『正鵠』(上)
――夢を見ていた。
自分は光の粒だった。
輪の中にいて、とても満たされていた。
忙しく回る光の中を、清らかな歌が溢れている。
花のにおいがする。心地が良い。自分は全てと一つだ。
ここにずっといたい。離れたくない。このまま、永遠に。
そう思っていると、急に、上から摘ままれて、光の外に出された。
自分は全てから切り離された。知らない感情が襲ってくる。
痛い。怖い。暗い。辛い。
不安、不快。
どうして? どうしてみんなといられないの?
帰りたい。
帰りたい。
自分を摘まんでいた何かが、離れた。いや、投げられたのだ。
もう、輪は見えなかった。
歌もにおいも心地良さも、世界から消えてしまっていた。
自分は光ではなくなっていた。
どこかの星の、どこかの姿。
自分は、何かに、なってしまっていた。
1
怒号。
三階で本を積んでいた無月は、眉を上げた。
この空間に、おおよそ似つかわしくない大声が気に障ったらしい。
柵に寄りかかり、吹き抜けから下を見下ろす。原因は、すぐに分かった。
無月はロングスカートの裾を少し摘まみ上げて、壁沿いの螺旋階段をゆっくりと降りていく。磨き上げられた木製には、そこかしこに傷が付いていた。まだ駆け上がってくる怒鳴り声に反応して、建物全体にひびが入る。
一階に下りると、読書のために置かれた机の周りに、何人かが集まって事を見守っていた。その内の一人、癖っ毛の女性が、怒気を含ませている無月を見つけて、肩を竦めた。
「何事です?」
無月が、平らな声色で尋ねる。途端、辺りは水を打ったように静かになった。
人が、無月を避けるように割れる。その奥に座り込んだ男性は、無月に向かって酒の瓶を投げた。
無月の前で、それは飛散し、姿を消す。
「下弦、またあなたですか」
「てめえ、ムゲツ、アルコール禁止にしやがって! 俺は酒が飲みたいんだ! 酒を解禁しろ!」
「青月、今日はこれの相手をしている場合ではありません。早々にお帰り願いましょう」
青月、と呼ばれた癖っ毛の女性は悲鳴に近い返事をし、男を抱えた。
「ごめんなさいごめんなさい、でも、無月さんはお忙しいので……!」
赤ら顔の下弦は大騒ぎしているが、小柄な女性の力に押し負けて、さっさと三階にまで連れて行かれる。やがて、どこかに閉じ込められる音がした。
無月は溜息をついて、勝手に修復されていく建物を眺めた。
険しさを隠そうともしない。
「今日は、新しい住人が来る」
歓迎されない、新しい住人が。
呟いて、無月は自分の作業に戻っていった。
天井の窓から、三日月が覗いている。
「そうかい。それじゃあ、何も分からないんだね」
「そうなんだよ。本当に困っていてさー」
中世のヨーロッパの軍服のような、そんな衣装に身を包んだ人物が笑った。
引き連れられている若い男性は、首を傾げる。半袖のシャツに黒いスラックス姿の、学生と言われても通りそうな見てくれ。
「名前も歳も、出身も分からないなんて。現実とは全然繋がれていないのだね」
「まあ、ここが何なのかすら分からないしな。案外と、俺は死んじまったのかもな!」
けらけらと笑うが、人物は浮かべている微笑を崩さずに、前に進んでいく。
「死んではいないよ。そんなに笑う魂が死んだばかりのはずがない」
「……あ、そう。つまんねーの」
やがて、辿り着いたのは、立派なつくりの扉だった。人物はその真横に立ち、男性に道を譲った。
「ここから先は君しか行けないのでね。名前はその先の管理人が与えてくれるから安心だ」
「この先には何があるんだ?」
「書架、さ」
「書架? 本棚って意味だったか」
「そう。ただ、ここは大きな大きな図書館みたいなものでね。さあ、あとは行って確かめてみて御覧」
男性は小さく頷くと、扉に手を掛けて、息を吐いた。
そして、ゆっくりと、開いていく。
2
わあ、と男性から思わず声が出た。
磨き込まれた木製の造り。中央部は吹き抜け、硝子張りの天井から差す月明かりで、神秘すら漂わせている。
書架、と言われるだけあって、無数の本棚が円形の壁沿いやその他にも円を描くように置かれている。あちらこちらでは、座り心地の良さそうなソファーや椅子が人々を誘惑をしている。
広い。かなりの広さの図書館だ。
男性が呆然としていると、目の前から、女性がやって来た。
ショートカットに、ふわりとしたロングスカート。幼い顔立ちだが、どこか影を含ませた瞳。
どこかで見たような、と男性が頭をかく。女性は一瞬、顔色を暗くした。
しかし、すぐに表情が明るくなり、駆け寄ってくる。
「ようこそようこそ! 新入りさんですね! ここは『月の書架』、私は書架長の無月(むげつ)と申します!」
「あ、ああ。どうも……」
花が咲いた、と思わせる振る舞い。面食らっていると、無月と名乗った女性、いや、少女なのかも知れない。男性の手を取って、ぶんぶん振り回した。
「あ、ああ」
生返事しか出来ないのは、男性から見て、彼女の振る舞いがあまりにも、作り物感に溢れているからだった。
その奥で震えている、蓬髪の女性のせいもあるかも知れない。
「そうだ。まずはあなたにお名前を与えないといけませんね。何が良いでしょう? ね、青月(せいげつ)?」
肩を跳ねさせて返事をした、青月と呼ばれた女性が駆け寄ってくる。
「あ、あの。とてもその、若い方なので、牛若丸なんてどうでしょうか?」
「あなたはここの名前のルールを忘れたのですか?」
ひいい、と小さく蹲る青月に、男性は確信した。この無月という人物は、やはり何かを演じているのだと。
無月は可愛らしい仕草で首を捻ると、閃いたのか手を叩いた。
「そうだ。孤月(こげつ)にしましょう!」
「こげつ……? あの、それって」
「良い名前です、あなたにぴったりです!」
青月の反応から、あまり良い意味ではなさそうだ、と男性は内心腹が立った。
「さあ、言ってみて下さい」
「……孤月」
しかし、口にしてみれば、なんともしっくりときた。不思議なことに、自分の名前は以前から「孤月」だったのではないかと思うくらいには、違和感がなかった。
「では、後はお願いしますね」
「は、はい」
無月は頬を染めて微笑むと、端にあった螺旋階段をゆっくりと登っていく。とても上機嫌そうであったが、何か信じられないと、孤月は思った。
背後で、青月は座り込み、大きな溜息を吐いた。孤月が振り返ると、青い顔に僅かに紅が差している。安堵の息だったのかも知れない。
「なあ、お前」
「ごめんなさい、無月さん、今日はご機嫌斜めで。普段はもうちょっと優しいんですが……」
「ああやっぱり、ああいうのを演じてるんだな」
「はっ! こ、このことは無月さんには内緒にして下さい……! 怒られてしまいます」
あまり気の利くタイプではなさそうだ、と内心孤月は思う。目の下の隈は深く、頭上からの月光で更に褪めて見えた。
「申し遅れました。私は青月です。……ここの副書架長で、普段は無月さんのサポート役をしています。今日は、あなたのご案内をさせていただきますね」
「それはどうもありがとう。……ところで、ここはどういう場所なんだ?」
孤月は青月にすすめられたソファーに座り、向かいに腰掛けた青月はとん、と机を叩いた。
何もなかった机に、テーブルクロスとカップのセットが現れる。孤月は飛び上がりそうになるのを隠して、「これは?」と尋ねた。
「こ、珈琲でよろしいですか?」
「良いけど。……叩くと出るのか?」
やってみて下さい、と微笑む青月に、孤月は徐に手を上げる。弱く机を叩くと、テーブルクロスに細波が起きた。
「まだ、無月さんからお部屋の鍵を貰っていないから、出来ませんよ。……はい、どうぞ」
青月は申し訳無さそうに、今度は二回、机を叩いた。すると、カップの底から湧いたように、珈琲の黒さが現れた。
香ばしさで、鼻腔が満たされていく。孤月は一口、それを啜り、目を丸くした。
「本物だ。魔法か何かか?」
そんな馬鹿なことがある訳がない。孤月の表情はそう言っていた。
青月は首を振った。
「魔法なんてものはここにはありません。ここにあるのは、イメージを具現化したもの。簡単に言えば、良く出来た偽物です」
はあ、と半ば信じられない気持ちでもう一口。苦味と共に抜けていく香りは、自分の知っている珈琲そのものだった。
「信じられないな」
「最初は誰でもそうです。ここに来ていることがイレギュラーなことですから」
青月は微笑み、自分には紅茶を出してみせた。
3
孤月は、どこから話そうか、などと呟いている青月の背後を見る。
床には高価そうな絨毯が敷き詰められている。ペルシャ絨毯だったか、とぼんやり思った。
絢爛な模様は降ってくる青白い光で褪めていた。その上を歩く人影はまばらで、誰もが色のない顔をしている。まるでここにいるのにここにいないような、そんな気色だ。彼らからは音もしない。
さらに視線を上げると、螺旋階段の先に二階があることに気が付いた。そこから見れば詳しい構造が分かるかも知れない。
「孤月さん?」
青月の声で、孤月は我に返った。
「あ、ああ。ごめんごめん。かなり大きい建物だなと思ってさ」
「そうなんですよ。月の書架はかなり大きいんです。近くの書架より迷い込む人が多いからですね」
「迷い込む?」
青月は頷く。
「アカシックレコードってご存知ですか?」
「ああなんか、スピ系なイメージがある言葉だ。聞いたことはある」
「スピ系? ……アカシックレコードは、簡単に言うと、全ての情報が記録されているっていう概念のことです。ここはそれの一部です」
孤月は面食らった。
「俺、スピ系には興味ないはずなんだけど」
「ええと、スピ系っていう言葉はどういう意味ですか?」
「スピリチュアル系、の略だよ。聞いたことない? 占いだの前世だの言っている奴らのことを指してるの」
ああなるほど、と青月は頷いた。
「そうだとしたら、ここは、ええと所謂スピ系の方がたくさんいる場所と言ってもいいかも……」
「青月ちゃんもそんな感じなの?」
努めて明るく、孤月は言った。青月は痩せこけた頬に手を当てて、唸った。
「現実の私がそうかどうかは分かりません。ただ、今、孤月さんの目の前にいる私はそうです」
「現実の私って何? 今の青月ちゃんは青月ちゃんでないってことなの?」
青月は眉尻を下げた。
「うーん。説明が難しいんです。簡単に言うと、世界は現実と無意識の二つに分かれていて、自分という存在はそこに一人ずつ存在するって感じだそうです」
「だめだ、分かんねえや、パス」
孤月は我慢し切れず、手を振った。頭が痛くなりそうだった。
青月もそれ以上の説明は難しいようで、ごめんなさい、と呟いて紅茶に目を落としていた。今にも泣き出しそうだ。
やり過ぎたか、と孤月は内心焦る。
「ああ、えっとさ。そういうのは良く分かんないけど、ここに連れて来られた以上はなんかやる事があるんだろ? ここでの過ごし方というか。仕事でもすればいいの?」
「いいえ、特に仕事はないですよ。私や無月さんは書架の整理や新しくアクセス権を得た方に最初の案内などがありますけど」
「何もする事ないの?」
「ここに来る方とお話ししたり、本を読んだりして過ごしている方が多いです」
む、と思わず声が出た孤月。
「俺、暇なの嫌いなんだけど……」
「あら、暇なんかないわよ?」
突然の声に、孤月は振り返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます