仮面をかぶった僕たちは

揺らぎ

プロローグ 「仮面をかぶった僕達は」

「大丈夫、今日も“良い子”でいられる」


そう心の中で唱えながら、私は鏡に笑顔を作る。


 忙しすぎる両親は、今日も家にいない。ちゃんとした朝食も、交わす会話も、ここにはない。


 でも、学校に行けば、みんなが「陽莉ちゃんっていい子だね」って褒めてくれる。


だから私は、その言葉に応えるために笑う。



――怖いんだ。

一人になるのが。

誰にも必要とされなくなるのが。



 私の“良い子”の仮面を、ちゃんと信じてくれるのは蒼だけだ。彼は、いつも優しくて、頼りになって、誰よりも私のことを見てくれる。


「陽莉、大丈夫だよ。私が守るから」


――あの言葉に、私は何度救われたかわからない。


 だけど、ときどき考える。


 あのマフラーの奥に、本当は何が隠されているのだろう、と。どれだけ一緒にいても、彼女はどこか遠い。私と同じように、仮面をかぶっている気がする。



――もしかしたら、私たちは似ているのかもしれない。



 孤独を隠すために、笑顔という仮面をかぶり続けているところが。



 私の秘密?



 それは、本当は甘えん坊で、怖がりで、子どもみたいな私だということ。でも、蒼の前でだけは、その秘密をそっと解いてしまえる。


 彼女の手が、私の頭を撫でるたび、張り詰めた心がゆっくりとほどけていくのがわかる。



――春が来た。



中学三年、最後の一年が始まる。



 この一年が終わったら、私たちは同じ道を歩けなくなるのかもしれない。


それでも、私は願っている。


「ねえ、蒼。今年も一緒に帰ろうね?」



 私の心の奥にある小さな願いが、どうかこの春風に消されませんように――。



――――――――――

 マフラーの端を、無意識に指で握りしめる。春の風は、もう十分に暖かいはずなのに、僕の首元だけは絶対に露わにできなかった。


 喉仏に触れた指先が、わずかに震える。



――また、少し膨らんだ。



 毎朝、鏡を覗くたびに、それは昨日の僕ではなくなっている。声も、顔も、身体も。僕が「僕」でいるための猶予が、あとどれくらい残っているのか、誰にもわからない。


 僕の名前はあおい。中学三年。

 誰もが羨む“文武両道の優等生”。


 けれど、それは全部「作られた僕」だ。


 「女の子」として学校に通い、丁寧な言葉と穏やかな笑顔で、完璧な仮面をかぶり続ける。



 本当の僕――「男」であることは、誰にも知られてはいけない秘密だった。



 理由は簡単だ。家庭の事情。


 母は「蒼は“娘”でいなければならない」と言い、逆らうことは許されない。彼女の望む「理想の娘」を演じることが、僕に残された唯一の居場所だった。



 それでも、この仮面を被り続けられるのは、ただ一人、陽莉ひなりの存在があるからだ。


 彼女はいつも、あの太陽のような笑顔で僕の前に現れる。表向きは明るく、大人びた「良い子」を演じているけれど、僕は知っている。


 あの笑顔の裏に、深い孤独が隠れていることを。親に顧みられず、それでも笑顔でいる彼女の「仮面」を、僕はきっと誰よりも早く見抜いた。



――あの日、彼女の泣き顔を見たから。



 小学四年生の春、転校したばかりの僕の前で、陽莉は誰にも言えず泣いていた。「大丈夫?」と声をかけた僕に、彼女は縋るように手を伸ばした。あのとき握った小さな手の温もりが、今も僕の掌に残っている。


あれ以来、僕は決めたのだ。



――この子だけは、僕が守る。



 守ると誓ったその日から、僕の「仮面」には意味が生まれた。



 この仮面があるから、陽莉の隣にいられる。



 この仮面があるから、僕は「蒼」でいられる。



 だが、もう限界が近い。声変わりを誤魔化すための飴も、日ごとに効かなくなってきた。鏡の中の僕は、日々、隠しきれない「男」になっていく。



――もし陽莉に、僕の正体が知られたら?



 今までの信頼も、隣で笑う資格も、すべて失ってしまうのだろうか。考えるだけで、胸の奥が締め付けられる。


 新しい学年が始まる春。

 クラス替えのざわめきの中、陽莉はまた、いつもと変わらぬ笑顔で僕の名を呼ぶのだろう。


「蒼、今日も一緒に帰ろ?」


――その声が、僕をこの世界につなぎとめている。



 だけど、わかっている。



 この一年が終わるころ、僕の仮面は、もう誰の目にも隠しきれなくなるだろう。


それでも、僕は祈ってしまう。



――どうか、この笑顔だけは、守り抜けますように。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る