第八話 「揺れる輪郭」

 あの朝、廊下で蒼の背中を見送ってから、気づけばもう一週間が過ぎていた。文化祭の準備に追われる日々の中で、あのとき感じた胸の痛みは、かすむどころか日に日に輪郭を増していく。


 「テーマパーク風フォトブースと展示」というクラスの出し物は、次第に形を成し始めていた。教室の隅にはカラフルな布や装飾が積まれ、黒板には「衣装案」や「配置図」がぎっしりと書き込まれている。



――ここにいる私は、ちゃんと「私」なんだろうか。



 陽莉は、机の上に広げたプリントに視線を落としながら、隣から飛び交う明るい声に合わせて笑顔を作った。  


 笑い声が響くたび、どこか遠くで鈍い音がして、胸の奥に小さな空洞が広がっていくような感覚があった。



 その日の夜。ベッドに寝転び、スマホの画面を見つめる。真央たちとのグループLINEには、今日も絶え間なく通知が流れていた。


『陽莉っていつも笑顔で偉いよね!』

『さすが癒やしキャラ〜✨』


 そう打ち込まれた言葉に、陽莉の親指が止まる。 


 ――「偉い」って、なんだろう。



 心のどこかで、乾いた音がした。



「……そうだよね」


 笑顔のスタンプを選んで送信する。画面には、すぐに「かわいい〜!」「やっぱ陽莉は天使だね!」という返信が溢れた。


 指先が冷たく、画面を持つ手のひらにじんわりと汗がにじむ。笑顔のスタンプを送信した瞬間、胸の奥に見えない重しが沈み込むようで、息がひとつだけ詰まった。


 けれど、胸の奥に何の温度も宿らない。



 ――誰も、本当の私を見てない。



 笑顔を貼りつけるたびに、私という存在の輪郭が、少しずつ薄く削られていくような気がする。


 不意に、心の中に一つの名前が浮かんだ。



 ――蒼も、あのとき無理に笑っていた。



 思い出した瞬間、胸の奥で小さな波が立つ。


 もしあのとき、ほんの一秒でも長く目を合わせていたら、彼女も同じ空洞を抱えていることに気づけたんじゃないか――そんな考えがよぎり、心臓がひどく落ち着かなくなる。


 文化祭の準備中、衣装係として忙しそうに動く蒼の横顔が脳裏に蘇る。


 あのとき、無理に笑顔を作って「任せて」と言った蒼の目の奥に、一瞬だけ滲んだ影があった。


 あれに気づいたのは、きっと自分だけだ。



――――――――――

 夜、蒼の部屋。机の上には、文化祭で使うフォトブース用の衣装のデザイン画が散らばっていた。


 色鉛筆を握る手が、何度も止まってはまた動き出す。描きかけのスケッチの端に、爪痕のような筆圧の跡が残っていた。



 ――「蒼ちゃん、かわいいから衣装係お願いね!」



 教室で浴びた声が、何度も何度も頭の中で反響する。


 「かわいい」という言葉が、まるで別の誰かに貼りついたラベルのように、自分の皮膚の上を冷たく滑り落ちていく。


 頭の奥に、低くざらついた自分の声がかすかに反響する。否応なく訪れた声変わりの気配が、日に日に輪郭を増し、覆い隠してきた「かわいい蒼ちゃん」を侵食していた。



 ペンを置き、蒼は立ち上がった。ドレッサーの前に座り、肩までのボブをゆっくりと梳かす。鏡に映るのは、誰が見ても「女の子」として何の違和感もない顔。


 だけど、その輪郭の内側で、別の自分が息を詰めているのがわかる。


「……もう、限界なのかな」


 掠れた低い声が、狭い部屋に落ちた。自分の耳で聞き慣れない声色に、胸の奥で小さなガラスがひび割れる音がした気がした。


 取り繕うたび、内側に溜まった何かが軋んで、形を保てなくなりつつある。


 少しずつ、元に戻れないところまで進んでいる。

――そんな感覚が、喉元に鈍く絡みついて離れない。


 髪を梳かす手を止め、深く息を吐く。



 呼吸ひとつさえ、仮面の内側に閉じ込められているようで、肺の奥まで空気が届かない。胸を満たそうと吸い込むたび、皮膚の内側にひび割れた仮面が張りつき、喉奥で呼吸が跳ね返されるようだった。



 ――この声を、陽莉に聞かれたら、どんな顔をされるんだろう。



 思考がその一点に触れた瞬間、心臓の奥がきゅっと縮む。「まだ保てている」と言い聞かせても、その言葉は、もう自分の中であまり意味を持たなくなっていた。



 ふと、陽莉の笑顔が脳裏に浮かんだ。


 ――あの子も、あの仮面の裏で息を詰めているんじゃないか。


 そう考えた瞬間、胸の奥が痛む。陽莉に「本当の声」を聞かれたら、彼女はきっと――拒絶するのではなく、何かに気づいてしまう。その予感に胸がざわつき、恐怖と同時に、ほのかな救いが、静かに心を包んだ。



 蒼は、力なくベッドに倒れ込む。天井を見上げながら、握りしめた指先にだけ、確かな震えが残っていた。


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