アンノティスド・ダークウェブ

熊谷聖

第1話

 北千住の安いワンルームは、夜になるといつもどこか湿った匂いがした。

 築二十年以上のマンションのコンクリートは、昼の熱を溜め込みながらもすぐに冷え、床はどこかひんやりしている。


 桜井悠真は、その冷たさが好きではなかった。


 入学と同時に上京してからもう三年目。大学に通ったのは、実質一年目の春の数か月だけだ。

 その後すぐにコロナ禍が始まり、授業はオンラインに切り替わった。


「とりあえず一人暮らしは続けなさい、せっかく部屋も借りたんだし」


 両親はそう言い、仕送りだけを振り込んできた。北千住から実家のある静岡まで帰ることもできず、悠真はずっと、この狭い空間でほとんどひとりで生活している。


 オンライン授業はパソコン越しの顔ばかりで、最初は新鮮だったが毎日部屋の中での授業、休み時間もただ飯を食うだけの生活にすぐに息苦しくなった。

 バイト先のカフェも、コロナの影響で営業縮小。シフトは月に数えるほどになり、結果的に誰とも会わない日々が続いている。


 最初はオンライン飲み会なんかもしてみた。

 でも、画面越しの会話はどこか空虚で、楽しそうに見せかける自分に疲れるだけだった。

 結局、つながりを求める相手はSNSのフォロワーだけになった。フォロワーだけは皆共感してくれる。ある意味、第二の家族みたいになっていた。


 タイムラインに「友達」の楽しそうな写真が流れるたびに、自分だけ取り残されているような気がする。だからこそ、SNSではわざと明るく見えるように投稿していた。

「久々に宅飲み~」なんて、実際にはひとりで飲んでるのに写真だけは盛り上がってる風に撮る。

 陽キャっぽい自分を演じることで、何とかここにいる、まだ忘れられていない感覚を繋ぎとめていた。


 でも、本当の気持ちは、違う。

 ――寂しい。

 ――誰でもいいから、会いたい。


 胸の奥に渦巻くその感情を、誰かに吐き出すこともできなかった。




 その日も、悠真はゼミのオンライン授業の準備をしていた。


 午後四時からのゼミ。いつものように部屋の机の上にノートPCを置き、コーヒーを淹れる。

 一口飲んで、ちょっと熱いなと思ったその瞬間。


 ガタン。


 マグカップが机の端に当たり、中身が盛大にノートPCのキーボードにぶちまけられた。


「あ、やべっ!」


 熱湯が手にかかり、少し悶絶した後、慌てて拭こうとしたがすでに遅かった。

 画面が一瞬チカッと光り、次の瞬間には真っ黒に沈黙する。


「嘘だろ…? おい、頼む、動けよ…!」


 電源ボタンを押しても、何も反応しない。

 タオルで拭いても乾かしても、沈黙は変わらなかった。


 ゼミの開始時間はもうすぐだ。

 どうしよう。


 心臓がバクバクと鳴る。

 教授に連絡するか? でも、これで単位に影響が出たら――

 いや、ここで下手に嘘をついても更に墓穴を掘るだけだ。なら正直に事情を話し、代わりの策を提示すればいい。


 スマホを握りしめ、必死にメッセージを打った。


「すみません! パソコン壊れちゃって……スマホからの参加でもいいですか?」


 数分後、教授からの返信が届く。


「仕方ないですね。今日はそれでいいですが、近いうちに必ず環境を整えてください」


 ――助かった。


 ほっとしたのも束の間、胸の奥にじわっと不安が広がる。

 このままじゃオンライン授業も受けられない。バイトが減って収入もほとんどないのに、新品のパソコンを買う余裕なんてない。




 ゼミが終わった午後六時過ぎ。


 悠真はスマホをテーブルに置き、ため息をついた。少しコーヒー色にシミができたパソコンを見る。何度かキーボードを叩くが反応はない。もうどうしようもない。


「まいったな…」


 そんなとき、LINEがピコンと鳴った。


 澪からだ。


《大丈夫?教授に聞いたよ。PC壊したんだって?》


 続いて、別の通知が来る。

 三浦朔也からのグループ通話リクエスト。


「よぉ、被害者!」


 画面に映る朔也は、いつもの軽いノリで笑っていた。後ろでどこかの居酒屋のネオンが光っている。


「まじでやっちゃったの? PCぶっ壊すとかありえねー」


「……笑いごとじゃないんだけど」


「悠真、大丈夫?」


 澪が画面越しに覗き込むように心配そうな顔をする。

 彼女は同じゼミの女子で、明るくて優しい。でも、どこか自分とは違う世界にいるような気がして、悠真はいつも少し距離を感じていた。ただ嫌いというわけではない。人としては良い人だし出来たらもっと仲良くなりたい。でも彼女との間に、越えられない壁があるような気がしてならなかった。


「本当に気をつけなよ? 今のご時世オンラインばっかなんだから。パソコンは命よ?」


「分かってるよ……でも新品買う金なんてないし、とにかく安くてすぐ届くやつ探すしかないんだよ」


「はぁ、バイトは?」


 朔也が口を挟む。


「お前、クビになったの?」


「そんなんじゃねぇよ。ただコロナでシフト削られてるだけだって。だから収入がほとんどないんだよ」


「あーあ。だったらさ、良いバイト紹介しようか?」


 朔也がニヤリと笑う。その言い方が、いつもどこか危うい。


「時給高いし、楽だぜ? マジで――」


「朔也、そういうのやめなよ」


 澪がピシャリと遮った。


「どうせまた怪しいやつでしょ? 悠真が変なことに巻き込まれたらどうするの」


「別に怪しくねぇって。ただちょっと普通じゃないだけで――」


「ダメだよ。というか普通じゃない時点で危ないし」


 澪の真剣な声に、朔也は少しバツが悪そうに肩をすくめた。




 悠真はそのやり取りを聞き流しながら、スマホのブラウザで中古パソコンのオンラインショップをスクロールしていた。

 価格順に並べ替え、ひたすら安いものを探す。


 そのとき、目に止まる商品があった。


「ほぼ新品同様・初期化済・即発送可」


 写真を見る限り、かなり新しいモデルだ。

 なのに値段は相場の半額以下。


 説明文をスクロールする。


 ・状態:ほとんど新品同様。内部データは完全初期化済み

 ・付属品:純正ACアダプター、保証書(未使用)

 ・前オーナーは医療関係者のため、丁寧に扱われていました

 ・特殊な用途で使っていましたが、一般利用に問題ありません

 ・今のタイミングでしか出せない“限定価格”です


 ……特殊な用途?


 一瞬だけ引っかかったが、すぐに「医療関係者ならむしろきれいに使ってそうだな」と思い直す。


 しかも、レビューの評価は星5。


「いいの見つけた!」


 思わず声が出る。


「これからやり取りするから、お前らもう寝ろよ!」


 一方的にそう言って、悠真は通話を切った。




 取引メッセージを送る。


「まだ購入可能ですか?」


 返信はすぐに届いた。


「はい、大丈夫です。これは今ちょうど持ち主を探しているパソコンなので」


 ……持ち主を探している?


 変な言い回しだなと思ったが、すぐに「たまたま言葉のクセだろ」と流す。


 そのまま購入ボタンを押すと、売り手からすぐにもう一通メッセージが来た。


「明日には発送します。気に入ってもらえるといいですね」


 淡々とした、でもどこか機械的な文面。

 やり取りはそれ以上続くことはなかった。




 スマホを置いた後、悠真は小さく息を吐いた。

 少しだけ肩の力が抜ける。これでなんとか授業は続けられそうだ。


 でもその奥底では、言いようのない不安が渦巻いていた。


(俺、このまま何してるんだろうな……)


 大学生活は思い描いたものと違った。

 友達と楽しくキャンパスで過ごすはずだったのに、気づけばずっとひとり。


 SNSで楽しそうな自分を演じるたびに、本当の自分がどんどん薄っぺらくなっていく気がする。


(早く、誰かに会いたい……)


 そんな小さな願いを抱えたまま、悠真は布団に入った。


 明日、パソコンが届けば、また少しだけ繋がってる気になれるだろう。

 そんな淡い希望を意識の奥にしまい込み、眠りにつく。


 ━━━━━━━━━━━━━━━


 午前九時。


 チャイムの音に、悠真は思わず背筋を伸ばした。

 ベッドの上でスマホを片手に、SNSのタイムラインを眺めていた。

 画面の中では、フォロワーの美人インフルエンサーが新しいコスメのPR動画を上げている。


 ――やっぱり可愛いな。


 思わずニヤけてしまう。

 でも、配達員にこのだらしない顔を見られるのはちょっと嫌だ。


 スマホを放り出し、急いで顔を鏡に映した。

 寝癖を手ぐしで整え、無駄にパーカーのチャックを上まで閉める。


「はい、今行きます!」


 ドアを開けると、宅配便の若い男性が立っていた。


「桜井さんですね?サインお願いします」


「は、はい」


 荷物は思ったよりも軽かった。

 段ボールの表面には、大手オンラインショップのロゴが印刷されている。


 ――とりあえず、これで授業は乗り切れる。


 心の中で少し安堵する。


「ありがとうございましたー」


 ドアを閉め、段ボールを机の上に置いた。




「さて、とりあえずこれでしばらくは大丈夫そうだな」


 声に出してつぶやく。

 もし動作不良があれば修理するなり、またちゃんとしたパソコンを買えばいい。

 今はとにかく繋ぎとして使えれば十分だ。


 カッターを手に取り、段ボールのガムテープを切る。


 蓋を開けた瞬間――微かに鼻をつく匂いがした。


(……ん?)


 薬品か、消毒液のような匂い。

 気のせいかと思い、箱の中を覗き込む。


 緩衝材に包まれたノートPCは、思った以上に綺麗だった。

 中古とは思えない。ほとんど新品だ。


 でも、梱包材が妙に丁寧すぎる。

 エアキャップは業務用のしっかりしたもので、よく見ると一部に病院の備品袋を再利用したようなロゴが印刷されていた。


 「前の持ち主が医療関係者って言ってたし、まあそんなもんか」


 気にしないことにした。




 PC本体を取り出すと、底のネジがひとつだけ違う形をしているのが目についた。

 でもそれも、中古なら普通にあることだろう。


 付属品のACアダプター、保証書。

 それと――一枚の小さな紙切れ。


「List No.47 – Status: Reserved」


 英語で印字されたそのメモは、意味が分からなかった。


(……なんだこれ?)


 取扱説明書に紛れていただけだろう、と深く考えずにゴミ箱に放り込む。




 机の上にPCを置き、電源ケーブルを差し込む。取扱説明書を開きながら、初期設定を進める。


 電源ボタンを押す。


 一瞬だけ、黒い画面に白い文字列が走った。


 Synching with administrator account…


(……同期?)


 何かの自動更新だろうか。

 一瞬で消えて、すぐに見慣れた大手メーカーのロゴ画面が立ち上がる。


 ――さすがに大手メーカー製だし、大丈夫だろ。


 そう思いながら、初期設定を終わらせた。




 とりあえず授業で使うビデオ通話アプリをダウンロードする。


 だが、インターネットの速度がやけに遅い気がした。カーソルが少しだけもたつく。画面の反応も微妙に重い。


「マジか……ハズレ買わされたか?」


 格安とはいえやはり数万、今の悠真にとってはかなり痛い出費なだけに眉をひそめるが、数分後にはダウンロードが完了した。

 動作テストをすると、特に問題はない。


「……まあ、繋ぎとしては十分か」


 念のため大学の学生サイトにログインし、授業資料を確認する。




 そのとき、LINEの通知が鳴った。


 澪からだ。


《どう? パソコン届いた?》


 悠真はすぐに返信する。


「とりあえずは繋ぎとして使えそう。ダメならまたちゃんとしたのを買うよ」


 少しして、澪から返事が来た。


《それならよかった! 私は今日はネカフェのPC使うよ。意外とネカフェのPCって高性能だからいいんだよね》


「……あ、そっちの手があったか!」


 思わず声が漏れた。


 ――ネカフェのパソコン使えばよかったじゃん。


 でも、もう買ってしまったものは仕方ない。


「いや、今のパソコンで続けるよ」


 と送って、連絡を切った。




 次に来たのは朔也から。


《おっつー、金欠悠真くん、パソコン届いた? なんかエロいの入ってない?w》


 悠真はそのメッセージを無言で削除した。


「ほんと、朔也は相変わらずだな……」


 苦笑して、再びパソコンに向き直る。




 ふと、さっきSNSで見ていた美人インフルエンサーの投稿を、今度はパソコンの大画面で開く。

 笑顔の写真、鮮やかなフィルター。

 動画では彼女が新しいリップを塗りながら、透き通るような声で話している。


 ――やっぱり可愛い。


 思わずまたニヤける。

 そんなとき、画面右下にポップアップが表示された。


 《1件の新しいメッセージがあります》


「……え?」


 何のメッセージだ?


 クリックすると、受信トレイに新しいメールが入っていた。


 件名:507530741300751445

 本文:


 ‎سوف يتم تحديث قائمتك قريبا


 アラビア語のような、見たこともない文字列が並んでいる。


「……なんだこれ?」


 読めない。

 とりあえず怪しいので削除する。


 中古だから、アドレスが流出してるのかもしれない。

 安物だから仕方ないか――


(あとでセキュリティソフトでも入れとくか)


 軽くため息をつき、そのまま放置した。




 とりあえず、今日はオンライン授業が最優先だ。


 悠真はビデオ通話アプリを立ち上げ、ゼミの授業に参加する準備を始めた。

 画面に自分の顔が映る。

 新しいパソコンは、問題なく動いているように見えた。


 まだ繋がれる。

 まだ大丈夫。


 悠真の孤独は、霧のように消えていった。

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