第一章『春風に揺れる想い』

第一話 「ただ、隣にいるだけで」

 四月。春の陽射しが、まだ少し冷たさを残す風に混ざって校舎を駆け抜けていく。


 新学期初日、私は昇降口の前で立ち止まり、深呼吸をした。胸の奥に詰まった緊張を、春の匂いと一緒に吐き出す。


(今日も、ちゃんと“いい子”でいられるよね、陽莉)


 ガラス越しに見える校舎の中は、すでにざわめきで満たされている。笑い声と足音が折り重なり、透明な壁の向こうに別世界が広がっているようだった。


 扉を開けるだけなのに、足先が床に縫いつけられたみたいに動かない。あの輪の中に、今日も私はうまく混ざれるだろうか。胸の奥がきゅっと縮まり、指先がじんわり冷たくなる。


――でも、大丈夫。今日も、私は『陽莉』というみんなが好きな“いい子”の仮面を、ちゃんと被れているはずだから。



 春は出会いの季節――そう言うけれど、私にとっては、いつも自分の居場所を確かめるための季節だった。


 クラス替えの度に、私は新しい輪に飛び込んで、笑顔を貼り付けて「いい子の陽莉」を演じる。笑っているうちは誰も気づかない。



――本当は、心の奥が空っぽで、怖くて仕方がないことなんて。



 扉を開けると、ガヤガヤとした女子たちの声が一気に押し寄せた。私のクラスは三十人中、男子がたった三人しかいない。そのせいか、女子同士の輪がとても強い。



 私は瞬時に愛想笑いを貼り付け、「おはよう」と声をかけながら教室に入る。


 教室の空気は、春の陽射しと人の体温でほんのり温かい。女子たちの声が重なり、ひとつの大きなざわめきになって耳を満たしていた。


 新しいノートの紙の匂いと、誰かの甘い香水が混ざり合う。私は笑顔の仮面を貼り付けたまま、クラスの視線を泳ぐように受け止める。


そのとき、視界に見慣れた後ろ姿が映った。



――蒼がいる。



 それだけで、胸に絡みついていた緊張がふわりと解けた。教室の喧騒が少しだけ遠のいて、視界の真ん中に蒼の柔らかな輪郭だけが残る。


 彼女の姿を見つけた瞬間、教室という広い海の中で、ようやく足をつける“陸”を見つけたような安心感が胸に広がった。


 

 窓際の席で本を閉じ、顔を上げる蒼。首元には、いつもと変わらないマフラー。彼女は目が合うと、ふっと柔らかく笑った。それだけで、世界が、ほんの一瞬、私と蒼だけのものになる気がした。



「蒼!」

 声を弾ませた私に、蒼が穏やかに頷く。

「陽莉、同じクラスだね。……よかった」


 彼女の声は、春風みたいに落ち着いていて、耳に心地いい。


「うん、よかった。今年もよろしくね」


 蒼が近くにいるだけで、胸の奥にふわりと温かさが広がる。不思議と呼吸が深くなる。


 彼女は私のことを変に詮索しないし、無理に距離を詰めようともしない。ただ、当たり前のように隣にいてくれる。



 ――それだけのことが、どれほどありがたいか、きっと蒼は知らないだろう。



 クラスメイトたちの視線がこちらに集まるのを感じながらも、私は気にしないふりをした。


――「あの二人、本当に仲いいよね」という囁き声が、かすかに耳に届いた。



 自己紹介や教科書の配布が終わり、昼休み。

 新しいクラスの輪があちこちにできる中、私は窓際でパンをかじっていた。ふと、蒼が声をかけてくる。


「陽莉、緊張してない?」

「ううん、大丈夫だよ」


 返しながら、彼女の首元に目がいく。いつも首に巻かれている、季節外れのマフラー。



――でも、昔からそうだった。



 「暑くないの?」と聞いたこともあったけれど、蒼はただ曖昧に笑って、「これが落ち着くから」と答えただけだった。


 あのマフラーは、蒼自身を守るための鎧なのかもしれない。そう考えると、なぜだか私も、その奥を覗こうとする勇気が出なかった。



――蒼には蒼の秘密がある。そう感じたからだ。 




 放課後、校門を抜けると、春風がふわりと頬を撫でた。昼間のざわめきから切り離されたような帰り道は、私と蒼だけの静かな世界だ。


 二人で下校する道すがら、私は無意識に蒼の袖口を指でつまんでいた。伸ばした指先が、彼女の袖口にそっと触れる。


――大丈夫、蒼が隣にいる。


 この感触があるだけで、今日という一日をちゃんと終えられる気がした。


「陽莉?」

「……ううん、なんでもないよ」


 手をつなぎたいわけじゃない。ただ、彼女がここにいるって確かめたかっただけ。



 夕陽が差し込む坂道を下りながら、私は彼女の隣を歩く。遠くから聞こえる部活の掛け声や、校庭を駆ける靴音。

 

 どれも現実の音のはずなのに、蒼といるこの時間だけは、私の心を誰にも触れさせない透明な膜で包んでくれるようだった。



 春風が頬を撫でると、ふと数年前の記憶が蘇る。



――蒼が転校してきた春の日。

 慣れない教室の真ん中で、私は机に顔を伏せ、必死に涙を堪えていた。新しい環境にうまく馴染める自信がなくて、胸の奥がきゅっと縮んでいくようだった。

   

 世界から切り離されたような孤独の中、ふいに影が差し、そっと差し出された一枚のハンカチ。

 顔を上げると、まだ自己紹介も済ませていない蒼が、静かに私を見つめていた。



『大丈夫、私が守るよ』



 その言葉に、張り詰めていた糸がふっと緩み、世界の色が少しだけ優しく見えた。窓から差し込む春の光の中、蒼の背後で揺れる桜の花びらが、やけに鮮やかに見えたことを覚えている。



 あの日、誰にも助けを求められなかった私に、蒼だけが迷いなく手を差し伸べてくれた。「守るよ」というその言葉は、私の中で何度も反響している。



 私の声は誰にも届かないと思っていた。必死に飲み込んだ涙が、喉の奥でつっかえて苦しかった。 



 ――でも、蒼だけは見ていた。



 泣き顔を隠そうとする私に、迷いもなく「守る」と言ってくれた。


 蒼の声に触れた瞬間、私は「守られる」という感覚を初めて知った。

 

守られたくて泣いていたわけじゃない。



 でも、あの瞬間、初めて「ここにいていいんだ」と思えた。


 だから、今も私の心は彼女の隣でだけ、ようやく深呼吸できる。


 蒼がそばにいるなら、私は「陽莉」という仮面を被り続けても、きっと壊れずにいられる。


桜の花びらが舞い上がる中、私はそっと目を閉じる。



 ――今年も、蒼の隣にいられますように。


 

 ただ、それだけが私の願いのすべてだった。




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