第31話:少年の声、そして光が照らした記憶

「じゃあ、火の番よろしくね」

「うん。お休み」

「流石に今日は疲れたよ。あんなハードな祈祷、今までで一番だったもん」


 そう言ってミリナがすぐに寝息を立てはじめたのを時子は見た。

 与作は一番早く眠りについていた。


「まぁ、前衛で一番動き回ったしね」


 眠る与作を見て、ソフィアもうたた寝のように眠りに落ちた。エリアスもまた、横になってから眠りに落ちるのは早かった。ウルマンはミリナの横で座ったまま目を閉じているが、規則的に揺れる肩が、彼が眠りに落ちていることを物語っている。


 ――火が揺れる。空は漆黒。火の明かりに負けじと、星の光がクッキリとして見える。都会の目まぐるしく、渦を巻くようにかき回される理素の流れと違って、今目の前の理素の動きはとても穏やかだった。


 一人起きている時子はリュックサックの中からブーメランを取り出した。火の明かりに、カンガルーの絵と連なる点描の線が明滅した。


「おかげさまで、今日もなんとかなりました」


 恩師である久作の顔を思い浮かべて、時子は呟いた。受け取って以来、ずっと持ち歩いていた「お守り」に、今日はいよいよ窮地を助けられた。


(……これ、いつもらったんだっけ)


 目の前にあるお守りにまつわる記憶があいまいになっていることに、ふと気が付いた。久作がいなくなる直前か? 久作と各地を旅していた道中か? ――思い返してみれば、そのいずれの時点でも、すでにこのブーメランは自分の手元にあった。そうなれば、残るのは久作と出会った頃に絞られるが……。


『――それ、お前にやるよ』


 ブーメランから、声が聞こえたような気がした。

 ——子供の声だ。


 冷静に考えれば、ブーメランが喋るわけはない。それが、自分の記憶の中から湧き上がったものだと時子は理解した。


(——何か、忘れてる気がする……)


 その子供の声を頼りに、自らの記憶に意識を向ける。ぼんやりとした風景の像が立ち上がり始めた。その、輪郭の伴わない記憶の断片をすくい上げるべく、時子は目を閉じた。


 ――空のほとんどを灰色の曇が覆い、ところどころに青が覗いている。

 ――日の光は雲に隠れ、晴れと呼ぶには少し薄暗い、曇り空だった。


 記憶の中、時子は舗装されていない、収穫を終えて藁が倒れている田んぼの間のあぜ道に立っていた。

 空に向かった視線を降ろすと、同じくらいの歳の少年がいた。全体的にツンツンとした黒髪が跳ねていた。その手には、ブーメランが握られていた。

 少年は遠くの曇り空を目掛けてブーメランを放り投げた。真っすぐ進んだそれは、ぐっと軌道を変え始めると、少年の前の地面に向かって乱暴に着陸……いや、墜落した。

 少年は走ってその墜落物の回収に向かった。


「……これ、本当にちゃんと戻ってくるのか?」


 ブーメランを拾った少年が時子に気づいた。

 肩くらいまでで揃った黒髪。静かに自分のことを見つめている少女。このあたりでは見慣れないその姿に目が留まったようだ。


「お前、このあたりのやつじゃないよな」


 少年の問いかけに対して、時子は静かに口を閉ざしていた。ただ、なんとなく少年が持っていたブーメランに目が行った。少年はその視線に気がついたようで……。


「これ、気になるのか?」


 少年がずいとブーメランを出すように、時子に見せつけた。


「俺の父さんがお土産にくれたんだ。さっきからやってるんだけど、全然戻ってこない。けっこう難しいんだ」


 少年がまたブーメランを投げる。旋回し始めると、高度がみるみる下がっていき、そのまま明後日の方向に着地した。


「ほらな」


 また少年はブーメランのもとに走っていく。そして、拾って戻ってきた。

 時子は変わらず無言のまま、視線をブーメランに向かわせていた。


「投げてみるか?」


 少年はブーメランを右手の親指とひさし指で挟むように持った。くの字の開いた方向が指先の方向を向いている。自分の頭の後ろに回して見せた。


「こんな感じで投げるんだってさ」


 そう言いながら、ブーメランを投げる動作を素振りしてみせた。そして、少年はブーメランを時子に差し出した。時子は無言のまま、瞬きを二度すると、それを受け取った。レントゲン写真のようなカンガルーの絵図。そして、塗料が点々と落とされ、連なって線のように描かれている。

 時子はひっくり返して、ブーメランの裏側を観察をしてみた。絵図の描かれている表面は曲面の構造だったが、裏面は平らになっていた。そして、少年のレクチャー通りの持ち方で、頭の後ろに回して――宙に放った。


 時子の手を離れたブーメランは真っすぐ進み、傾くように旋回し始めた。

 時子の意識はブーメランに集中していた。


 ――風が吹いた。


 ブーメランは風にふわりと支えられるように高度を維持しながら旋回を続け、時子の目の前にまで迫った。――そして、時子は手を伸ばしブーメランを捕まえた。


「す……すっげぇ! ちゃんと戻ってきた」


 少年が興奮気味に声を上げた。


「お前すごいな! 軽く投げただけなのに」


 時子を見る少年の目は、大きく開かれ、光って見えた。


「よさくー! たつ兄がでっかい秘密基地作ったって!」


 少年より少し小さいくらいの少女が、向こうから一人やって来て、少し離れたところから声をかけてきた。


「え、マジ? 行きたい!」


 少年は、やって来た少女の方を勢いよく振り返り、大きな声で返答した。

 時子は、そのやりとりには特に関心を向けることもなく、手に持ったブーメランをじっと見つめていた。


「……それ、お前にやるよ。お前のほうが上手く使えるみたいだしな」


 そう言って、少年は駆けていった。あっという間に、その姿は小さくなっていった。


「――ここにいたか」


 時子の後ろから誰かの声が聞こえた。時子は、覚えのあるその声に、はっと気づいて振り返った。――ちょうど先ほどの少年と同じようにツンツンとした頭の大人の男だった。鼻の下に無精ひげを蓄えている。男は時子の目の前に立った。


 そして、時子の持っているブーメランに気付いた。


「あれ、そのブーメラン……、与作にやったやつじゃねえか」


 一瞬、不思議なものを目にしたように、目を丸くしたかと思うと、男はすぐにニカッと笑って、時子の頭に手をおいた。


「それ、大事にもっときな。元は俺が友達にもらって、息子にやったんだけどさ」


 頭に置いた手をわしわしと動かした。


「今、お前の手にあるってのも、きっと縁なんだろうな」


 その男に揺らされる視線を時子は再びブーメランに落とした。

 ちょうど雲の切れ目から、太陽が姿をあらわにした。差し込んだ日の光は、わずかな熱と共に、ブーメランを照らした。


 ——パチっと薪が爆ぜる音がした。


 目を開いた時子の視線は、手に持ったブーメランに焦点があった。揺れる火の放つ光に照らされている。空は夜闇の黒を纏っている。


「このブーメラン……先生がくれたんじゃなかったんだ」


 時子は、ぐっすりと寝息を立てている与作を見た。普段かけている眼鏡が無い。――記憶の中に現れた少年を彷彿とさせる無邪気な寝顔だった。


「そっか。……『あの日』……私達、会ってたんだ」


 *


 目の前には木の板とトタンで建てられた質素な小屋があった。旅の目的地である聖地「ウルル」。それを管理するアナング族の長の控える小屋だった。


「まずは、アナングの長に挨拶をしてウルル登頂の話をつける。お前たちは後ろで控えていろ」


 ウルマンが与作達の前に立った。鋭い目つきの老人、そして一人の若い男が、入り口に合わせて腰をかがめて出てきた。


「……なんか、した方がいいことある? 俺、多分、アナングの言葉は分からない気がするけど」

「おとなしくしていればいい。私とミリナで事は進める」


 老人と男が一同の前に立った。老人は目を細めて、全員を深く観察するかのように順に見た。対する与作達は、ウルマンとミリナの二人が前に立ち、その後ろに四人が横に並ぶようにしてアナング族の二人と向き合った。ミリナが一歩前に出て、すっと息を吸う。肺を膨らませた空気は歌として吐きだされた。胸に手を当て、相手の目を見るように歌声を響かせた。


(――きっと、自己紹介としての歌なんだろうな)


 エリアスが、ソーケージで水を汲んでいるときにミリナが言っていた言葉を思い出した。

 ミリナの歌が終わると、ウルマンが口を開き淡々とした口調でしゃべり始めた。ミリナ以外に、その言葉を理解できるものはいなかった。

 話を聞いているアナング族の長が、ちらと与作たちを見始めた。そして、ウルマンに言葉を返した。ミリナが続けて言葉を紡ぐ。すると、長は腕を組み、目を閉じた。何かを考えているような仕草を見せた。


 ――そして、目を開くと、何かをつぶやきながら、首を縦に振った。


 ミリナが、さっと、にかっとした笑顔で与作たちの方を振り返った。


「よかったね。みんなでウルルに登れるよ」


 ソフィアが小さく息を吐いた。与作がグッと拳を握りしめて小刻みに揺らした。

 長のそばに立っていた男が、ウルマンに声をかけると、ウルマンは頷いた。そして、追従を促すように手を差し伸べながら、歩き始めた。


「ウルルには、明日の日の出前に登り始める。それまでは、部屋を貸してくれるそうだ」

「ほんと長い迂回になったわね」


 ウルマンの言葉に、ソフィアが安堵するように言葉を吐いた。


「一体何があるやら、いよいよ分かる訳か」


 ウルマンとミリナ続いて与作は進み始めた。広い青空の下、視線の先にそびえる、山の如く巨大な岩の塊を見据えた。

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