014好きな男の見る夢がちょっとおかしいんですが……

矢久勝基@修行中。百篇予定

014好きな男の見る夢がちょっとおかしいんですが……

「なに均(たもつ)君。こんなとこに呼び出して」

 梅雨らしくない梅雨に蝉の声一つ。最近の蝉は日が暮れても節操がない。

 そのような生ぬるい夜、均がイミリを呼び出すのに選んだ場所は、ブランコとベンチしかない小さな公園だった。

 二人の他には誰もいない。公園を照らす街灯は静かに世界を切り取っていて、まるでお芝居の舞台のようだ。その最奥。

 一番奥の赤いベンチに腰かけている均を、イミリの瞳は四年間追ってきた。ずっと〝友達以上恋人未満〟だった。

 そんな均が、こんな時間に、こんなところに、呼び出すなら……。

 不安やら期待やら、イミリはどんな表情を浮かべたらいいのか分からずに彼の前に立つ。先にきて、ベンチに腰かけている均は、声をかけてきたイミリに微笑んだ。

「悪いな。急に」

「別にいいよ」

 笑顔を返すイミリはずいぶんとめかしこんでいる。淡いピンク色のワンピースが、ふわりと涼しげに揺れていた。

「きれいだね」

「ありがと。今日は何かいいことがありそうな気がして」

「それはミィちゃんの返答次第かもしれない」

「え……?」

 一瞬息を詰めるイミリ。この勝負服に祈る気持ちを込める。

「なに……?」

「ミィちゃん。俺が四年前に言ったこと、覚えてる?」

「うん。覚えてる」

 ……俺には夢がある。今は恋愛なんてしてる余裕はないんだ。

 でももし……そんな俺にも余裕ができた時、まだお前が俺を想ってくれているのなら……

「あれから、うまくいってる?」

 イミリは軽やかに、ベンチの隣に座った。

 この四年間、まったく会っていなかったわけではない。だけど、夢のことは決して聞かないようにしていた。邪魔な女だと思われたくなかった。

 でも……今日は違う。きっと、うまくいってるからこの場に〝再会〟があるのだ。そう思ったから……こんなにきれいにしてきたのだ。

 そう思えば気持ちが急いた。隣に座ってはいるが、半ば対面するように腰を斜めにずらす。

 が……そのように燃え盛る炎を受け止める男の芯は、完全に不完全燃焼を起こしていた。

「俺、もうあの夢、諦めようと思うわ」

「え……?」

「現実ってのはやっぱ厳しいよ。このまま続けても大したものにはならないだろう」

「……」

 イミリは言いたい言葉を飲み込む。均は続けた。

「このまま行っても冴えない人生しか見えねぇ。すっぱり諦めるよ」

「そう……」

 少し意外な展開だったイミリが、頭の整理をしてからうなずく。

「私ね、均君がそう決めたならそれでもいいと思う。どんな生き方をしても、均君は均君だから」

 というより、その後が聞きたい。夢を諦めて、どうするつもりなのだろう。イミリは自然、身を乗り出していた。

「だからさ、ミィちゃん……」

「うん」

「俺のことは、諦めてくれ」

「……」

 一瞬、失語症になったかと思った。失語症どころか、どうやって呼吸をするのかさえ忘れていた。

「このまま、ミィちゃんを宙ぶらりんの状況にしておいてもいいとは思えねぇ。そんなにきれいなら今からでも十分にやっていけると思うから……」

「やだ!!」

 イミリはしがみつかんばかりの勢いで均に詰め寄る。

「今さら何言ってんの!? そんなの納得できるわけないじゃん!!」

「……俺は今からもっと忙しくなるし、正直女に関わってる暇ないんだよ」

「勝手すぎるよ! 四年も待ったんだよ!?」

「もう一度聞くけど……約束は、覚えているか?」

「……」

 唇をかみしめるイミリ。

「俺の余裕ができた時……って言ったよな。その夢は潰えても、まだまだ俺は夢の途中なんだ。……ここらで諦めてくれねぇと、ミィちゃんのことを不幸せにしちまうよ」

「そんなの……ないよ……」

 がっくりとうなだれて、顔を伏せ、言葉を失う。

「でも、考え方を変えれば、ミィちゃんにとっていいことだと思うんだよ。俺みたいな根無し草を清算して、地に足のついた人生を歩けるんだから」

「……」

「だから、諦めてほしい」

「……私の返答次第って、そういうこと……?」

「考え方次第だと思うんだ。結果、ミィちゃんにとってもいいことだと思う」

「そんなの……全然いいことじゃない……」

「すまないな」

 均はそんな彼女を置いて立ち上がろうとした。しかしイミリはそれを許さない。裾をつかんでさらに彼に詰め寄った。

「ねぇ、他に女ができたの?」

「ははっ、そう言われると思った」

「できたの?」

 すると均は右手の人差し指と中指を立てると両目の下にそれぞれの指をあて、

「魔王に誓って、それはない」

「それならそれで、待たせてくれたっていいじゃん! 私待つよ! 待つの……疲れてるけど、待つから!」

「俺の方が罪悪感なんだよ。このままミィちゃんをオバサンにしていくの、いやなんだよ……」

「じゃぁ責任取ってよ……」

 消えるような声でつぶやくイミリ。

 彼女はこの四年間、いくつものアプローチを断ってきた。その中には、均のことを待っていなければ、始まったかもしれない縁もあった。

 それをあげつらってケチをつけるのは見当違いかもしれないが、そこまでして彼に全振りしてきた想いを、今のような一言で断ち切られるのはあまりにつらい。

「聞かせて。結局……均君は何を目指してたの?」

 実は、それを聞いたことはなかった。というか、聞いてもはぐらかされ続けてきた。でも……

「諦めるなら、教えてくれてもいいよね……?」

「……」

「私を納得させてよ。私たちの四年間をこのまま終わらせないで」

 そんなイミリと目を合わせ、鼻から小さく息を抜く均。ベンチに座り直せば、舞台の緊張はやや緩和する。

「小さなころから夢があったんだ。誰にも言えなかったけど」

「うん。知ってる。均君がその夢をどれだけ大事にしてたのか」

「そう。誰にも言わなかった。それくらい大切なものだったから」

 なのに、もう諦めるの?……とは、イミリは聞かなかった。その質問は、今の自分には不都合な展開になる可能性が高い。

「それを、ミィちゃんには教えるよ。それが……俺が好きなのは、ミィちゃん一人だってことの証明になればうれしいな」

「……」

 そう言われればうれしいけど、切ない。

 均はいつだって純粋なのだ。純粋に愛してくれていることが彼女自身にも伝わってきたし、今だって純粋に、彼女を想って離れようとしている。そういう温かみが伝わってきて、イミリはうつむいた。

「ごめん。他の女ができたわけないよね」

「疑われてもしかたねぇよ。すまないな。いつまでもうだつが上がらなくて」

「そんなの……」

 いい。構わない。だけど、それを思い詰めて「諦めてくれ」は困る。でも諦めないまま、あまり待たされても不安で張り裂けそうだし、どうしたらいいか分からない。

 とにかく今は、彼が何を言い出すのか、それをしっかりと聞き遂げて、悲劇に終わらない方法を見出していくしかない。

「教えて……均君の夢」

「笑うなよ?」

「笑わない。均の目指したものだもん」

「ミィちゃんならそう言ってくれるとは思ってた」

 諦める夢を聞いてどうなるのか。分からないがこの際、繋ぎとめておくなにかがあるならどんなものでもいい。

「俺の夢は……」

「うん」

「コンクリートミキサー車になることだった」

 …………

 ……

「…………え?」

 イミリ、耳を疑う。

「……え……?」

「コンクリートミキサー車だよミィちゃん」

「コンクリートミキサー車の運転手……?」

「いや、コンクリートミキサー車」

「本体?」

「本体」

「……」

「小さい頃から憧れてたんだ」

「……」

 驚くことに、彼の目に冗談がない。四年前拒絶された時と同じ目をして、彼はコンクリートミキサー車を語っていた。

 イミリは動揺を必死に隠しながら、とりあえず細かいところをついてみる。

「あの……どうやってなるの……? コンクリートミキサー車」

「それを追い求めた旅だったよ。子供の頃から研究に研究を重ねて……キミと会ってさらに四年。……最近、うすうす気づき始めたんだ」

「なにに……?」

「ひょっとしたら、なれないかもしれないな……って……」

「……」

 イミリは思わず彼から目をそらした。見てはいけないものを見ている気がした。

 もちろん、その程度のことで終わるような想いではないが、彼の意外な一面というか、彼の致命的な構造上の欠陥を見てしまった気がして、目をそらさずにはいられなかったのだ。

 気にせず続ける均。

「なんだろう……。あの亀の甲羅みたいな部分の回転が難しいんだよ」

「(そういう問題じゃないと思う……)」

 コンクリートミキサー車のどういう想定をしているのか分からないが、聞けば聞くほどに彼と距離を感じてしまいそうで聞けない。

 しかしその次、彼が続けた言葉で、彼女は一転、色めいた。

「だから、コンクリートミキサー車は諦めようと思う。代わりに、事業を始めようと思ってるんだ」

 そらした目を一瞬で戻す。一瞬で、今までいた混沌とした異界から目が覚めた気がした。

「すごい。起業するの?」

「ああ。コンクリートミキサー車を目指して下向いてた人生の逆転を、新事業に賭けたいと思う」

「わぁぁ……」

 コンクリートミキサー車になりたいと言い出した時にはどうなるかと思ったが、一転、夢らしい夢が開けて、イミリは思わずときめく。

「何を始めるの?」

 イミリの声が初めて弾む。均は照れ臭そうに言った。

「今、少子高齢化だろ。子供を相手にするより、老人向けのサービスを考えた方が成功する」

「うんうん!」

「そこで、老人向けの、『どこへでも扉』を売る事業を考えてる」

「……え?」

「老人は足腰が弱いからな。一瞬で世界のどこにでも行ける『どこへでも扉』の需要って高いと思うんだよ」

「『どこへでも扉』って……?」

「え、知らないのか。あのネコえもんがよく使ってる、あの扉だよ」

「あれって、どこかに実在するの……?」

「だから、これからネコえもんを探さなきゃならねぇ。……な? だから、今は恋愛をしてる場合じゃねぇんだ」

「……」

 イミリは再び彼から目を離した。何と言ったらいいのか分からない。

 もはや動揺の隠せなくなった彼女だが、均はその様を見て優しげに笑った。

「っていうのは冗談だよ」

「え……?」

「さすがに冗談」

「あ……」

 あは、あははは……と、乾いた声で笑うイミリ。

「だよね。ちょっとビックリしちゃった」

「実際は老人用だけじゃない。ちゃんと一般成人用も販売するつもりさ!」

「そっちじゃない!!」

「え、なにが?」

「いえ……」


 イミリは生まれて初めて気がついた。

 この男の脳内がこれほどのパラレルワールドであったことに。

 何も言えない。しかし、何か言わなければならない。このままでは彼はこの世界の住人ではいられなくなる気がする。

 とりあえず細かいところ。

「でもさ均君。それ、……ネコえもん? 見つかったとしても、その『どこへでも扉』を仕入れられるだけのお金は持ってるの……?」

「おう、資金調達についても考えてる。地球上の七割は海だろ? ってことは海水は無限にあるってわけだ。これを売りさばく」

「か、海水……」

「名案だと思わないか。空のペットボトルなんて腐るほど捨ててあるからな。これに海水をいれれば、まぁ一本百円くらいで売れると思う」

「あ……あの、均君さ」

「ん?」

「ちょっと……頭リセットしようか」

「え、なんで?」

「疲れてるんだよ。きっと。長くミキサー車になる夢を描いてきたんでしょ?……疲れたんだよ。だから、ちょっと人生、休憩した方がいいかも……」

「いやいやいや、立ち止まってなんていられねぇよ。こうしてる間にも『どこへでも扉』を待ちわびてるヤツラがたくさんいるんだ」

「だ……駄目だよ。老人たちの役に立ちたいって思いながら、先に均君が倒れちゃったら、結果老人たちに、その『どこへでも扉』は行きわたらないんだよ?」

「……」

「海水集めるのだって大変だよ。均君、自転車しか持ってないじゃん。片道ニ十キロ海まで取りに行ったって、大した量は持って帰れないし」

「そうか! 老人たちの前に、俺が『どこへでも扉』を手に入れなきゃいけないってことだな!」

「そのお金はあるのってば。多分その『どこへでも扉』ってすごい高いと思うよ。いくらか分からないけど数億はかかると思う」

 機能的なものを考えれば、実際は数億程度なはずもない。

「なんと……」

 その主張に、意外そうな顔をする均だが、そこが意外である時点でなんというか……。

「『どこへでも扉』を買うために金が要る。金のために海水を運びたいけど、運ぶ手段に『どこへでも扉』が要る……堂々巡りじゃねぇか!」

「そうだよ。だからもう少し別のことを考えない? 私手伝うから」

 均は思わず手を叩いた。

「それは心強い! ミィちゃんをスカウトできるなら、温めてた金儲けの手段があるんだ!!」

「……」


 嫌な予感しかしない。

 しかし、少なくとも海水やネコえもんより現実的なら、手伝える可能性はある。

「聞かせて……ほしいけど、その前に」

「ん?」

「均君の事業を手伝うんだから、まだ……私、均君のことを諦めなくてもいいんだよね……?」

「……」

 均は一瞬呆気に取られていたようだったが、小さく何度かうなずいて、

「俺だって、いっぱしに稼げるようになれば、ミィちゃんと付き合いたいと思ってるよ……」

 イミリは胸をなでおろした。それなら、続きを聞くべき話だろう。

「じゃあ……聞かせて」

「うん」

 均は改めてイミリの方へと向き直り、

「ミィちゃんって英語得意だよな」

「まぁね」

「その語学力を使って、まず、大学受験用の学習塾に入ってもらう」

「え、今から? 教師として?」

「いや、学生として」

「私26だよ!?」

「バレないバレない」

「バレるから!!」

 なんなら10歳も離れているのだ。容姿がパスできても話が合わない。

 そんな……イミリの必死な抵抗に、均が折れた。未練がましく呟いてはいるが。

「行けると思うんだけどなぁ……」

「無理に決まってるじゃん!! ……でもその先は聞いてみたいわ。もし私が学習塾に入ったらどうするつもりだったの?」

「適当な男子を引っかけて、英語教えるふりしていい仲になって、結婚まで約束させて、その時に『私実は借金があって結婚できないんだけど、代わりに出してくれる?』って……」

「結婚詐欺じゃん!!!」

「そんな……人聞き悪いだろ」

「結婚詐欺以外のなにものでもないし!!」

 いや、いや、いや、それ以前に、根本的に。

「だいたいなんで高校生狙いなのよ! お金持ってるわけないでしょ!?」

「いや、だから、それはミィちゃんが英語ペラペラだから」

「え・い・ご、全く生かしてない!!」

「いやいや、だから、英語教えるふりしていい仲になるから」

「そんなのカテキョーでもいいじゃん! せめてカテキョーだよ! 今さらセーラー服が似合うはずないじゃん! めっちゃイタイ人みたいに見えるに決まってんじゃん!!」

「いやまぁ、家庭教師でもいいけど……」

「っていうか、結婚を約束させるくらいいい仲になるって、どこまで私にやらせるつもりなの!?」

「え、そんなの映画見に行って、食事行って、……『こんなに付き合ったんだから結婚して?』って……」

「そんなんで結婚する人なんているかーー!!」

「じゃあイミリはその男と、キスとかしてもいいのかよ!」

「いっぱしに怒んないでよ!」

「だってイミリが俺を差し置いて違う男とキスしようとするから!!」

「キスもしない恋愛結婚なんてあるか!!」

「だから怒ってるんだろ!!」

「均君に怒れる権利があるか、胸に手を当てて、その手で肋骨突き破って、心臓握りしめて考えてみてよ!!」

「死んじゃうだろ!!」

 なんだろう。今日だけでいろいろ均のすごさを知った気がする。イミリはそれに圧倒されつつ、何度も瞬きを繰り返した。

「とにかく、均君のその計画には根本的な欠陥があると思う!」

「どこが」

「どこかに気づかないところ!!」

「……うまくいくと思うんだけどなぁ……」

 これでうまくいくなら、今ごろ世界の財産の90%は詐欺グループに渡っているだろう。

「じゃあこういうのは? ……ターゲットの老人の前で転ぶだろ。で、心配して声をかけてきたらミィちゃんは英語をベラベラしゃべって、老人の家に行くんだ。で、その後家に俺が詰めかけて、ミィちゃんに事情を聞く。俺はそれを聞いて老人にこう訳すんだ。『私を家に連れ込んだのは監禁罪になると思う。このまま警察行きたくなければ現金1000万払ってください……と言ってます』」

「恐喝じゃーーーん!!」

 美人局とも言えようか。

「いやいや、脅さないから。穏便に事を済ませて払ってもらえば、双方ハッピーだと思うよ」

「そんなわけっっっ、、、ないでしょーーーー!!!」

「ミィちゃん……俺にホントに協力する気、ある?」

「協力できる自信がなくなってきたわ!!」

「夢を諦めて傷心状態の俺の、人生逆転を賭けた大一番なのに、……なんか、すごく抵抗されてる気がする」

 均にシュンとされ、イミリははっとした。喧嘩をしに来たのではないのだ。

「ごめん……抵抗する気はないんだけど……それ、犯罪なんだよ。ねぇ、もう少しまともに稼ごう?」

「じゃあ、まずミィちゃんが猫の真似をして……」

「却下!!」

「協力する気があるのか!!」

「なにするか知らないけど、猫の真似なんてバレるに決まってんじゃん!!」

「他の動物ならバレない自信があるってのか!?」

「犬でも猿でもバレるわ!!」

 駄目だ。この男に、金儲けの才能がないことはよく分かった。

「均君。分かった」

 イミリが立ち上がってくるりと身体を翻し、見下ろす形で対面する。

「もう私と結婚して」

「へ……?」

「危なっかしくて見てらんない。結婚して、私の家を継いで」

「駄目だ。俺には夢がある」

「コンクリートミキサー車でもブルドーザーでもなってていいから」

「え……?」

「ネコえもん探しててもいいから」

「でも、資金がないだろ」

「ウチが出してあげる」

「え……ミィちゃんの家ってそんな金持ちなの……?」

「新宿駅周辺から四ッ谷の辺りまで、御苑を除いてウチの土地だから」

「えええええーーーーーーーー!!」

「ホテルトリトン知ってる?」

「お、おう」

 ヒルトン、シェラトン、トリトンと言えば、世界の三メガトンと呼ばれる巨大資本のホテルだ。

「あれ、ウチだから」

「マジかーーーーーーー!!」

 イミリがそのことを自分から言うのは、初めてだった。

 色眼鏡で見られたくない。ありのままの自分を大切にしてくれる人を探したい。

 そういう気持ちが素性を隠していたが、それでも、どこかしらから情報を得た男はいくらでも寄ってきた。そのほぼ全員が、彼女の背中の、財産を見て彼女としゃべっていた。

 ……にもかかわらず、この男だけは明確に違っていた。

「均君ってさ……馬鹿だよね」

「馬鹿にすんなよ」

「だから大好き」

 乱暴だが……圧倒的な告白。返す言葉が見つからない均に、イミリは続けた。

「あなたは、私の背中どころか、もっともっとずっと遠くを見てたよね。その夢は……あらゆる意味で意外だったけど、それでもその夢も、夢を叶えるための資金も……一つも私を頼ろうとしなかった」

「いや、だって、そんな金持ちだって知らなかったし……」

「金持ちだって知ってたらせびってた? ……しないよね。均君、100円だって私から借りようとしなかったし」

「駐車場代か」

 以前コインパーキングで小銭がなかった時、イミリに借りずに10分走ってコンビニまで行き、わざわざ両替してきたことがあった。おかげでコインパーキングのメーターは廻り、200円高くなったという切ないエピソードである。

「……そういう馬鹿だから好き」

「……」

「均君、私と雪山で遭難した時、先に寝たら何かされるかと思ったけど、なにもしなかったよね」

「そりゃそうだ。付き合ってるわけじゃないからな」

「……そういう馬鹿だから好き」

「それは……ありがたいけど、俺は、あくまで夢を追いたいんだ……」

 イミリは目を細める。この男はトリトンの名前を出してもなお、こんなことを言っている。

 こういう馬鹿だから好き。こういう馬鹿だから、四年も待っているのだ。

「……私と結婚したら、ネコえもんでも何でも探せるよ。コンクリートミキサー車になれるかはわかんないけど」

「俺、ホテルの経営なんてできないぞ」

「大丈夫。スタッフはみんな有能すぎるから、均君がそのセンスで社長になっても、経営は彼らに任せてくれたら問題ないから」

「……」

「私が『どこへでも扉』になってあげる。たぶん、均君の良さはそういう自由奔放なところだと思ってるから。ただ……」

 イミリの声が曇る。

「……浮気したら……暗殺する」

 呆気にとられた均の表情に、イミリは笑いかけた。

「ね。そうやって夢かなえてよ。……じゃないと均君……いつか犯罪者になっちゃいそうで怖い」

「そうかなぁ……」

「自覚がないから、なお怖い」

「どんな夢でもいいのか?」

「どんな夢だって……思いのままだよ」

「実はな……そんな金持ちのミィちゃんと結婚するなら、やりたいことがあるんだ!!」

「な……なに?」

 思いのままだと言っておいて不安になる。なにせ相手はコンクリートミキサー車になりたいとか言い出す夢想者だ。想像の何百歩も先を行かれた場合、どうしようもない場合がある。

 いや……逆に……

 その、金持ちと結婚するならやりたいこと……が、あまり俗っぽいことだったら……

 それもまた、自分の気持ちが冷めてしまいそうで怖い。

 この男……いままの人生で唯一、他の男とは違うと認めたこの男が何を言い出すのか……。

 イミリの胸の鼓動は高鳴った。これはある意味、審判の時と言えた。

「教えて……」

「うん」

 均は立ち上がった。イミリは急に大きくなった影を見上げ、つばを飲み込む。

 そのまま……しばらく空白の時間が流れ、

「ミィちゃん」

「はい」

「俺は金持ちのミィちゃんとキスがしたい」

「へ……?」

「金持ちのミィちゃんとキスがしたい」

「あ……うん。聞こえてはいた。でも……」

 イミリはうつむかない。むしろ均のことを凝視した。

「お金持ちだから、したいの?」

「そうだよ」

「……どういうこと?」

「そりゃぁもう……イメチェン?」

「イメチェン……?」

 均が微笑う。微笑いながら、

「髪の毛長かった人が短くしたら、印象変わるだろ? あらためて抱きしめたくなるだろ? そういうことだよ」

「……?」

 よく分からない。そんな顔をイミリがすると、均は言った。

「俺、今までミィちゃんのことは、普通のミィちゃんだと思ってたんだよ。そしたら金持ちのミィちゃんだった。そんなギャップがあったら、そりゃ燃えるだろ!」

「……」

 謎だ。謎過ぎる。

 イミリは困ったような笑顔を浮かべるしかなかった。まぁ、相手はコンクリートミキサー車になりたいような感性の持ち主なのだ。その意味を常人が理解しようなどというのは土台無理だった。

 それでも……イミリの表情は安らかだった。なににしても、彼にとって自分がホテルトリトンの一人娘であることは、大した意味を持たないらしい。それが……いい。

 彼女は一歩、均との距離を埋めた。そして呟く。

「婚約してから初キスとか……恋愛結婚としてあり得る?」

「そりゃあり得るよ。そうじゃなかったらキスの責任が取れない」

「……そういう馬鹿だから好き……」

 瞳を閉じ、その小さな顎を、彼の方へ突き出しながら……

 イミリは今日、必死に選んできた勝負服も彼にとって全く意味をなさないものだったのだと、内心、笑うしかなかった。

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