第九話 「笑顔の隙間」

 次の日も、その次の日も、文化祭の準備は刻一刻と進んでいった。


 陽莉は、飾り付け班の打ち合わせをしながら、時折教室の隅に目をやる。衣装係のテーブルに座る蒼は、いつもと変わらない笑顔で、色とりどりの布を広げていた。


 ――でも、わかる。

 あの笑顔は、どこか違う。



 話しかけても「大丈夫」と答えるその声が、まるで透明な壁を隔てた向こう側から響いてくるみたいで、指先が届かない。


 先週までは、こんな風じゃなかった。

 冗談を言えば必ずくすっと笑って、視線が合えば、ほんの少しだけ目尻が緩んだ。そのささやかな変化に、陽莉だけは気づける。



――そう信じていたのに。



 胸の奥に、知らない影が落ちたみたいにざわめきが広がっていく。



 その日の放課後。飾り付け班の作業が一段落し、陽莉は思い切って衣装係の机に歩み寄った。


「蒼、最近……なんか元気ないよね?」


 指先が机の端をきゅっと掴む。


 沈黙が落ちた。


 蒼の手が、布の端で一瞬だけ止まる。ほんの数秒だったのに、陽莉には、心臓がひとつ分跳ねたほどの長さに感じた。


「……平気だよ。気にしないで」


 返ってきた言葉は、優しく、どこまでも穏やかだった。けれど、その「大丈夫」は、陽莉の胸の中で、すぐに音を立てて崩れた。



 ――届かない。



 初めて、そう感じた。


 以前なら、蒼の「大丈夫」には、必ずほんの少しの温度が宿っていた。


 「信じてほしい」という思いが、声の奥に隠れているのを、陽莉は確かに感じ取れたはずだった。



でも今、返された言葉は――あまりにも遠かった。



 目の前にいるのに、指先がすり抜けてしまう距離感。彼女の笑顔の奥に、深く降り積もった影があるのに、それに触れることすら許されないような。


 気づけば、陽莉の口から何も言葉が出てこなかった。喉の奥に、重い塊がひっかかったまま、ただ頷くことしかできなかった。



――蒼。

 どうして、そんなに遠くへ行ってしまったの?



 その夜、陽莉は布団に潜り込んでも、目を閉じることができなかった。蒼の「平気だよ」という声が、耳の奥で何度も反響する。


 ――平気じゃない。

 本当は、絶対に。



 でも、その思いを口に出せなかった自分がいる。

 怖かったのだ。


 もし無理に踏み込んで、蒼がさらに遠くへ行ってしまったら――そう考えただけで、胸の奥が痛んだ。


 スマホの画面に浮かぶグループLINEは、今日も陽気なやり取りで埋め尽くされている。けれど、そこに蒼はいない。既読はついているのに、返事は一つもない。



 ――蒼。

 どこにいるの、今。


 私の知らない場所で、また一人で、あの仮面の奥に閉じこもっているの?



 親指が無意識にトーク画面の「新しいメッセージ」の欄をタップする。

 『元気?』と打ちかけて、消す。

 『話、聞くよ』と入力して、また消す。

 何を書いても、送信ボタンを押せない。


 白い入力欄だけが、ぼんやりとした光を放ち、部屋の中に冷たい影を落とした。



 翌日の放課後、文化祭準備で蒼とすれ違った瞬間、陽莉の胸が強くざわめいた。 


 彼女は、笑っていた。

 いつもと変わらない、完璧な笑顔で。


 ――違う。その笑顔じゃない。


 声に出せないまま、視線だけで彼女を追いかける。その背中は、決して陽莉の方を振り向かなかった。思わず、胸の奥でふたつ問いが浮かぶ。



 ――私の「届かない」が、蒼にもあるの?


 ――もしそうなら、私たちはずっと、互いの仮面の外側から手を伸ばし続けるだけなの――?


その答えを知るのが、どうしようもなく怖かった。



 夜、陽莉は机に頬杖をつき、ノートの片隅に形のない線を延々と描き続けていた。それが、心の奥に巣くうざわめきを少しずつ削り出していくようで、やめられなかった。


 ――どうしたら、蒼に届く?



 頭の中で繰り返す問いに、答えは出ない。

 けれど、ひとつだけ確かなことがあった。このまま「大丈夫?」と聞き続けても、彼女は首を横に振るだけだということ。


 ――だから、違う聞き方をしなきゃ。


 彼女の仮面の奥にあるものを、無理やり剥がすんじゃない。ただ、「一緒にいる」って、伝えたい。  

そのための言葉を探して、陽莉は小さく唇を噛んだ。


不意に、スマホが震えた。真央からの通知だった。

『文化祭、明日も朝から集合だってー!』

 陽莉はすぐに返信した。

『了解!』


 だが、指先は自然と、蒼との個別チャットに移動していた。空白の画面に、言葉を綴る。


 『蒼、明日さ……一緒にお昼食べない?』


 送信する直前、胸の奥で緊張が弾ける。


 今さらこんなメッセージが、彼女の心に届くはずない――そう思いながらも、陽莉は「送信」を押した。


 しばらくして、画面に小さな既読がつく。



 だが、返事は来なかった。



 陽莉はスマホを胸に抱き、目を閉じた。静かに息を吐く。心の中にわずかな痛みを抱えながらも、明日を待つことにした。


 まだ、あきらめるには早すぎる。


 だから、明日、彼女に会ったとき、ちゃんと伝えよう――「私はここにいるよ」と。


それが、今の自分にできる、たった一つの答えだった。

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