003_Bliss in Inebriation - 06
HardPhoneの中の濱谷アセビは凍った表情を顔に張り付けている。エレナから情報提供を受けた際の証明写真画像だった。
直接過ぎただろうか、とブラックは己の言葉を顧みる。
だがアオイの反応はブラックの予想に反して、あまり芳しいものではなかった。
「……誰? この人」
写真を眺めるアオイの表情は、嘘偽りない困惑に彩られている。既視感を覚えている様子もなく、
「ごめん、知らない」
アオイは首を横に振った。これは演技ではない。
しかしあまりに淡泊な答えに、少し猜疑心を刺激される。それは杞憂に過ぎないと思考を振り払うが、いやな感覚が纏わりついたままだった。
「いや。構わない。今は先に、エレナの密命を果たすとしよう」
「あら……珍しく乗り気なのね」
エレナは不敵に微笑む。これにブラックは一度瞼をゆったりと伏せて、少しばかり持ち上げる。
「この車、ASEAN支部には向かっていないだろう」
瞼の隙間から覗く深紅の光彩が、真実の断片へ指をかけようとしていた。エレナは肩を竦める。
「ええ。あなたたちはオフラインセッションに出なくていいわ。ジェイドとアオイに出てもらえれば事足りるもの。それに、」
「ロビンが余計なことを言いかねないな」
「おいコラジジイ」
ロビンはわかりやすい舌打ちをして、「で? 私らはどうすればいいのよ」そう投げやりに言う。
「インターポール科学捜査官のヴィンセント・チョウという人物と接触してちょうだい。彼はリャン・ロンミン殺害事件の折、DNA鑑定を行った……」
「DNA鑑定に瑕疵があったということか?」
「いいえ。ICPOがリャン・ジュンジェを示した以上、彼がこの世に存在しているのは間違いない。ICCはその事実を事実として扱う気はなさそうだけど」
「ふむ。……あくまで推理の範疇ではあるが」
「構わないわ。聞かせてちょうだい」
エレナは鋭く言った。今は一つでも多くの情報が欲しい、といった具合だった。
「まず、リャン・ジュンジェにまつわる証拠が捏造である、というICCの判断、その根拠だが」
ブラックはゆっくり唇を動かす。ランセットのように鋭い声色が車内に響いた。
「リャン・ロンミン殺害事件において、監視カメラ映像が生成AI補完処理によってめちゃくちゃにされていたのは、君たちも知っての通りだろう。フレーム処理、顔認証、そして」
「骨格特徴抽出の無効化」
ロビンが横から得意げに言った。ブラックはその声に軽く顎を引く。
「犯罪捜査にある程度の造詣がなければ証拠の無力化はできない。さらに、骨格抽出を無効化しなければならないとなれば、考えるべきなのは一つ」
そう言ってブラックは脚を組み替え、
「あの現場において監視カメラに映った、リャン・ジュンジェとされている人物が、実際は別人である可能性だ」
「ちょっと待って。別人ですって……? でも、」
「まあ聞いてくれ。リャン・ジュンジェは殆どの時間を日本で過ごしていた可能性がある。そして日本には、〈トリスメギストス〉が入国者へ付与する臨時IDとは別に、特定の国から入国してきた人間に付与される特例IDがある」
「けど特例IDで探しても奴は発見できなかったじゃねえか」
ジェイドは言う。確かに、TBLで稼働していた濱谷アセビが出してきたIDを以ってしても、リャン・ジュンジェの存在を探し当てることは叶わなかった。
「では特例IDを統括するシステムが〈トリスメギストス〉ではない、別の──秘匿されたシステムなら?」
「そうか」 ジェイドが勢いよく両手を握り合わせた。「もしそのシステムが〈トリスメギストス〉と関連してはいるものの、さらに強固な能動型防御が張り巡らされているなら、」
「当然、DeepDown経由のID検索は突き返すだろうな」
「……どうしてこんな単純なことを見落としたのかしら」
エレナが心底憎たらしいと言わんばかりに唇を噛み締める。
「香港、台湾、中国、日本……四か国分の医療データサーバーにDeepDown抜きでアクセスなんて、一体どれだけの時間がかかるか。最悪だわ」
「それに国外から〈トリスメギストス〉にアクセスすることはできません」 ジェイドが言う。「日本の制空権に入っていないと繋がらない」
「日本国籍あっても無理なの?」
アオイが言う。
確かに伊知地アオイは日本国籍を所持する、れっきとした日本人だ。しかし〈トリスメギストス〉に接続される人間は、満十八歳以上の成人に限られる。つまり、アオイはシステムの外側にいる人間だった。
「残念ながら多分、無理だ」 ジェイドは力なく首を振った。「〈トリスメギストス〉のファイアーウォールは、国外からだとDeepDownの捜査特権でも認証が通りにくい。それに今、ICCがリャンにまつわる証拠類を棄却した以上……なおさら望み薄だ」
「有り得ねえだろ、捜査妨害じゃん」
「日本は鎖国政策を完全撤廃したわけじゃないわ。少なくとも、システム面にもそれは残っている」
ロビンの声に、エレナは溜息を零す。
〈トリスメギストス〉のセキュリティは、世界中のどこのシステムよりも堅牢だった。まるで楽園の四方を守る、燃え盛る車輪のように。
「でもやるしかないわ」
「しかし医療データサーバーは、基本的にDeepDownからのアクセスでしか個人情報を開示しないようシステム規定が作られています。DeepDown抜きで情報を得ようとしたら、」
「あんたインターポールなんだからどうにかしなさいよ」
ロビンがジェイドの肩を小突いた。「無茶言うな!」とジェイドは口をへの字に曲げる。
「如何にインターポールでも、非公式な捜査で個人情報を開示させるのは国際捜査法違反なんだよ。しょっぴかれちまう」
「ならどうすんのよ。リャン・ジュンジェの居所が分かんなきゃ、ICCの決定を覆して調査続けらんないじゃん」
「なるほど、それで君はシンガポールにいたのか」
ブラックがすっきりした表情で言った。
「それで、ってどういう意味です? ご主人様」
「どうやらシンガポールでは〈トリスメギストス〉の都市実装実験が行われているらしい」
手元に浮かぶホログラム画面がそれを示している。大学と企業の共同で行われる実験都市について──その文言がある。
エレナはそれを見て、
「ええ。
無感動にそう言った。だが口元はしっかり微笑んでいる。
こういう表情のエレナ・ブリュンヒルドは、己の思惑通りに事が進んでいることを確信している、そう思っているな──ブラックはふっと肩の力を緩めた。
「なぁ~るほど」
ロビンはわざとらしく間延びした声で、
「特例IDってのはぁ。その、実験都市で稼働してる〈トリスメギストス〉と紐づけられたIDかも、って?」
「そういうことだ。実にずる賢いやり方だな、エレナ」
「──あら。何のことか分からないわ」
その声と同時にオートタクシーが停車する。背後には大蔵省、そしてさらに奥にはマーライオンやマリーナ・ベイサンズといった嘗ての栄華を思わせる観光地。
その中で白く輝く、新古典主義の外装を掲げる建築物こそ、ICCのASEAN支部だった。
近くには一面がペロブスカイト太陽電池で覆われたビルがいくつも天へ伸び、マレーシアで見たドームが都市ごと覆っている。エレナはアオイ、ジェイドを連れてタクシーを降り、腕の端末で運賃を支払った。
「あなたたちは
「うまくやってよね」 ロビンは念を押すように言った。「あ。あとそいつがまだ未成年のガキだってこと、忘れないでよ」
「あなたに言われたくないわ。彼には指一本、髪の一房にだって触れさせない」
「どーだか」
「神にでも誓えば満足かしら?」
その言葉にロビンは「ハッ」と鼻で笑う。あからさまに嘲る様子にエレナは少し気を悪くしたか、腕を組んで見下すように視線を向けた。
「神がいたら、私ら全員地獄行きだよ」
オートタクシーの扉が閉まる。
ロビンの声に、ブラックは思わず膝の上の手を握りしめた。未だその手は、人の体温を喪ったままだった。
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