第32話
季節は夏。
本格的にほむらの受験生活が始まった。
小説を書き始めた影響で、ほむらの成績はわずかに上向いていた。が、こつこつ勉強することが苦手なほむらにとって、半年以上に及ぶ受験生活は予想以上に苦痛だった。
「もうむりかも。フリーターになるかも」
「あんたが今フリーターになったら恒亮さんが自責の念に苛まれるでしょ。やめて」
「それはそうだ……がんばらないと……」
書籍化の話は、家族と明李にだけ伝えてあった。それが受験終了後になることも了承済みだ。むしろ皆はそれに安心して恒亮へ信頼を寄せた──高校生のうちに本を出した方が話題になるだろうに、ほむらの人生を考えてそれを退けたから。
本当は細美と藤原にも話したかったが、ほむらのあまりにわかりやすい表情から細美はすぐに勘付いて、「まだ表に出せないことを聞くつもりはない」とぴしゃりと切り捨てた。「進路に心配がなくなったら話を聞きますから」という言葉と共に。
あれから小説は一時打ち止めにしたので、授業以外で細美と話すこともなくなってしまった。
そんな風なので、ほむらの受験生活は孤独のひとことに尽きた。細美とは話す機会もなく、明李とは志望大学のコースが違うので以前より共に居る時間が減った。
夏の終わりにはすっかり気が滅入ってしまったほむらだが、それでもひとつだけ心のオアシスともいうべきものがあった。恒亮との間で交わされる、他愛ないメッセージたちだ。
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コウ
会社の同僚が夏季休暇でインド旅行にいってきたそうです。お土産にシルクのスカーフをもらいました。
添付画像:薄緑色のスカーフ
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ほむら
すごく綺麗!
いい色ですね。
そういえば前も緑色のベストを着てましたよね。緑が好きなんですか?
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コウ
言われてみると無意識に緑色ばかり選んでいる気がします。好きなのかもしれません。
ほむらさんはやっぱり赤色が好きなんですか?
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ほむら
名前がほむらだからみんなにそう言われます。実際赤が好きだし、言われたところで何でもないんですけど……。
でも海や川の青も好きです。
恒亮さんは緑好きだし、山派っぽい。合ってますか?
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コウ
正解です。わたしは断然山派ですね。
高い木々に囲まれていると安心するんです。
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恒亮は、以前より文章が柔らかくなった。その変化はほむらに喜びを与えた。
「……緑が好きなら、あのとき贈ったのも喜んでくれたかな?」
恒亮が前世を思わせる言葉を漏らすたび、ほむらはそのときのことを考える。彼が生まれ育った森林の国や、ほむらがかつて贈った宝物について……。
誰とも共有できない記憶に思いを馳せるとき、時折虚しくなることもあったが、おおよそは満たされた気持ちになった。
前世の記憶はほむらの魂の居場所に他ならない。しかしそれが恒亮の居場所でないことを、ほむらはゆっくりと受け入れていった。かの記憶がないことは不幸ではないだろう──あの世界は苦痛に満ちていたから。
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ほむら
今日は模試でした。
最近真面目に勉強してるので結構いい感じです。恒亮さんも高校のとき受験しましたか? 成績は良かった?
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コウ
お疲れさまでした。
うまくいったようでよかったです。
わたしも受験生してましたよ。
成績は……どうでしょう、校内ではあまり目立たない程度の出来でした。
わたしの場合は一般で志望校に受かったので、受験生活はすごく長かったですね
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ほむら
それ聞いてちょっと安心しました。
まだ夏なのにもう受かってる人がいて、焦っちゃってたかもしれません。
また今度恒亮さんの大学の話聞かせてください。(いま聞いちゃったらそこに行きたくなるので、受験終わってからで!)
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ほむら
今日は推薦の試験を受けに行ってました。
大学近くのこのパスタ屋さん、めちゃくちゃ美味しかったです!
添付画像:木製の看板がかけられたパスタ専門店
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コウ
調べてみたら、職場の近くでした。
また今度行ってみます。
ほむらさんは何を食べました?
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ほむら
アラビアータです!
デザートのジェラートも美味しかったので、もし行ったら絶対食べてくださいね!
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コウ
今日は例の店に行ってみました。
想像以上においしくて、今まで行かなかったのが悔やまれます。
素敵なお店を教えていただいてありがとうございました。
(少し肌寒い気温でしたが、ちゃんとジェラートも食べましたよ)
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コウ
そろそろインフルエンザが流行り始める時期ですね。
わたしの職場でも二人ほどダウンしてしまいました。
ほむらさんもお体にお気をつけください。
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ほむら
おれ、生まれてから熱出したことないんです。(この話をすると親に嘘つくなって言われますが、記憶にないという点では嘘じゃありません)
でも今年はいつもより気をつけて生活してます。心配してくれてありがとうございます。
恒亮さんもお気をつけて。
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ほむらの住む町は温暖で、冬の間も穏やかなことが多かったが、この年は稀にみる厳冬のため数回雪が降った。
「ほむら。お母さん仕事に行くから、鍵閉めといてね」
「はーい、いってらっしゃい。気をつけて」
閉めっぱなしだった自室から抜け出して母親を見送り、ドアの鍵を閉めたあと、ほむらは部屋に戻らずキッチンで湯を沸かした。机上の分厚い参考書から少しだけ距離を置きたかった。
「マグカップどこいったんだろ……まあいいや」
ココアを片手にのそのそと移動して一息つく。床の冷たさが移った足をソファの上で揉み込みながら、ほむらは窓から空を仰ぎ見た。
「……雪だ」
カップも肩にかけたブランケットも置いて窓に近付いた。窓についた結露を手のひらで落として、ちらちらと舞うそれを追うでもなくぼんやり眺める。
この小さな水の塊は、前世では最後まで見なかったものだ。それゆえ雪を見ているあいだは前世がひどく遠く感じられる。
まるで吸い込まれるように、この凍える身から最も離れた記憶が蘇ってくる──太陽に照らされる砂の熱さと、あのとき触れた肌の熱さ……彼の半身に散るほくろやそばかすの美しさ……星読みをするタタユクの瞳に映り込む星のきらめき……どれも夢のようにまばゆく、霞のようにぼんやりしている。
ほむらはもうあの世界に戻りたいとは思わなくなっていた。空を飛ぶことを知ったあとで翼を捨てることなどできない。それに、恒亮に思い出して欲しいとも思わない──それこそが彼の翼を傷付けるものだと、ほむらは彼自身の経験から思い知っている。
しかしひとつだけ、ほむらの中でどうしても打ち消せないものがあった。それはふとした瞬間に湧き上がり、氷のようにほむらの体を凍てつかせる。
──あの頃の自分たちは得がたい友人で、唯一の恋人だった。けれど今は学生と社会人で、仕事上のパートナーで、甘い雰囲気など微塵もない。
この新しい世界でおれたちが出会ったことに意味などあったのだろうか?
このまま、よき仕事相手として、変わった友人として、わずかな一角を交わらせながら一生を終えるのだろうか?
それは砂漠で水を失うのと同じくらいつらい。彼がいるのに、その瞳に自分が映らないのは。彼の半身に立ってその代わりを任してもらえないのは。
何もいらないと思い込むことはほむらにとって馴染みのある枷だったが、時折思うままに悲しむ必要があった。でなければできなかっただろう……探し求めていた彼を前にして、ただ無害で優しい関係に収まることなど。
こうして嘆いたあと、きっぱりと立ち直れるのは今世のいいところだ。気を紛らわせるものもあるし、彼は記憶以外の何にも縛られていなかったから。
ほむらはコップを洗いながらその日の計画を立て始めた。
「(試験の前にもう少し勉強しておかないと。母さんが帰ってくる前にキリよく終わればいいけど……)」
かちゃん、とコップを水切りラックに置いて、ほむらは背を向けた。一人きりの部屋、彼の王国は今や学問の砦だ。そこに籠るには雪も感傷も必要なかった。手についた水とともに諦念を拭って、彼は自身の国に戻った。
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