STAGE.18 気い狂て――ナナコの過去(壊)

 放課後の、誰もいないはずの教室からスパンと乾いた音が響いた。


 戸塚スズカは八幡乃やわたのソマコの一味に呼び出されて、傾きはじめた日の光が差し込む教室にいた。


 苛立つソマコの右の掌はじんじんしていて、スズカの左頬はその掌をかたどってじわりと赤く染まっていく。


「へへへ。こういうの、嫌だな。わたしがナナコちゃんと仲良くするのはわたしの勝手じゃない? そう思わないかな?」


「……ッ!!」


 スズカがぶたれてもなお顔色一つ変えずに口答えしたので、ソマコの苛立ちは一層深いものとなり奥歯をぎりりと鳴らした。


 ダンッ。


 先ほどのビンタより更に力を込めた一発は、歯を頬粘膜にめり込ませた。スズカの口の中は鉄の味でいっぱいになり、歯形の穴から次々流れる血がやがて左の口角から溢れる。


「あんまし調子に乗ってっと草薙と一緒にお前もぶっ殺してやるからな」


 ソマコはスズカの肩をどつきながらそう吐き捨てて教室から去っていった。


 スズカはぎこちない足取りで壁際に後退る。背中が壁に達すると力なくずるずる腰を落とした。先ほどまで気丈に振る舞っていたが肩が震え、涙が溢れた。


 ソマコの暴力に恐怖したのは事実として、ナナコがあの女から少なからずこのような非道を受けていることを理解したからだ。多くを語らないナナコの心の陰りを想像できていなかったことを悔やんだからだ。後悔はスズカに影を落とした。沈みゆく夕日によって影が伸びるように、スズカを覆う――。


 翌日、頬を腫らして登校したスズカは「駅で人とぶつかっただけ」と嘘をつく。


「ス、スズカちゃん……本当にぶつかって怪我したの……?」


 そんなわけがないと思ってナナコが問い詰めるも、


「そうなんだよー。恥ずかしいよね……ナナコちゃん、心配させてごめんね」


 ナナコに自分のせいだと思わせたくないスズカは同じ答えを繰り返すばかりだった――。


 スズカの心に影を、ナナコの心にしこりを残す一件だったが、二人だけの練習は変わらずに続けていた。


 ある日の放課後、空いている教室で二人の好きな曲をエレキギターとエレキベースの生音のまま合わせていた時のこと。突然、思わず肩が上がってしまうほどの音を立てて荒々しく教室の引戸が開く。


「へえー。草薙ィ。お前ずいぶん楽しそうにしてんじゃん。誰の許可取って笑ってんだよ。ああ?」


 八幡乃ソマコは教室に乱入するなり、ナナコの腕を掴んで黒板目掛けて力任せにぶん投げる。


 黒板に背中を打ち付けたナナコが「うっ」と呻く。そのまま前のめりに倒れて、抱えていたベースもガコンと床にぶつかった。「ナナコちゃん!」スズカが悲鳴をあげてナナコの側に駆け寄ろうとするが、ソマコが立ち塞がって阻む。


「や、やめようよ、こんなこと……。ナナコちゃんもわたしも、困っちゃうな。へへ……」


 スズカはこんな理不尽はもう終わりにして欲しいと懇願するが、最後は恐怖からくるストレスに自己防衛が働いて乾いた笑いがこぼれてしまう。


「いつまでも良い子ちゃんぶってへらへらしてんじゃねぇぞ」


 言い終わる前から右手の甲でスズカの頬をはたく。

 この状況に絶望してスズカは項垂れたまま顔を上げられない。


「おい、戸塚ァ。お前もこれ食ってみろよ。草薙の大好物だぞ。おらァ! 食えよ!!」


 ソマコの怒号が教室の空気を震わせる。左手でがしっとスズカの顎を掴んで無理矢理開かせると、反対の手で輪ゴムの束を取り出して口の中に突っ込む。


「うぶっ……おぐぉ……!」


 固く閉じたスズカの目から涙が流れ、今にも吐きそうに嗚咽している。


 その光景を目の当たりにしたナナコの中に、心の奥底の水槽に、巨大な汚泥スラッジの塊が投げ込まれる。その大きさにいよいよ水槽が耐えられず、がしゃりと割れて心の中にガラス片が散らばる。


 そのうちのひとつがナナコの中の何かの線をぷつりと切った――。


 叩く。叩く。叩く。叩く。叩き潰す。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩き潰す。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩き尽くす。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。叩く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕き潰す。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕き潰す。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕き尽くす。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。砕く。壊す。壊す。壊す。壊す。壊し尽くす。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊し尽くす。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。壊してやる。


 破壊し尽くしてやる。


 破滅させてやる。


 終わらせる――。


「ぱう!?――」

「ぺう!?――」

「ぽっ、ぽぽ、ぽう!?――」


 あっという間に女たちは等しく撃滅された。

 薄汚れた教室に落ちている塵紙と同然、くしゃくしゃにされ、鼻血を垂らしながら転がっている。

 そして、教室の床一面に鮮血の花弁が、艶やかな赤で開いている。


 思考が巡ったコンマ〇一秒――。

 それと体が動いた十秒のことだった――。


 ナナコの頭が暴力的な思考で満たされそれが溢出いっしゅつした瞬間に理性を制御する意識が途絶えた。

 それと同時にナナコの体は自動操縦暴力によるオートパイロットで動いた。


 四つん這いのままだったナナコはベースのネックを右手に握って立ち上がると、まずは一番手前にいたにやにやしている取り巻きの耳の奥、乳突部のあたりに一撃。旋回式バックブローの要領で遠心力を存分に乗せたベースをぶち込んでやった。


 噴出する鼻血を追い抜きながら落下する頭。どちゃっ。と着地すると頭のまわりに綺麗な赤い花が咲いた。その光景がよほど衝撃的だったのか、もう一人の取り巻きが目ん玉を落としそうなほどに驚愕している。


 ナナコは間抜け面の顎を狙ってベースを振り上げる。勢いのままベースは空中に半月を描いて、最後は床を叩き、ゴッと鈍い音を立てた。顎をぶっ壊された取り巻きは後頭部から落ちて床の上でバイブレーションが止まらないスマートフォンみたいになった。


 最後はスズカに屈辱を与えた八幡乃ソマコ。


 スズカの顎を掴んだままフリーズしていたこの女の左腕を掴む。骨を砕いてしまうのではないかという握力で。ソマコは尋常ならざるナナコの姿に気が動転して「ぽっ」などと到底意味を成さない音を発している。「ぽぽ」腕を逆間接の方向にねじ曲げて転がしてやった。


――The Clashザ・クラッシュ……。LONDON CALLINGロンドン・コーリング……。


 草薙ナナコがこのあと鉄槌を下ろす絵が、正義を執行する絵が、自らの頭の中に浮かんだ。


――こんなに簡単な話だったんだ。いつでもできた。


 慈悲をと、命乞いをしている最後の一人、

 八幡乃ソマコの脳天を狙うべく、

 ぎりりとネックを引き絞り、

 ベースを天高く掲げ、


 断頭台の刃の如く、


 暴力の落下――。


 ――――。


 ――。


 この一件を境に、草薙ナナコと戸塚スズカのは、みんなのの外側に弾き出されてしまった。


 虐めを受けていたという事実を以て重々酌量の余地があった草薙ナナコだが、この後あっさりと高校を去った。


 その後ほどなくして様々な配慮の結果、戸塚スズカも別の高校に編入することとなった。


 草薙ナナコにとっての戸塚スズカは、自己を犠牲にして孤独との決別を与えてくれた掛け替えのない友人だった。スズカがいなければとっくに終わっていた。それだけでなく、音楽という戦うための勇気と生きるための価値を授けてくれた。


 戸塚スズカにとっての草薙ナナコは、自己同一性に理解を示し、身を挺して救ってくれた恩人だった。不謹慎だが、スズカはあの時のナナコにどうしようなく惹かれた。格好がいいと見惚れてしまった。これから自分が支えとなってその姿を側で見ていたいと。


 ※


 八幡乃ソマコとの一件まで思い出したナナコは、無性にスズカの体温が恋しくなって布団に潜り込んだ。


 スズカも寝ぼけ眼にナナコの気配を感じて頭を胸の中に抱き寄せる。


「ねえ……スズカ」


「なあに……? ナナコ」


「あーし……もう迷わないよ」


「うん……」


「あーし……スズカと、大切なものを守るためならもう迷わない」


「うん……」


 ナナコは背中に腕を回して、もう一段深く胸に沈み込む。


「う……、うぅ……っ」


 スズカは泣いているのだろうか。嗚咽のような声が小さく漏れはじめる。


「う! ううーっ!!」


――え? なんか激しくね!?


「ううっ!! やばっ!! 吐く吐く吐く吐く!!」


 スズカはナナコを突き飛ばすと跳ね起きてトイレに駆け込んだ。間一髪何とか間に合った模様。


 ナナコは良い感じの幸せな時間を返してー、と思わないでもなかったが、スズカと仲間バンドと、そして音楽パンクを守るためならもう揺るがないと固く誓った。


 カーテンの隙間から燃えるような朝焼けの日が射し込みはじめていた――。

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