第28話 傾国王女は二度死ぬ
胸にナイフを突き刺した瞬間、周囲から悲鳴が上がったが、イリスは全く気にしていなかった。
アグリシェーラに掴まれた手をそのままに、自らの胸に刃を突き立てる。ぐ、とさらに深くナイフを押しこんだ。絶対に、致命傷となるように。
「な、何……? 何を……何を、して、イリス?」
「なに、って、おかあさ、ま……知ら、ない、の?」
せりあがってくる血を無理やり飲み下す。大丈夫、大丈夫だ。まだ自分は生きている。たとえ、この後すぐに死ななくてはならないとしても。
「めいこんを、するにはね……いちど、死ななくては、ならないの、よ」
「は……」
瞬間、目にも止まらぬ速さでこちらへ駆けてきた男がいた。
咄嗟に止めようとしたらしい術士の腹に淡々と拳を叩き込み、男は瞬く間にイリスの元へと辿り着く。そうして後ろからイリスを抱きしめた。肩と腹に腕が回る。
イリス越しに、赤い瞳がアグリシェーラを見た。
「順当に行けば、あんたは俺の義母ってことになるんだろうが……」
悪いな、とザグレウスは笑う。
「俺には、姫いさんを手放す気がないんでね」
そこで、彼はぐっと歯を食いしばり、抱きしめたイリスの体を一気に後ろへ引いた。自動的にナイフがずるりと抜ける。
鋭い痛みが一瞬襲い、すぐに焼けつくような熱さに変わった。手足はすっかり冷えているのに、胸の周りだけが異様に熱い。見れば、傷口からは滝のように血が流れている。
「あ、ああ、ああああ! イリス!!」
既に飲み込みきれない血が口から溢れる中で、イリスは笑った。ザグレウスに支えられながらでないと立っていられない。それでも、まだやることが残っている。
「ザグレウス、の……じゃまを、させな、いで」
瞬間、駆け寄ろうとしたアグリシェーラの後ろ襟がぐんと引かれた。悲鳴を上げる間もなく彼女は後ろに引き倒される。
「悪いね、あたしの主人が、邪魔させんなって言ってるからよ」
鳶色の髪の女――カイネスがそこにいた。全身の甲冑を揺らして、身の丈ほどもあるハンマーを掲げて笑う。
アグリシェーラは咄嗟に周りを見回したが、集まっていたはずの兵士や術士は、淡い光を体から放つ者たちに拘束されていた。どこに隠れていたのかと思うほどの数だ。
「何、どうして……」
「何ってあんた、ここは東方国境だぜ? 死なない兵士の十や二十、相手にする気もなかったって?」
完全に混乱した顔で彼女は口を閉ざす。カイネスは喉の奥を鳴らして笑った。
「そうそう、大人しくしといてくれれば、あたしもあんたの顔を叩き潰さなくて済むからさ」
蒼白のまま沈黙してしまったアグリシェーラを見やり、まあ問題ないだろうとイリスは判断づけた。彼女は自分に心酔しにくい人間を見分けるのが得意なのだ。カイネスが絶対に己になびかないことくらいは察せただろう。
「姫いさん、死にかけてるってときに何考えてる?」
イリスは目だけで上を見やった。自分を床に横たえた男が、こちらを見つめている。
イリスは呆れた。お前のほうがよほど死にそうな顔をしているわよ、と言ってやりたくなる。一切のまばたきをしない彼の額には、玉のような汗が浮かんでいた。
これから起こることを知っているのに、どうしてそんなに不安そうなのだろう?
「おい、今の顔はどういう意味だか分かるぞ。くそ、あのな、何度も言うが、好きな女が死にかけてて慌てない男はいないんだよ」
「だっ、て……お前、が、たすけて、くれるん、で、しょう」
「……あんた本当にもう黙れ……」
ぶつぶつと何かを言いながら、彼はイリスの周りに何かを描いていく。陣のような模様をしているように見えた。
「なに……」
「準備だよ。あんたは知らねえだろうが、前回交わした冥婚は簡易的な契りだった。だから今日、あんたの体を元に戻せた。だが、今回はその必要がない。あんたを、生き返らせる必要がなくなる」
なんの道具もなく、なめらかに円を描いていた腕がぴたりと止まる。既に視界も怪しくなってきたイリスの耳に、言葉が届いた。
「いいんだな、姫いさん」
「いいわよ……わたし、死んでいたほうが、めんどうがないし……しばられるなら、お前がいいし……」
ザグレウスが息を呑む。何かおかしなことを言っただろうか?
「あんた本当に、後で覚えてろよ」
地を這うような言葉の後に、視界がもう一段階暗くなった。多分、もう長くは保たない。既に胸の辺りの感覚がない。
そのとき、唇を、何か柔らかいものが覆った。
「
低く、深く、沈むような声。歌うような音。
「
体が、何かに引きずられるような感覚があった。胸を中心に、イリスの体がぐんと浮く。心臓から何かがこぼれ落ちていく。何かが、何かが。
浮いて、丸まって、吸いこまれて。
「
気配が近づく。再び静かに重なった唇が、すぐそばで囁いた。
「冥府に堕ちゆくその日まで、
ずるり、と。
何かが抜けた。何か、とても大事なものだ。抜け落ちてはいけないものだ。だが、それはすぐに何かで覆われて、守られて、形を為した。
今度は、意識が消えることはなかった。
ややあって、目を開く。
「調子はどうだ、姫いさん」
「……悪くないわね、お前がちょっと近すぎるけど」
イリスはいつの間にかザグレウスに抱きかかえられていた。反射的に暴れそうになるのを堪えて、彼の腕にしがみつく。危ない。掴まなければ落ちるところだった。
まあ、落ちたところでもう死なないのだが。
「あんたの遺体の上にあんたを置いとくわけにいかないだろ」
それもそうだ。嫌な幽体離脱みたいになる。
目の前に横たわる自分の体を見下ろす。自分と同じ顔を見るのはどうにも奇妙な心地だった。燐光を放つ今の腕と、未だにだくだくと血の流れる己の体を見比べる。
ふむと考え、イリスはザグレウスの肩をばしばしと叩いた。
「ザグレウス、ちょっとザグレウス、下ろして」
「おい、痛っ、くそ、たった今死んだってのに元気だな……!」
すとんとその場に降ろされたイリスは、おもむろに床に落ちていたナイフを手に取ると、自分の体の横に跪いた。
そして、一切の躊躇なく、自分の胸元にナイフを突き立てる。
「は? おい、姫いさん?」
「ちょっと黙ってて。必要なのよ」
肉に食いこんだナイフは意外と抜けなかった。苦労しながらなんとか抜いて、二度、三度と突き立てる。正直気分のいいものではない。だって自分の体だし、そもそも肉を断つ感覚は最悪だ。
それでも何度も刺し終えてようやく、イリスはゆっくりと立ち上がった。
「これでもう、私が生き返ることはないわ、お母様」
振り向きざまに告げたイリスに、アグリシェーラが愕然とする。彼女はカイネスに首根っこを引っ掴まれて、そのまま床に押しつけられていた。
「何故……イリス、何を……」
「あら、私が私を殺して何が悪いの? 私の体よ。この世で唯一、私が自由に殺していい体なの」
にこりと徒花のように笑って、イリスは頬に手を当てた。
「お母様に、私の体をいいように扱う権利なんてないのよ。知っていらして?」
「わ、私は……私は、あなたのために!」
「私のため? そうね、私が望んだことのない、お母様の都合のいい私のためよね」
「どうしてそんな……ひどいことを言うの? お母様のことが嫌いなの?」
「嫌っていたほうが国にとっては都合がいいのではないかと思い始めてきたところよ」
イリスは口元だけで微笑んだまま、這いつくばる彼女に近づく。
「お母様、私ね、これでも我慢したほうなの。あなたを裁けない自分が悪かったのだと思って、罪と罰を受け入れた。あなたのことは忘れようと思って……けれど、ダメよお母様。これはダメなの。お母様……お兄様を、本当に殺すおつもりだったのね?」
「イ、イリス……」
「それはいけないわ。あのねお母様、私の魂はね、ひとかけらまで国の奴隷なのよ。お兄様を、次期国王を殺す者を、許してはおけないわ」
ひたり、と、持っていたナイフを彼女の首に軽く当てた。呆然と見上げてくる瞳に微笑みかける。
「国にとって害となるならば、私、お母様でも殺せるの」
ひゅっ、とアグリシェーラの喉が鳴る。瞳が懇願の色に変わって、もはや抵抗もなく床に伏せっている。
「ゆ……許して、イリス。もう、もうこんなことしないわ。いい子でいるから、だから許して、母様を許して……」
「私の侍女の指を切り落とした日もそう言っていらしたわね。もう嘘は十分なの」
イリスの瞳は誰よりもさえざえとして、声に温度があるならば、生きとし生けるものは全て凍りついてしまいそうだった。誰もが固唾を飲みながら、何も言えず、一歩も動けないでいる。それは兄たるアストラスも同じことだった。イリスが激怒したところを、誰も見たことがないのだ。
だから、そんな中で動けたのは、一人の死神くらいのものなのだった。
「ダメだ、姫いさん。そりゃ『仕事』だろ」
彼女の手からいとも簡単にナイフを取り上げ、死神辺境伯たる彼は笑う。
「さっき自分で言ったろ、あんたが好きにしていいのは、あんたの体くらいのものなんだよ」
「ザグレウス、返して。これは処刑よ。殺しとは違う。私は王族なのだから、国のために手を汚す必要があるの」
「いいや違うね。国のために手を汚すのは辺境伯の俺の仕事だし、そもそもあんたはもう冥婚を交わした。これは何度だって言うけどな――あんたはもう王女じゃない。俺の嫁だ」
「っ、きゃあ! ちょっと!」
ひょいと抱えあげられ、喉の奥から悲鳴が上がる。先ほどとは違って、腕に座らせるような形の抱き上げ方だ。咄嗟に彼の頭を掴む。
「何するのよ、下ろして! それを返しなさい!」
「嫌だね。最初に冥婚を交わした後に、あんたが言ったんだろうが。もう自分は王族じゃない、俺のものだってな。……というか普通に、好きな女が人を殺してるところを見たい男がいるわけないだろ、勘弁しろ」
「私がやらなきゃならないの! そもそも、もっと早くにやっていれば良かったのよ!」
「そんなもん知るか」
「は……!?」
「俺は、あんたがあんたのままでいてくれればそれでいい。あんたが欲しくてここまで来たんだ。それ以外のことなんざ、俺は本当にどうでもいいんだよ」
あまりに無責任な言葉に目眩がした。脳天にまで血が上ったかと錯覚する。
だが、彼は飄々と笑ってイリスと目を合わせた。
「国のための仕事としての殺しは禁止だ。それはあんたの役目じゃない。まあ、あんたが今までの恨みから母親を殺したいってんなら、俺は別に止めないがね。好きに嬲って殺せばいい。俺は、あんたがやりたいことなら全て許す。死神辺境伯の名に置いて」
瞬間、イリスは虚を衝かれて動きを止めた。ややあって、ゆっくりと腕を下ろす。
「馬鹿を言わないで。冥府刑の執行人が、王族殺しを見逃すなんてあってはならないわ。恥を知りなさい」
「そうか?」
「そうよ。……ザグレウス、降ろして。もう殺さないわ」
肩をぱしぱしと叩く。予想していたほどの反発はなく、彼は意外とすんなりイリスを下ろした。
床に這いつくばり、未だに縋るような目で見てくる母親を一瞥する。そのままふいと目を逸らして、目的の人物を見た。
「お兄様」
視線を向けた先。既に拘束から逃れ、疲れた顔で立ち上がるアストラスへ、イリスは美しい最敬礼をしてみせる。
「申し訳ありません、母は許されないことをしました。私たちへの処罰は
「……分かっている……」
頭の痛そうな顔で彼が天を仰いだとき、不意に、部屋の入口から凄まじい音がして、一人の男が飛び込んできた。
「アストラス様っ! ご無事ですか!!」
その場の全員がぎょっとする。それは額からだらだらと血を流した男、ガルシア・ヴィトゥスだった。アストラスの近衛隊隊長である彼が、そういえばこの場にずっといなかったなとイリスは思い至る。
彼はぼろぼろだった。頭からの出血だけではない。そこらじゅう傷だらけの血まみれだし、片腕はおそらく脱臼している。歩けているのが奇跡なんじゃないかとイリスは思った。
アストラスも安堵の表情を見せつつ、眉をひそめる。
「ガルシア、私は無事だし、どう見てもお前のほうが無事じゃない。私と一緒にさらわれたとき、酷く痛めつけられただろう。安静にしなさい」
「いいえ、貴方様の護衛を仰せつかっておきながらこの体たらく、死んでも死にきれません」
「いや、死んだら困るよ」
苦笑して、彼はザグレウスに向き直る。
「今回のクーデターの鎮圧、ご苦労だった、カルニフェク辺境伯。正妃アグリシェーラについてはこちらで処分を決めよう。苦労をかけたな。妻と一緒に帰るといい」
その言葉に、イリスは思わず
ザグレウスがからりと笑って手を振る。
「いいえ。俺の姫いさんが無事で良かったですよ。や、無事かどうかっていうと、二回死んでるんで全然無事じゃないんですけど」
「ははは、殺すぞ。俺の妹は物じゃないのだが?」
「あんたの沸点、分かりやすいですよね」
瞬間、イリスがザグレウスのわき腹へ肘を叩き込んだ。
「お前、お兄様に対して不敬な物言いをするなと何度言ったら学習するの、殺すわよ」
「あんたら、本当によく似た兄妹だな……」
呻き声を上げる男を無視して、イリスは兄に視線を向ける。
「よろしいのですか? 私は、反逆者の娘ですよ」
「よろしいも何もない。正妃アグリシェーラには聞きたいことが山ほどある。テンペスタまで関わっているとなれば、処刑をして終わりというわけにもいかないだろうし、しばらくは尋問の日々だ。私は忙しい」
「ですが……」
「くどい」
ばっさりと断ち切られ、イリスは思わず口を開けた。くどい……!?
静かにショックを受けていると、彼はまっすぐにこちらを見てきた。
「そもそもお前は既に、この女の娘でも、王女でもなくなっているだろう? 死人に、どうやって罰を与えろと?」
息を詰める。手の先が痺れたような気がした。
そうだ、自分はもう王女ではない。アストラスと共に国を支える資格をとうに失っているのだ。今のイリスは、ただの少女だった。
だが、顔をしかめるイリスとは対称的に、アストラスはかすかに笑っていた。
「そもそも、あのままだったら私は無惨に殺されていただろう。そんな私を、お前は自身の命をなげうって救ったのだ。処罰どころか、恩赦を与えてしかるべきでは?」
「お兄様?」
怪訝な顔をする妹を見て、アストラスはにやりと笑った。
「イリス。お前の冥府刑を撤回、及び、冥府の約定に従って、お前にカルニフェク辺境伯との冥婚を命じる」
「命じられる前にもうやってんだがな」
アストラスが半眼になった。
「カルニフェク辺境伯……場の雰囲気というものを知らないのか?」
「残念。俺は姫いさんのことしか知らんもんでね」
「なるほど。問題児のお目付け役も追加で命じておくか……」
気安い会話をする男二人に挟まれながら、イリスは呆然と呟いた。
「お、兄様……」
「なんだ、私の裁定に文句があるか、カルニフェク辺境伯夫人」
はっと口を閉ざす。澄み切った蒼の瞳が、さえざえとしたすみれ色とかち合った。
「……いいえ、アストラス殿下」
イリスは彼の差し出した提案を受け取り、微笑む。喪服のようなドレスの裾を摘んで、美しい、貴族の礼をしてみせた。
それは何よりも柔らかで、優しい断絶だった。
「貴方様の、仰せのままに」
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