第27話 蘇生
抱きしめていたはずのイリスの体が消えたと同時に、冥婚が解除されたことを、ザグレウスは本能的に悟った。安堵なのか、恐怖なのか分からない息を吐く。
冥婚の解除は、手順としては簡単だ。イリスとザグレウスの魂を繋いでいた糸を切ればいい。
だが、魂というのはそこまで頑丈ではないのだ。
少しの間とはいえ、二つの魂は繋がれていた。一度ひとつになり、自身の一部となったものを切り離すのだから、そこには少なからず痛みを伴う。
特に冥婚の場合、その負債はどうしても死者の側に降りかかる。魂が体という殻に守られていないため、切り離されたときの痛みに弱いのだ。
糸を切った代償は、自我や記憶の喪失として現れる。
イリスの自我は強い。ザグレウスは少なくともそう思う。強固な信念と揺るがぬ精神でできた彼女の自我は、少し削れたくらいでは何も変わらないだろう。おそらく、自我が崩れて別人になったりはしない。
それでも、記憶は。
『私、お前のことを全部思い出したわ』
『だから何があったって、また思い出せるわよ』
ザグレウスは痛みを
また失ってしまうのか。殺してでも手に入れたかった女を。
あのとき、自分の身分も命も投げ出して、平民のちっぽけな命を救うためだけに声を張り上げた、高潔な女を。
あの眩しさに恋をして、あの光を追いかけてここまで上り詰めた。それでもまだ足りないのか。
また、失うのか。
棺の蓋が開く音がする。アグリシェーラが媚びた声で娘の名を呼ぶのを聞いた。
棺から、ゆっくりと見覚えのある少女が起き上がる。艷めく亜麻色の髪が揺れ、雨に濡れたすみれのような瞳が開いた。
彼女は上体を起こした姿勢でぼんやりと辺りを見回す。その目が自分を映し、風景でも見るかのように一瞬で通りすぎていったのを見て、思わず声を上げて笑い出しそうになった。
心に、穴を
そして、イリスは母親を見つけると、ふっと神秘的に微笑んだ。先ほどまでの勝気な視線が嘘のように、その笑みは「傾国王女」めいている。
「イリス、やっと生き返ったのね!」
歓喜するアグリシェーラの前で、イリスはにっこりと微笑み、周囲の光景に首を傾げた。ここがどこなのか、今がいつなのかも分かっていないようだった。
「姫いさん」
ザグレウスは思わず呼びかけていた。声に反応して、無垢な瞳が男を見る。
「……誰?」
アグリシェーラが勝ち誇ったように笑った。
「いいのよイリス。思い出さなくて。あなたは母様と一緒にいればいいの。そうよね?」
彼女は不思議そうに母親を見上げる。しばし何かを考えていたようだったが、やがて、人形のような顔で微笑んだ。
「はい、母様」
「ふふ、良い子ね」
もしかしたら、今の彼女は、幼少期のイリスに似ているのかもしれない。あるいは、このような演技をずっと続けていた時期があったのかもしれない。
街にお忍びで出かけたとき、彼女は自分の好きな物を選べないと言った。何が好きで、何を選びたいのか、もう分からないと。
あのときの彼女はまるで子供のようだった。自分の望みよりも母親の望みを優先され、それを全て、愛という名の免罪符でくるまれて、そうして作られた「傾国王女」としての姿が、彼女をずっと
「お妃様」
アグリシェーラのそばに術士が跪く。彼女はちらりとその男に視線をやった。
「なあに。私、イリスと話していたのだけれど」
「申し訳ありません。ですが、王太子殿下はどうされますか」
彼女はぱちりと瞬き、アストラスの方を見た。ザグレウスも咄嗟にそちらを見やる。アストラスは未だに拘束されていた。
アグリシェーラという人間は、本当に何も考えていないのかもしれない。王太子にこの振る舞い、どう考えても反逆罪だ。このことが明るみに出たらこの女は終わる。もう少し上手いやり方があっただろうに。
本当にこの女は、イリスのことしか見えていないのだ。
しばらく小首を傾げていたアグリシェーラは、不意に春風のような微笑みを見せた。
「もういらないわ、イリスが帰ってきたのだもの」
「承知しました」
術士が合図を出すなり、アストラスを拘束していた男が動いた。アストラスの首をがっちりと掴んだまま、白磁の刃を振りかぶる。
止める暇もなく、一瞬でアストラスの命が狩られようとしたときだった。
「お母様、これは何?」
音もなく男に近づき、その刃を掴む手があった。いつの間にかイリスが、男の掲げたナイフを素手で掴んでいる。
事態を理解して一拍、アグリシェーラが悲鳴を上げた。今にもアストラスを殺そうとしていた男に向かって、まなじりを釣り上げる。
「お前、そのナイフを離しなさい! イリスが怪我をしているじゃないのっ!」
下手人は慌てて刃物を離した。少女はまだ、不思議なものを見るようにナイフを掴んでいる。その手のひらは当たり前のように切れ、血が床に滴った。
「イリス、だめよ、それを離して!」
顔を青ざめさせたアグリシェーラが、イリスに駆け寄る。狼狽える下手人を突き飛ばした拍子に、アストラスも床に倒れる。
「イリス、手が……! せっかく生き返ったのに!」
「手……? ああ、本当だわ、気づかなかった。そういえば、人って切ったら血が出るのよね……」
くすくすと笑う。アグリシェーラは愕然とした顔でよろめいた。
「やっぱり一度死んだのがいけなかったのよ、感覚が
麻痺してしまったんだわ……! そんな物騒なもの離しなさい、ほら!」
ナイフの柄を持つイリスの手を、彼女は上から握った。血に濡れることも構わず、イリスの手をこじ開けようとする。
そういう優しさはあるのか、とザグレウスは若干冷めた気持ちになる。そういえばイリスも、母は最初からこうではなかったのだと言っていた。どこでボタンをかけ違ったのだろう?
アグリシェーラは必死で彼女の手からナイフを取ろうとしている。そんな母親を見つめて、少女は無垢な顔で口を開いた。
「ねえ、お母様」
「なあに? イリス、お願いだから早く、それを離して……」
「死ぬって意外と心地がいいのよ、知っている?」
きょとん、と彼女が顔を上げた。イリスは
「死者がもう一度死ぬことはないし、怪我をしてもすぐ治るわ。休息もほとんど必要ない。何よりもう命を狙われることもないし、自分の代わりに死にそうになる者もいない。私一人のために、民を不幸にすることがなくなったのよ。これ以上の幸福はないわ」
「……イリス?」
「だからね、お母様。やっぱり私、死んでいたほうが気が楽なの」
ぽかんと間抜けに口を開けるアグリシェーラを無視して、イリスはザグレウスを一瞥した。その瞳には、濃い覚悟の色が見える。あの路地裏でまつろわぬ民を一喝したときの、深い紫の色が。
「ザグレウス、あとは頼んだわよ」
あのときの声だった。あのとき、自身と約束をしたときの、イリス・ヴィエーラ・ディルクルムの声だ。
ザグレウスは苦笑する。そこに拒否権などないことを、己はよく知っている。
ザグレウスの笑みを受け取って、イリスは動いた。
己の矜恃に従って、この場で最も正しい方法を選んだ。
「……え?」
アグリシェーラが奇妙な声を出す。目の前の光景が理解できていないようで、何度か目を瞬かせている。
イリスの口の端から、つう、と血が零れた。
血濡れのナイフが、深々と、彼女の胸に刺さっていた。
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