳が、俺の瞳を真っ直ぐに見つめる。その距離は、息がかかるほどだ。
「王子、無駄口が多いと噛むぞ。…噛まれたいのか?」
再び、低く甘い声が耳元で囁かれた。吐息が首筋にかかり、ゾワリと鳥肌が立つ。
(噛むって…! だから何なんだよ! 獣みたいな…いや、獣人か…!)
混乱と羞恥で、俺の耳はさらに真っ赤になった。熱い。
セトの長い耳が、ぴくりと小さく揺れる。それは、俺の動揺を楽しんでいる証拠のように見えた。
「顔赤いぞ」
「っ!?」
もう、顔どころか首まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。
恥ずかしすぎて、何も言えない。こんなに動揺させられたのは初めてだ。
セトはそんな俺を面白がるように見つめ、再び歩き出した。
連れてこられたのは、王宮のような住むのに適した場所ではなかった。
王宮の裏手の、獣人騎士団の詰所の一室。
簡素な造りで、窓から差し込む光もどこか薄暗い。
床には、粗末な寝具が一組敷かれているだけだ。埃っぽい空気が鼻腔を刺激する。
(コイツを蹴ってでも逃げる…!)
必死に足を伸ばすが、届かない。代わりに体勢を崩して、引きずられるように転びかける。
「ここ…俺の部屋…?」
思わずセトに問いかける。セトは無言で、部屋の隅に置かれた水差しを指差した。
「檻だ。」
その一言に、俺の心に冷たい恐怖と羞恥が広がった。
(ここは寝室じゃない、ただの檻だ。俺は…もう人間じゃないのか…? 子を孕まされるのか…?)
セトがゆっくりと俺に近づいてくる。大きな影が、俺を覆い隠した。
「……帰りたい…」
零れた声は誰にも届かなかった。
(この水差しで殴れば…いや…無理だ…)
そのまま、一言も発することなく、まるで石像のように微動だにしなかった。
(王子として…寝具は綺麗に…っ)
震える指先で皺を伸ばすが、涙で視界が滲む。
そして、俺の耳元に、獣の息遣いを感じるほどの距離で、低く囁いた。
「夜鳴きは、するなよ。…したらどうなるか。わかるな」
Ωの夜鳴き――発情期に抑えきれず求愛の声を漏らす癖。獣人なら普通でも、人間社会では最低の恥とされる。
ノアは悔しさと羞恥に、布団に顔を埋める。
(っ…やだ…なんだよ、その言い方…っ)
セトはそんな俺を一瞥すると、扉のそばに立つ。その冷たい視線に、俺は身動き一つ取れなかった。
この先、俺はどうなるんだろう。
王族としての地位も、αの婚約者も失い、獣人という異質な存在の監視下に置かれる。
明日から、一体何が始まるのか。
恥と恐怖と…そして、どうしようもない期待が、喉の奥を震わせた。
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