【手記5】訴えが「無」に帰す場所
最後の、そして唯一の正常な手段。
平成xx年xx月xx日。
教育委員会を訪れる。
ペンは、次第にインクが途切れ、筆跡は乱れていた。
頭痛はさらに悪化し、夜は一睡もできない。
それでも、この記録だけは続けなければ。
この狂気を、誰かに伝えなければ。
私の精神は限界だったが、その意志だけは、まだ燃え盛っていた。
狂気の淵に立つ、足掻きだ。
教育委員会の事務室は、学園とは異なる、無機質な空気に満ちていた。
壁に並ぶ無数のファイル、規則正しく並んだ机。
ここにいる人々は、学園の狂気とは無縁の、理性的なはずの人間だ。
受付で渡された用紙に名前を書き込み、案内された椅子に座る。
「早乙女先生、お話は伺っております」
目の前に座った職員の男は、丁寧な口調で私を迎えた。
彼の顔に、何の感情も見て取れない。
ただ形式的で、事務的な視線。
その言葉遣いは、完璧に「正常」な日常の言葉だった。
乾いた喉から声を絞り出した。
学園で起こっている全てを、必死に、論理的かつ具体的に訴える。
「生徒たちが『これ』としか言わなくて、その、授業が成立しません。テストの解答も指示代名詞ばかりで……」
言葉は、焦燥で震えていた。
喉の奥がひりつく。
「教員同士の会議も『あれ』だけで進行し、意味不明で…… 私の言葉が、彼らにはノイズって言うんでしょうか……その」
言葉は、口から、血を吐くように溢れ出る。
机の上のファイルが、職員の規則正しい指先によって、ゆっくりと開かれていく。
私の必死な訴えを、彼は真剣に聞いているように見えた。
だが、その瞳の奥には、何の理解も宿っていない。
「……先生」
彼の声は、あくまで穏やかだった。
しかし、私の心を切り裂く。
「それは、お疲れなのでは?」
息を呑む。
「少し、お休みになられてはいかがですか? 心身ともに、ご無理なさっているように見受けられます」
彼の言葉遣いは、一貫して丁寧で、優しさすら滲ませている。
だが、その言葉は、私の訴えを「精神的な疲弊」という枠に押し込める、絶対的な壁だった。
彼の完璧な「正常」が、私を「異常」だと分類していた。
私の真実が、彼らの「正常」というフィルターによって、完全に濾過され、消滅していく。
「私たちは、早乙女先生のご懸念は承知いたしました。つきましては、専門の機関にご相談されることをお勧めいたします」
一枚のパンフレットを私の目の前に置かえた。
そこには、精神科の連絡先が記されている。
どこにも、私の言葉が真実として受け入れられる場所などない。
究極の孤独が、私を襲った。
私の「正常」は、外界の「正常」なシステムでは「異常」として分類されるのだ。
世界に、私の居場所はもうない。
もはや言葉を継げない。
その場で、身体中から力が抜けていく。
指先が、無意識に「ソレ」と、机をかきむしった。
(手記:5/7)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます