第32話 鼓動、再点火

 1964年・東京 霞ヶ関地下鉄構内


 夕刻。東京五輪の警備で騒がしい都心の地下。


 構内放送が途切れ、突然すべての電灯が消える。

 続いて鳴り響くのは、子どもの悲鳴と、駅員の叫び声。


 「誰か倒れたぞ! 息してない!」


 雑踏が広がり、誰も動けない中――

 トシキが走り出した。

 手に持つのは、涼太から託された旧式の救急キット。中には、一本のアドレナリンアンプルが光っていた。



---


トシキの葛藤


 倒れていたのは、心停止を起こした高齢男性。

 目は閉じ、脈も呼吸もない。

 胸を圧迫していた駅員の手は、もう震えていた。


 「AEDは?」「まだ届いてません!」


 トシキの頭に、過去の講義の記憶が走る。


 >「アドレナリン(エピネフリン)は、心停止時に心拍再開の確率を上げる。   ただし、誤投与すれば……心筋に深刻なダメージが残る」


 迷いがよぎる。

 医師免許はない。

 これを使えば、責任は自分にくる。命を縮めてしまう可能性すらある。


 だが、周囲の子どもが泣き叫ぶ声が彼の背中を押した。


 「“制度”は後から追いつく。今、必要なのは決断だ……!」



---


アドレナリン投与


 彼はアンプルを割り、筋肉注射用の針に薬液を満たす。


 「……よし。三角筋。左側に一発」


 覚悟を込めて、針を打ち込む。


 スッ――と、時間が止まったような静寂。


 誰もが息を呑んで見つめるなか――


 次の瞬間、男性の指がピクリと動いた。


 「脈、戻ってきてる……!」


 トシキがすぐさま胸骨圧迫と人工呼吸に移行する。

 周囲の大人が我に返り、通報と人員整理に動き出した。



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地下に響く鼓動


 構内に設置された救急用インターホンが、かすかに鳴る。


 【……心拍検知。現場に、生命兆候あり……】


 その合図と同時に、患者の目が開いた。


 >「……ここは……?」


 トシキは深く息をつき、汗だくのまま微笑んだ。


 「五輪の東京ですよ、じいさん。   あなたが倒れるには、まだ早いんで」



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ガレノスの残滓、退く


 構内の壁に、かすかに黒煙が浮かぶ。


 その中に、ガレノスの残滓――幻影が再び現れる。


 >「その薬は……自然のバランスを壊す毒だ。   命を乱す小手先の術に過ぎぬ」


 だがトシキは、まっすぐ幻影を見据え、こう返した。


 >「毒かどうかは、“使う人間”が決めるんだよ。   アドレナリンは、命を呼び戻す“最初の鼓動”だ」


 その言葉に、幻影は黙り、やがて黒煙ごと消滅した。



---


涼太からの通信


 クロノシフトの余波が地下鉄の天井を揺らし、涼太の音声が入る。


 >【……やったな、トシキ。

  お前の判断が一つの“命の未来”を変えた】


 トシキは、静かに答える。


 「まだまだだよ、涼太さん。

  でも……“救いたい”って気持ちが、俺にも少しだけわかった気がする」



---


そして次の地へ


 数日後。


 五輪開会式を控える東京の片隅で、トシキは再びタイムスーツを身につける。


 >「次は、どこに行く?

  ……“戦場の心停止”を、見に行くのか?」


 そう呟いた彼の背中に、タイムシフトの光が再び包み込む。


 目的地:1950年 朝鮮戦争前線・釜山野戦病院



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