百貫島の石塔

錦戸琴音

第1話

 鞆の浦のお話でございますか。

 古くから潮待ちの湊として栄えた町でございましてね。万葉集にはこんな歌がございます。


まさきくて またかへり見む 大夫ますらをの 手に巻き持てる 鞆の浦廻うらみを 


 鞆に訪れた旅人が、無事に戻れることを願ってお詠みになったのでございましょう。詠み人は存じませんが、もしかしたら西国へ向かう武人もののふだったのかもしれませんね。


 もともと鞆とは、弓を打つ際に腕を守る為の防具。これを神功皇后様がこの地にお納めなさいました故事からも、鞆の浦とよばれております。その御神徳にあやかっているようにも存じますのや。


 それにね。福禅寺、対潮楼からの眺めは、異国の通信使からでさえ、日本で最も美しい景勝地と讃えられた名所にございます。

 楼から海を眺めますと、目の前に小さな島が弁天島。その奥に重なるように浮かぶ大きな島は仙酔島と呼ばれて、その眺望は大変に美しゅうございます。

 それはまるで、日の刻、時節の移り変わりに姿を変える絵巻のよう。どうか一度、ご覧になってはいかが。


 そう言えば、弁天島には別称がございまして、古くは百貫島とも呼ばれていたそうにございます。本日は、この百貫島の名に纏わりますお話しでも致しましょうか。

 これは、北条家様が執権として、国政を司っていらした頃の事と聞き覚えております。


 さる近江のお大尽様が安芸の宮島を参詣なさられたお帰りに、鞆にお立ち寄りになりました。お大尽様は鞆の景観を甚くお気に召されまして、少しばかり舟遊びを興じられようとお考えになりました。

 早速、近くにすむ浜の漁師から、腕のいい漕ぎ手が選ばれまして、お大尽様をもてなそうと船を出したのです。


 日の光にきらきらと輝かく海を真下に眺められて、穏やかな波に乗って吹く風がなんとも心地のよい日の舟遊び。お大尽様は鞆の景色を間近でご覧になりたいと、小島と仙酔島の間まで船を進ませました。


「お侍様、この辺りは流れがきつうございますけぇ。どうか、お気をつけくださせぇ。」

 島に近づけは潮の流れが速くなる場所もございました。船の漕ぎ手は、その流れを凝視しながら、ご忠告申し上げたのです。


「承知じゃ、承知じゃ。瀬戸の潮はかくも穏やか。日和もよいとなれば、琵琶の湖よりも、のたりのたりと申せようぞ。」

 お大尽様はご機嫌麗しくなさって、船からの景色を眺めておいででした。

 

 不意に船が揺らぎ、お大尽様の姿勢が崩れてしまわれました。その拍子に手にしっかりと握られておりました太刀が滑り、海に落ちてしまったのでございます。

 これに大慌てなさったのは、お大尽様。侍従のお二人も船から海を覗き込み、小さな漁船は大きく揺れて。危うくひっくり返ってしまう程の騒ぎになってしまいました。


 大尽様のご尊顔は真っ青になっていらっしゃいます。

「あの太刀は父君以前より伝えられし宝刀ぞ。今すぐに取って参れ。」

 ご命にあれど、誰が海に飛び込めましょうか。侍従のお二方は海に慣れておらず、漕ぎ手が入れば、船は流されてしまうだけ。

 一旦、浜に戻ることになったのでした。


 浜に戻られますと、すぐに漁師や海人らが呼び集められました。

「どうか。我が家伝来の宝刀を取って来てくれる者はおらぬか。」

 お大尽様は声を張り上げて、皆の衆に頼まれておいででしたが、誰一人として応じる者はおりません。


 浜はしんと静まり、空を飛ぶ鳶の鳴き声だけが届くばかり。

 代々に伝わった宝刀を旅の最中で失ったとあれば、お国元に戻られた際の面目がございません。ともすれば、これを言いがかりに、どこから足を引っ張られるかさえ、分からないのでございます。


「もし、儂の頼みを果たせる者がおれば、百貫を授けよう。一度ひとたび、海に潜って、太刀を持ち帰るだけで、百貫ぞ。」

 百貫ともあれば、遊んで暮らせる程の大金でございます。そのような大金を耳にすれば、流石に浜の衆からのどよめきは起こりました。

 それでも、名乗る者は出て参りません。


 お大尽様からは苛立つご様子が目に見てとれる程になって参りました。

「お大尽様。大変に申し訳ないことを申しますが。」

 恐る恐ると口を開きましたのは、この浜で漁師仲間より長と呼ばれる初老の男でございます。


 断りの口上であれば、聞く耳は持たぬといわんばかりにお大尽様は、長を威圧なさいます。その不愉快そうなお顔色に、長の声が震えておりました。

「御宝刀が海に沈みましたあの辺りは、ふかがよく現れる場所。そのような場所に潜るなど、命知らずも甚だしいことにございます。どうか、お汲み取りいただけますよう。」

 長の弁に浜の衆はこぞって首を頷かせて、俯くばかりでした。


 その姿の情けない事、お大尽様は堪え切れずに大喝なさいます。

「この浜には聞きしに勝る海の民らが集まるとも、聞いて参ったというに。たかが太刀一つ取りに参らせるにも、斯様な程、低堕落か。琵琶の船衆らの方が余程、気骨があるわ。」

 お大尽様の言は、余りにも無体な言い様。その場はざわつき始めました。


「そなたらが行けぬというなら、国元、別浜からでも呼び寄せてみせようぞ。お前達は地でも嘗めて眺めておればよい。」

 あろうことか、こうまで地元の漁民を蔑ろになさるとは、大尽様のお心は静まらぬ一方にございました。


 ふかの危険もさることながら、一見穏やかな瀬戸の内海も軽んじてはならないのです。

 潮の干満によって、刻々と変わる潮加減。近接する島々の間では潮流の速さも、また場所によってはまちまち。これらも把握しておらねば、ますます命に関わります。それをお大尽様は心得ておいでか否か。


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