第十二話 「孤独の教室で」【前編】

 登校した瞬間、陽莉の足がわずかに止まった。

 昇降口のざわめきが、耳に針を刺すように痛い。


 すれ違う生徒たちの視線が、一瞬だけこちらをかすめ、すぐに逸れる。その一瞬の「間」が、何よりも雄弁に告げていた。


 ――ああ、広まってる。


 文化祭の後から断続的に聞こえてきていた噂が、さらに尾ひれをつけて膨らんでいた。


「先生に気に入られようとしてる」

「裏で実行委員に媚びた」


――そんな言葉が、今では教室を飛び越え、学年全体に浸透しつつあるのがわかる。


 声を張り上げて否定する者はいない。すれ違いざまに聞こえる含み笑いや、ひそひそ声が、鋭い刃物のように陽莉の胸をかすめていた。



 教室の扉を開けると、いつものざわめきが耳に広がる。机を寄せ合い、スマホを囲む輪の中から、笑い声が弾ける。


――けれど、その輪のどこにも陽莉の居場所はなかった。


 「おはよ……」


 声を出した瞬間、空気が一瞬だけ揺れた。だが、返事は返ってこない。視線が陽莉をかすめ、すぐに沈黙に吸い込まれていく。


 ――あ、まただ。


 胸の奥が冷たく沈む。机の上の教科書を開いたふりをしながら、視界の端で、真央の姿を探す。


 以前なら「おはよー、陽莉!」と駆け寄ってくれていた彼女は、別のグループの中で笑っていた。

 陽莉と視線が交差した一瞬、真央の笑顔がわずかに硬直し、そのまま何事もなかったかのように背を向ける。


 ――……真央まで。


 助けを求めるようにもう一度目を向けても、真央の背中は動かない。胸の奥で、何かが小さく軋む。理由を問いただす勇気もなく、ただ唇の裏側を噛んで俯いた。



 休み時間になるたび、噂は形を変え、囁き声は距離を詰めてくる。

「ほら、あの子」

「ね、やっぱりそうじゃない?」

 笑い声が、陽莉の耳にだけ残響のようにこびりついた。


 隣から小さく声がかかる。


「……陽莉、大丈夫?」


 顔を上げると、蒼がそこにいた。今まで「仲がいい」と言われる程度の距離感で隣にいた蒼が、ここ数日、露骨に陽莉に話しかけるようになった。


 教室で彼女が声をかければ、周囲の空気がほんのわずかにざわめくのがわかった。


 それでも、蒼はお構いなしに陽莉の机の横に立ち、何でもないことを話しかける。


 ――守ろうとしてるんだ、私を。


 そのことが、かえって胸を締めつけた。蒼の隣にいると、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。


 けれど、その分だけ、教室の中で陽莉に注がれる視線の冷たさが際立つのも確かだった。



 放課後。鞄を抱え、昇降口へ向かう途中、背後から忍び笑いが聞こえた。

「やっぱ、あの子じゃん」

「うわ、マジなんだ……」


足が止まりそうになるのを、必死で前へと押し出す。


 ――聞こえなかったことにすればいい。


 そう自分に言い聞かせながら、胸の奥の小さな穴から、冷たい風が吹き抜けていくのを感じていた。



――――――――――

 蒼の視線が、その背中を追っていた。


 「……どうしたら、守れるんだ」


 心の奥に燻る焦燥感を、彼自身も持て余していた。ただ隣にいるだけでは、陽莉の孤独を払いのけることはできない。それは、この数日で嫌というほど痛感している。


 ――けれど、どうすれば?


 自分の「完璧な仮面」を脱ぎ捨てるわけにはいかない。それが、蒼がここで生き残るための唯一の「鎧」だから。その葛藤が、喉の奥に重く沈んでいた。



 数日後、噂はさらに形を変えて膨れ上がり、もはや止まる気配を見せなかった。


「実行委員でもないくせに、先生に媚びるために、わざわざ仕事を引き受けに行った」


――そんな根拠のない話が、真実のように語られていく。


 止める術は、もうどこにもない。


 陽莉は教室に入るたび、空気の温度がほんの少し下がるのを肌で感じていた。


「媚び女」

「先生に気に入られようとしている」

――そんな囁きが、教室のあちこちから響く。


 爪が皮膚に食い込み、赤い半月を刻む痛みだけが、陽莉に「ここにいる」と教えてくれる。


 ふと顔を上げれば、目が合った蒼の瞳に、胸の奥でわずかな安堵が広がった。



 ――ああ、蒼がいる。



 弁当を広げる陽莉の隣に、蒼が静かに腰を下ろした。周りの視線を一切気に留めないかのように、当たり前のように隣に。


 「今日、体育きつかったね」


 蒼の何気ない声が、張り詰めた空気を少しだけ和らげる。けれど、陽莉の耳には、その奥に潜む「守ろうとする意志」が感じ取れた。


 ――私を、庇ってくれてる。


 それがありがたい反面、同時に胸の奥をきゅっと締めつける。蒼の存在が、さらに周りの視線を刺すように変えていることに、陽莉も気づいていた。

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