第十二話 「孤独の教室で」【後編】

 放課後。教室に残る笑い声や足音が、陽莉の周囲だけを避けて消えていく。自分だけが、透明な壁の外に押し出されているようだった。



 ――もう、限界かもしれない。



 夕暮れの空は、朱と群青がにじみ合い、校舎の影を長く引き伸ばしていた。昇降口を出た陽莉は、鞄を抱きしめるように胸元で握りしめ、足を止める。


今日も一日、言葉を交わすことなく過ぎていった。


 教室で、彼女に向けられた笑い声も、好奇の視線も、もう数え切れない。



 ――わたし、何のためにここにいるんだろう。



 足元に伸びた自分の影が、あまりに細く見えた。呼吸が、喉の奥で詰まり、肺の奥にうまく空気が入らない。


 「平気だよ」と笑い続けるための仮面が、今にも剥がれそうだった。


 「……陽莉」


 名前を呼ぶ声に振り返ると、校門脇に蒼が立っていた。夕日を背に受け、彼女のシルエットが滲む。


 その瞳に映る陽莉は、どれほど無理に笑顔を作ろうとしても、きっとすぐに見透かされてしまう。


「……少し、疲れた顔してるね」


 夕日を背にした蒼の声は、柔らかいのに、抗えない温度を帯びていた。喉の奥がひゅっと詰まり、視界が一瞬で滲む。


 「……そんなこと、ないよ」


 言い訳のつもりが、かすれた声になった。うまく笑おうと唇を引き上げても、頬の筋肉がぴくりと震えただけだった。


 「陽莉……無理しなくていい」


 蒼の声は静かで、それでいて抗いがたい温度を持っていた。喉の奥がひゅっと詰まり、視界が一瞬で滲む。


 ――ああ、もう隠せない。


 ふらりと膝から力が抜け、壁に手をついた。胸の奥に溜め込んでいた言葉が、堰を切ったように溢れ出す。


「……もう、疲れた。誰も、私の声を聞いてくれない……」


 自分の声が、涙に濡れて震えていることに気づいた瞬間、もう止められなかった。


 頬を伝う雫が、制服の袖口を濡らす。

 泣きたくないのに、涙が勝手に溢れ続けた。


 蒼は何も言わず、そっとその肩に手を置いた。その掌から伝わる温もりに、陽莉の震えがほんのわずかに収まる。



 ――ああ、この人の隣だけは、怖くない。



 嗚咽に混じる呼吸の中で、陽莉は小さく声を震わせた。


 「……ごめん……」


 謝る理由なんてどこにもないのに、口から出るのはそれだけだった。蒼は首を横に振り、少しだけ声を落として言った。


 「……大丈夫。僕がここにいる」


 その一言で、張り詰めていた陽莉の心が、ようやく崩れ落ちた。


――――――――――


――陽莉が、限界だ。


 肩に触れたその瞬間、細い震えが掌を通して蒼の奥深くまで伝わった。あまりに儚く、今にも砕けてしまいそうで、胸の奥がきりきりと痛む。


 「大丈夫。僕が、ここにいる。」


その言葉は、自分自身への言い聞かせでもあった。



 ――本当に、守りきれるのか。



 そう心の奥で問いながらも、口に出した瞬間、後戻りはできなくなっていた。



 完璧な蒼――学年の誰もがそう呼ぶ、整った笑顔の仮面。それは、自分が選んだ「鎧」であり、失いたくないものを守るために身につけたものだ。 


 しかし、その鎧の内側には、常に剥き出しの恐怖がある。


「もし、本当の自分を見られたら」という恐怖。



 微笑みを崩した瞬間、何がこぼれ落ち、何を失うのか――その恐怖は、蒼自身がいちばんよく知っている。

 

 それでも、陽莉をこの空白の中にひとり残すことだけは、もうできなかった。



――――――――――

 翌朝、教室に一歩踏み入れた瞬間、空気が肌にまとわりつくように冷たく感じた。


 机を囲む笑い声は、陽莉の席の周りだけを避けるように流れていく。


 誰かの目が一瞬こちらをかすめ、すぐに逸れる――それだけで、ここに自分の居場所がないことがわかる。


 机の上に残された一枚のプリントには、黒いマジックで「チクり魔」と書かれている。陽莉の指先がかすかに震え、プリントをくしゃりと握りしめた。


 ――ここまで来たか。


 蒼の奥歯が、ぎり、と軋む。「完璧な蒼」の仮面を崩さずに、抑え込むように息を吐いた。

 

 蒼は仮面の奥で歯を食いしばり、当たり前のように声をかける。


「おはよう、陽莉」


 教室が一瞬、ざわめきを止めた。真央でさえ視線を逸らし、口をつぐんでいる。


 しかし、ざわめきはすぐに蘇り、教室は何事もなかったかのように動き出した。


 その中心では、数人がスマホを覗き込み、画面を見せ合いながら忍び笑いを交わしている。

 

 その笑い声が、陽莉の席にまで届いては、刃のように胸をかすめた。


「やっぱさ、あの件、陽莉の仕業でしょ?」

「先生に媚び売ってるって噂、もう広まってるよ」


 針のような言葉が、陽莉の鼓膜に突き刺さる。机の端に置いた指先に、力がこもる。爪が白く変色し、かろうじて現実につなぎ止めていた。



 ――もう、やめて。



声にならない願いが喉の奥で千切れた、そのとき。



「――やめろ。」


 いつもの柔らかい声とは別人のような、低く冷え切った声が、教室の空気を一瞬で凍らせた。


 声の主は蒼。


 いつもの「完璧な微笑み」は影もなく、黒曜石のような瞳が陰口を叩いていた生徒たちを射抜いている。


「根拠のないことを言うな。それは、ただのいじめだ。」


 淡々とした声に、怒鳴り声よりも重い圧があった。気まずそうに視線を逸らした二人は、席を立ち、教室の空気だけが残った。


 陽莉は一瞬、蒼の「仮面の裏側」を見た。


――怒りと恐怖を押し殺し、それでも立ち続ける姿。


 胸の奥に、熱を伴う安堵がそっと芽生える。


――ああ、蒼が隣にいる。それだけで、まだ息ができる。



 「……行こっか。」


 蒼は何事もなかったように微笑み、陽莉の肩越しに教室の扉を示した。その一連の仕草の中に、誰も気づかないほど小さく、しかし確かな「決意」が滲んでいた。




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