Silent Law
真久部 脩
第1話:Crescent Moon, Sleepy Eyes
◇『Silent Law』の分岐点◇
***
午後、都心から少し離れた、緑豊かな一軒家レストラン。
穏やかな陽光が差し込むガーデンでは、ささやかな結婚式の披露宴が執り行われていた。
招待客は、新郎新婦のごく近しい友人や親族のみ。
総勢20名足らずの温かい空間で、白いドレスをまとった花嫁、吉沢(旧姓:池田)マリアが幸せそうに微笑んでいた。
隣には、少し緊張した面持ちで立つ新郎、吉沢
マリアのブーケトスが終わり、乾杯のグラスが掲げられる。
その中で、一際目を引く男たちのグループがいた。
新郎・吉沢伸の友人たちであり、彼らのもう一つの顔が、匿名バンド『Silent Law』のメンバーたちだった。
新郎の吉沢伸は、都内の総合病院に勤務する若き医師だ。
白衣の下に隠された才能は、バンドのヒット曲のほとんどを手がけるキーボーディスト(バンド名義:SHIN)としての顔。
彼の指が奏でるメロディは、時に温かく、時に激しく、常にバンドの核をなしてきた。
隣に座る新婦・マリア(バンド名義:MARIA)とは、数年前から交際し、周囲も認める公認の仲だった。
匿名で活動するバンドの中で唯一顔出し、声出ししてプロモーションに参加するMARIAは、その美貌、そして歌唱力でカリスマ的な人気を誇っていた。
その向かいには、新郎と同じく、礼服に身を包んだ男がいた。
鋭い眼光の持ち主、杉野
彼もまた、公には決して明かせない顔を持つ。
都内有数の繁華街を管轄する警察署に勤務する刑事。
しかし、夜の帳が下りれば、アパートの一室でギターを抱え、重厚なリフを刻むギタリスト兼アレンジャー(バンド名義:KOH)へと姿を変える。
公務員でありながら、匿名バンドで活動するという「内職」は、彼にとって常に懲戒免職の危険をはらむ、綱渡りのような秘密だった。
グラスを傾ける彼の隣で、どこか落ち着かない様子でスマートフォンを覗き込んでいるのは、佐野
見るからに高級そうなスーツを身に着け、都内で勢いのあるITベンチャーの社長を務める。
バンドでは、正確無比なリズムを刻むドラマー(バンド名義:TAKA)として、その緻密さを発揮していた。
そして、ひときわスマートな立ち居振る舞いの男、高杉
都内の有名法律事務所に所属する敏腕弁護士だ。
バンドでは、重低音で全体を支えるベーシスト(バンド名義:SUGI)を担当。
その存在感は、バンドのサウンドに不可欠だった。
彼らは、メジャーデビューから数年。
マリア以外の誰も顔を知らない『Silent Law』として、数々のヒット曲を世に送り出してきた。
その正体は、各自のプロフェッショナルな本業を持つ、異色の覆面バンド。
それが彼らの「Silent Law」――沈黙の掟だった。
公には決して語られない、それぞれの秘密。
それは、彼らの絆の証であると同時に、いつか全てを破壊しかねない、危うい均衡の上に成り立っていた。
◇休養の導く変化◇
***
それから数ヶ月後。
都心のラジオ局、人気深夜番組のスタジオに、柔らかな光が満ちていた。
テーブルを挟んで向かい合うのは、パーソナリティの軽快なトークを優しげな笑顔で受け流す女性と、その彼女を眩しそうに見つめるディレクター。
ヘッドホン越しに聴こえる声は、紛れもなく吉沢(旧姓:池田)マリアのものだった。
バンド『Silent Law』のボーカル、MARIAとしての最後の仕事だ。
「さて、MARIAちゃん。いよいよ今日でレギュラー番組は産休に入るわけだけど、最後に一曲、マリアちゃんのリクエストで締めくくってもらおうかな?」
パーソナリティの声に、MARIAはふわりと笑った。
「はい。この番組を聴いてくださった皆さん、そしていつも応援してくださる『Silent Law』のファンの皆さんへ、感謝の気持ちを込めて、私にとって本当に大切な一曲を贈ります」
彼女の声は、夜の闇に吸い込まれるように澄み切っていた。
「私たちにとっても大切な曲になります。『Crescent Moon, Sleepy Eyes』です」
スタジオの空気が一変し、優しいイントロが流れ出した。
SHINが奏でるキーボードの柔らかな旋律に、マリアの透明感のある歌声が重なる。
---
そっと瞳を閉じた時
こぼれ落ちた涙は
月に輝いて星になる
君の強さは
光り輝くものではない
そっと支える灯火のように
揺らめき燃える
夜空のキャンドル
---
ブースの外でモニターを見つめていたディレクターは、ふと、マリアの表情に目をやった。
いつもは明るく、時に力強い歌声を聴かせる彼女だが、今夜のそれは、どこか遠くを見つめるような、心細い眼差しをしていた。
まるで、何か深い悲しみを押し殺しているかのような、それでいて全てを赦すような、そんな矛盾した感情が込められているように見えた。
曲が終わり、再びパーソナリティの声がスタジオに戻る。
「MARIAちゃん、やっぱりこの曲は最高だね!リスナーからもたくさんのメッセージが届いてる。『感動した』『涙が出た』って声が多いね」
マリアは少しだけ目を伏せ、小さく頷いた。
「ありがとうございます。この曲は、私にとって、とても大切な曲なんです」
「作詞がMARIAちゃんで、作曲が旦那さんのSHINくんだったよね?最高の夫婦共作だ」
「はい。だから、特に思い入れがあります」
番組は無事に終了し、MARIAはスタッフ一人ひとりに丁寧に頭を下げた。
彼女がスタジオを後にした午前3時半、夜空には細い三日月が、まるで目を閉じているかのように静かに浮かんでいた。
◇消えたボーカル◇
***
その翌週、杉野耕一は、自宅のアパートで、ヘッドホンを外し、大きく息を吐いた。
パソコンの画面には、バンド『Silent Law』の公式ファンクラブのメッセージ画面が映っている。
『マリアちゃん、産休いってらっしゃい!』
『またいつか歌声を聴かせてね!』
そんな応援のメッセージが殺到している。
「あーあ、俺も休みたい」
彼は疲れたように呟いた。
最近、捜査一課の仕事は激務を極め、バンド活動との両立は限界に近づいていた。
しかし、そらからしばらく経ったある日、杉野耕一は、吉沢伸からの電話で言葉を失うことになる。
「耕一、マリアが……マリアがいなくなった」
その声は、震えていた。
吉沢伸の自宅は、人気のない閑静な住宅街にある瀟洒な一軒家だった。
杉野が駆けつけると、吉沢は憔悴しきった顔で玄関に立ち尽くしていた。
「いつからだ?」
「昨日の朝からだ。朝食の準備をしてたはずなのに、俺がシャワーを浴びて出てきたら、もう誰もいなくて……」
吉沢の語る状況は要領を得なかった。
争った形跡はない。
財布や携帯電話は家に残されていた。
まるで、突然煙のごとく消えたかのようだった。
「置き手紙は?」
「ない……どこを探しても」
杉野は警察官としての冷静さを保とうと努めた。
しかし、行方不明になったのが、他ならぬ親友の妻であり、長年のバンド仲間であるマリアだ。
そして、彼女は妊娠している。
「警察には連絡したのか?」
杉野の問いに、吉沢は顔を伏せた。
「それが……事務所の社長が、待てって。まだ公にするな、って」
「なぜだ?」
「マリアは、うちのバンドの顔だから。彼女が妊娠で休むだけでも、ファン離れが心配だって……こんな形で失踪なんてことになったら、バンドのイメージが致命的になるって。だから、まずは内密に、って」
吉沢の言葉に、杉野は眉をひそめた。
事務所社長の吉田
確かに、マリアの歌声と容姿は、『Silent Law』の人気の核だった。
匿名バンドとはいえ、唯一顔出しと声出しをしていたマリアの人気は絶大で、彼女の妊娠休業ですら、事務所にとってはかなりの痛手だったろう。
失踪となれば、そのダメージは計り知れない。
「だから、耕一に頼みたいんだ。お前、刑事だろ?警察としてじゃなくて、俺たちの仲間として、秘密裏にマリアを探してくれないか?」
吉沢の懇願に、杉野は言葉を失った。
公務員である自分が、私的な依頼で秘密裏に捜査を行うなど、あってはならないことだ。
しかし、目の前の親友の絶望的な顔と、行方不明の妊婦の命を考えると、断ることはできなかった。
「わかった。俺にできる限りの協力はする」
杉野は吉沢の肩を強く叩いた。
◇それぞれの動揺◇
***
高杉慎司は、弁護士事務所のデスクで、マリアの失踪を知った。
吉沢伸からの電話だった。
「マリアがいなくなった。本当に突然で……」
吉沢の声は、かつてないほど動揺していた。
高杉も動揺したが、今は、ただ吉沢の言葉に耳を傾けることに集中した。
「そうか……それは大変だな。何か力になれることがあれば、いつでも言ってくれ」
高杉は努めて冷静に答えた。
しかし、電話を切った後、彼は深い溜息をついた。
佐野隆弘も、吉沢からの電話でマリアの失踪を知った。
彼の心臓は一瞬凍り付いたが、すぐに冷静さを取り戻し、ビジネスライクな声で答えた。
「それは心配だなぁ。何か書き置きとか残してなかったのか?…そうか…妊娠もしてるし、それは心配だな」
電話を切ると、佐野はオフィスチェアの背もたれに深く身を沈めた。
「まずは社長に報告しないと……」
佐野はスマートフォンを握りしめ、事務所の吉田社長に報告をする。
「所長、マリアの件はもう聞いてますか?」
吉田は冷静にこう答えた。
「ああ、私も吉沢から聞いている。とりあえずマスコミが駆け付けないように対処しておいた。バンドも次期ボーカルを近々発表する予定だから心配しなくて大丈夫だ」
彼らの『Silent Law』は、今、確実に変革の時とそれぞれの関係の変化の時期を迎えていた。
(第1話 終)
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