暗殺者の夜
《──トライグル01ネプト。任務だ》
ルミナの通信が、胸の小型端末から響いた。
ネプトはその声に、すっと顔を引き締める。
「初任務か…」
ネプトがニューロンドの下町を抜け、大使館の方角を見やった時、その巨大なガラス張りの建物は夜景の中でもひときわ目立っていた。
アウリアン大使館。防衛設備も堅牢で、周囲にはアウリアン式の監視ドローンが巡回している。
街の光がきらびやかにきらめき、表向きは平和そのものに見える。
だがその裏側で、顔のないHIが街の一角で暴走しているという報告が無線で伝えられてきた。
人々の悲鳴、遠くで響く破裂音、ビルの壁に映る青い閃光。
それは作られた混乱だった。
ソラリスのが仕込んだ、偽装暴動だ。
(あの騒ぎで一時的に引きつけられるはずだ……。今しかない。)
胸元の通信端末にルミナの声が響く。
《ネプト。あの代表… カリオストが生きている限り、地球のソーラ・コア計画を加速させ続ける。
そして我々の敵が、さらに強大になる。確実に排除してくれ》
「了解……」
ネプトは短く答え、震える喉を押さえ込むように深く息を吐いた。
(初任務だというのにいきなり殺しか… いや、そうもいっていられないか)
この任務でのネプトの役割はかつて星間連合結成時からアウリアンの外交一任していた、つまりアウリアンという種族の代表者であるカリオストの暗殺だった。大使館をHIで攻撃したとなると過剰すぎるHIのパワーで大使館以外の人々の生活が脅かされると考えたルミナは比較的大使館付近に待機していたネプトに単独で遂行することを命じた。
ネプトはルミナが指定した大使館の裏路地の座標へと向かってた。
夕暮れから完全な夜へ変わった大使館の裏路地で、待機していたソラリスの諜報部員のクリケトスはネプトの姿を見てすぐに眉をひそめた。
「……その格好で行くのか?」
「これ以上は必要ない。下手に変装を重ねる方が目立つ。」
ネプトは先ほどと変わらない簡素なグレーのコートに、サングラスで目元を隠しただけの簡易変装で答えた。
「あなたは……自身の顔割れる危険性をわかってるのか?アウリアン大使館に乗り込むというのに、その程度の変装で足りるのか?」
「大丈夫だ。覚悟はしてる。それに顔なんて覚えられるほど特徴的な顔なんてしていないからな」
ネプトは、諜報部員のクリケトスを見て同じ異星人を殺すのに冷静にしゃべる目の前の彼を見て少し睨みつけた。
するとクリケトスの彼がまるで心を読んだかのように「君たちもアウリアンを殺すということに抵抗はあっても、もうすでに殺せないこともないだろう?君は異星人で片づけてしまうが、我々からしてみれば君ら地球に住まうヒトもヴァルカリアンやアウリアンと同じ異星人だそこに同胞以上の情など湧くことのほうが難しいだろう。」とネプトに答えた。
ネプトは少し驚いたが、前にユンボから聞いたクリケトスの概要を思い出し驚愕の顔から理解できた顔へと変化した。
(確か、地震予知などができる簡易的なテレパシーが使えるんだったな)
「その通りといいたいが、これはテレパシーではない。これは脳に伝わった信号を感知できるというだけだ。実質的にはテレパシーと思われることが多いが、断片的にしか入ってこない情報を私なりに整理して答えているだけに過ぎない」と、再びネプトが考えたことを彼は言葉にして答えた。
「すごいな、確かに異星人でまとめてしまうのは少し強情だった。すまない。僕はアンビション。ネプト・アンビションだ。」ネプトは自分の非を認め、心から謝った。
諜報部員のクリケトスは諦めたように小さく息を吐き、拳銃を渡してきた。
「ゼスだ。アンビションいや、トライグル01。予備マガジンは2本しかない。慎重に使え。……戻ってくるのを期待している。」
「そこは信じていてくれ」ネプトは少しくすっと笑い、マガジンを受け取った。
ニューロンドの夕暮れ。
高層ビル群が赤い光に染まり、都市の喧噪が次第に夜の顔へと移り変わるその時、ネプトは人影の少ない路地裏に立っていた。
足を一歩進めると、その背に薄く夜風が触れた。
街の雑音が遠くに押し流され、心臓の音だけが耳を叩く。
その瞬間から、彼は“暗殺者の夜”の中に身を置いていることを感じていた。。
ネプトは無言で頷き、コートの内ポケットに銃を滑り込ませた。
大使館の重い扉を抜けると、無機質な白い廊下に響く足音が自分だけのものに思えた。
だがすぐに護衛たちの気配が迫ってくる。
(始めるしかない……)
拳を握り、ネプトはあえて銃を抜かずに踏み込んだ。
最初の護衛の突進を受け止めた瞬間、世界がゆっくりと歪む。
視界の中で相手の腕が引かれる動き、靴底が床を滑る軋む音、そのすべてが粘つくように伸びて見えた。
(右に来る……肩で流す……)
咄嗟に相手の懐に潜り込み、腹へ肘を叩き込む。
湿った鈍い感触が骨に伝わる。
護衛が呻き声をあげるが、その声すら遅れて響くようだった。
(重い…重いな……)
押し返そうとする護衛の肩に体重を預け、一瞬バランスを崩す。
滑りそうになり、血の気が引いた。
とっさに床に手をついて体を支える。
(しまった……油断した……)
間髪入れずにもう一人が背後から蹴りを繰り出す。
振り向きざまに防御したが、腕に鈍い痛みが走る。
骨が鳴る音がやけに耳に残る。
(今打てば解決するが……今はダメだ、まだ……)
敵に「銃を持たない」と思わせる。
その一瞬を作るために、歯を食いしばって拳を振るい続ける。
三人目の護衛が懐に飛び込んできた。
首筋をかすめる風。
ネプトは首を傾け、相手の腕を抱えて関節を極める。
バキ、と骨の折れる音が粘ついて響いた。
護衛が苦鳴をあげる。
だが重さに負け、床に一緒に転がり込む。
相手の汗と血の混じった生臭さが鼻を突く。
(……! 限界か!撃つ‼)
銃を抜く。
世界が一気に加速する。
目の前の護衛が恐怖に引きつる。
引き金を絞る。
乾いた破裂音。
弾丸が護衛の胸を裂き、赤黒い血が噴き出して壁にドロッと貼り付いた。
厚みのある血が流れ落ちずに壁の塗料に染み込み、そのまま奇妙に垂れていく。
二人目に向けて素早く銃を振り向ける。
引き金を引く瞬間、護衛の目にうっすら涙のような光が見えた。
時間が止まる。
その恐怖を映した瞳を見ながら、ネプトは心臓の奥が鈍く痛む。
(……)
パン、と鋭い音。
弾丸が護衛の頭を砕き、血と脳の塊が壁に当たってドロリとこべりつく。
赤黒い粘液のように広がり、乾いた空気に鉄の匂いを満たす。
壁の模様に滲んだ血がゆっくりと下へ滴る。
胸が詰まる。
吐き気が込み上げる。
ネプトは一度呼吸を整えようとしたが、すぐに次の相手が迫ってきた。
撃つ。
また撃つ。
弾丸が肉を破り、護衛の体がひしゃげるように崩れた。
倒れた拍子に吐き出した唾液と血の混じったものが、床にべったり広がる。
(血が……生ぬるい……)
踏み込んだ足がその血で滑りかける。
ガクッと体が傾き、必死に壁に手をついて支えた。
血の感触が手のひらに生温かく残る。
指先にこべりつく粘り気。
胃が裏返るような気持ち悪さ。
(……それでも。生き延びるしかないんだ。)
息を切らしながら最後の護衛に銃を向ける。
目が合う。
その恐怖を突き刺すように見据え、ゆっくりと引き金を絞る。
弾丸が護衛の胸を貫通し、背後の壁に赤黒い噴水のように血を飛ばした。
血しぶきが奇妙な花のように壁に咲き、じわりと垂れ落ちていく。
静寂。
死体たちが転がり、その血が床の凹凸を埋めるように広がる。
足音が消え、硝煙と血の鉄臭い蒸気だけが重く残った。
(終わった……しかし、まだ任務はまだ完了していない。)
アウリアン大使館の最奥、堅牢な防弾窓の張られた執務室。
大理石のように白い床に、アウリアン伝統の青いタイル装飾が美しく埋め込まれている。
カリオスト・イグレシアは背の高い椅子に腰を下ろし、
その隣に立つ護衛隊長と穏やかに言葉を交わしていた。
「──この詩歌をご存知か。
“我ら翼は折れず、風は再び還る”」
「拝聴しております、閣下。かつて戦場に赴いた兵を奮い立たせた歌……と。」
護衛隊長は、硬い顔にわずかな敬意をにじませた。
「そうだ。千年も前の戦争詩だ。だが、いまも私たちアウリアンの血には、この旋律が流れている。」
カリオストはゆっくりと目を伏せ、羽のようにしなやかな指先で詩の一節を書き留める。
「兵の士気を保つとは……つまり心の翼を保つということだ。」
「……閣下が兵士だったころも、その歌を?」
「そうだ。恐怖の中で声を合わせた。
翼をもがれた戦友の遺言のように、この歌を……。」
わずかに震えるその声音に、護衛隊長は一瞬だけ主の素顔を見た気がした。
戦場で死と隣り合わせた若き日のカリオストの記憶が、
この歌と共に蘇っていたのだろう。
「……閣下。敵が潜入していると知らせが先ほど。
どうか、ここではお心を緩めぬように。」
「わかっている。」
羽耳を震わせ、目を細めたカリオストはゆっくりと立ち上がる。
「だが、アヴィオスを託された以上、この翼は折らせぬ。
例え……この歌のとおり、風が止まろうともな。」
「はっ。」
護衛隊長は拳を胸に当て、アウリアン式の敬礼を捧げた。
そしてそのとき──
廊下の遠くで何かが崩れるような鈍い音が響いた。
警報はまだ鳴らない。
しかし、鋭い嗅覚を持つ護衛隊長はわずかな血のにおいを感じ取っていた。
「閣下、お下がりください。」
「……始まったか。」
カリオストは一瞬、沈痛な顔を見せた。
その奥には、すでに覚悟を決めた鋭い光があった。
やがて廊下の奥から足音が近づいてくる。
気配はひとつ──
異質で、冷たい獣のような、異邦の暗殺者の足取り。
ネプトだった。
大使執務室の手前に立ちはだかったのは、アウリアン衛兵隊の隊長だった。漆黒のマントに銀の装飾が縫い込まれ、長身で威圧的な影を作る。手には旧世紀の設計を踏襲した、重く鋭利なスチールナイフとハンドガンの二丁。
「ここを通すわけにはいかん」
静かに、それでいて不気味なまでに澄んだ声。
ネプトは奥歯をかみしめる。
(こいつを抜かないと──カリオストにはたどり着けない)
ネプトが現れた扉は、唯一の出入口だった。執務室は安全のため外に向かう窓が飾り物のように作られているだけで、人間が通れるほどの開閉機能はない。さらにここは4階。階下からも避難経路をふさがれている。
そしてカリオスト自身も、それを理解しており血にまみれたネプトを見て恐怖した。
「ここの護衛を一人でやったのか?!」
震えた声が奥から漏れる。
彼は戦いの残酷さを熟知していた。だから逃げ出せなかった。
──この入り口を超えられたら、自分の死は決まると理解していたのだ。
ネプトは腹の底に鉛のような重みを感じる。
(つまり──ここを抜ければこの人はもう逃げ場がない)
右手の拳銃を握りしめ、一歩にじり寄る。隊長も合わせるように射線をずらし、構えを低くした。次の瞬間、乾いた破裂音が走る。
──隊長の銃弾が壁を砕き、木片がはぜる。
ネプトは横に跳び、足場に滑りながらも構えを整えた。照準を合わせる間もなく、隊長が突進してくる。
「──くそ!」
ネプトはとっさにカウンターで放った銃弾を避けられ、距離を詰められる。金属音。
隊長のナイフが光を裂き、ネプトの肩にかすった。火傷のような痛みが走り、血が噴き出す。
「が……っ!」
後退しようとする足を蹴られ、姿勢を崩したネプトの顔に、殴打のようにナイフの柄が振り下ろされる。とっさに肘を上げて防御。骨に響く衝撃。
(重い──! それに……鋭い殺意だ)
視界が歪む。
「隊長」というより殺戮者のような鋭さだ。
体の奥から、冷たくも熱い恐怖がわき上がる。
(ここで止まれば俺が死ぬ。止まれば──!)
床を転がりながら、血のついた腕を必死に引きずりつつ再び立ち上がる。
隊長は再び銃を構えた。
一瞬の沈黙。
張り詰めた空気を切り裂き、再び二人の引き金が重なった。
火花が走る。
ネプトの弾は隊長の肩を撃ち抜き、隊長の弾はネプトの腰をかすめた。
鋭い痛みに足が鈍る。
「っ……!」
隊長はわずかにバランスを崩し、その隙をネプトは逃さなかった。
銃を構えながら一歩踏み込む。
だがナイフが閃き、紙一重で避ける。滑る。血で滑る。
(……死ぬかと!)
肘で隊長の顔面を殴る。
衝撃。骨と骨がぶつかる嫌な感触。
隊長の目がにぶく揺れた。
ネプトは距離を詰め、強引に銃を押し当てた。
(ここで終わらせるしかない!)
引き金を絞る。
至近距離。
炸裂する銃声。
隊長の体が大きく震え、吐血しながら崩れ落ちる。
赤黒い血が壁にまで飛び散り、重たく、粘つくように流れ落ちていく。
「──はぁ……はぁ……」
ネプトは震える手で銃を握りしめた。
後ろの金属製の扉の向こうに、代表カリオストが震えた声をあげる。
「助け──だれか──!」
もう逃げ道はなかった。
唯一の出入口を封じた今、ネプトが進めばそれで終わる。
恐怖に支配されたカリオストはその場に縋りつき、まるで檻に閉じ込められた獣のように目を見開いていた。
その光景にネプトはぞっとするほど冷たさを感じる。
(……やるしかない。これで終わりだ)
深く息を吸い、血と硝煙の匂いに満ちた床を踏みしめていく。
ネプトは壁に貼り付いた血を避けるようにして歩く。
足元がズルリと滑りそうになるたびに、血が靴底に絡むのを感じた。
怯えたカリオストは何か震えた声で何かを訴えた。煌びやかな羽根飾りのついた外套が、大使の威厳を装う。
だが、ネプトはもう聞き取る気もなかった。
銃を構え、撃つ。
大使の胸に弾がめり込み、後ろの壁に赤黒い飛沫がべったりと広がる。
壁紙が濡れて膨れ、まるで血が生き物のように蠢く錯覚がした。
(悪いな。もし、あなたが勇敢にも立ち向かってくるような人だったら… 僕は負けていたかもしれない)
足元に横たわる隊長の遺体から、最後の呼吸のような音がした。
ネプトは迷わず頭に向けて撃った。
脳が破れ、床に粘ついた肉片が飛び散る。
腐臭に似た生温い匂いが鼻腔に残る。
呼吸が荒い。
汗と血が入り交じり、服に張り付いて息苦しい。
(戻ろう。これが終わったら、またアナンケーを今度は僕が食事に誘おう。アルケともっと話をしよう。エリナやダグラスと作っているHIだってまだある。ここで終わるわけにはいかないさ)
ゼスとの会話も頭の片隅で思い出し、ネプトはまだ温もりの残る銃を構え直した。
足を引きずりながらも、ゆっくりと退路を確認する。
金属の香りと血のねばりが体にまとわりつくその感覚を、振り払うように一歩を踏み出した。
こびりつく鉄臭さが鼻腔を突き、胃の底をえぐられるような不快感が残る。
(終わった……)
自分の足が血で滑る。
咄嗟に壁に手をついたが、その壁すら赤黒い液体で濡れていた。
指先から伝わる生ぬるい感触に、背筋が寒くなる。
「……嫌な感覚だ」
割れた窓から飛び出し、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
それでも血の匂いは自分から離れてくれなかった。
夜の街を赤い警告灯が走り、悲鳴と砕けるコンクリの音が交錯する。
(あれが……陽動か。)
その時だ。
遠くで轟音。
街を震わす砲声が響く。
《トライグル01!市街南区の無人HI部隊がすべて壊滅した!》
「なに……?」
《連合のエインヘリャル隊が出た。無人HIが歯が立たない。お前のルートが塞がれるぞ!》
ゼスの声は先ほどにはない焦りを見せていた。
その緊迫に、ネプトの呼吸も浅くなる。
(エインヘリャル……?)
名前すらろくに知らない。
だが見下ろす街路には、一瞬でわかる破壊の痕跡。
重装HIの脚部で踏み潰された無人機の残骸が幾重にも折り重なり、なお砲弾が止む気配もない。
白く、金に縁どられた装甲の巨体が、一撃でHIのコアをえぐる。
鮮やかすぎる、絶望の強さ。
「……っ」
喉がひゅっと狭まる。
自分でもわかるほど震えていた。
《トライグル01!退避しろ!繰り返す、即座に退避だ!》
「わかってる!」
足元を蹴る。
まだ煙と炎に包まれた市街の隙間へと身を投じた。
《ルートCへ!下水路から離脱しろ!》
「了解ッ!」
鼓動が速い。
血の匂いと汗が混ざり合い、ひどく気持ちが悪い。
それでも走るしかなかった。
崩れかけた非常階段を駆け下り、隙間だらけの下水の鉄格子を潜り抜ける。
背後ではなおも重装HIの砲撃が地を割り、人々の悲鳴をかき消していた。
目を閉じたくなる惨状。
だが、閉じたら最後だった。
「帰ろう。まだやりたいことも、やらなきゃならない事もいっぱいあるものな‼」
壁に飛び散った血が滑るように垂れ、
その下をくぐり抜けたとき、やっとネプトは小さく息をついた。
恐怖に支配されながらも、かすかに見えた出口の明かりだけを頼りに
彼は暗い下水道の奥へと姿を消した。
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