19:残り香

ヴィンセントが寝かされたストレッチャーが救急車へ乗せられた。

アレックスとルシアンが同乗し、扉が閉まる直前、ミラはアレックスと一瞬だけ目を合わせた。その頬にはまだ涙の跡が残るがそれでも小さく微笑んで頷く彼女に、ミラも小さく頷き返す。

救急車のサイレンが夜の街に吸い込まれるように遠ざかっていった。


そこへ、後ろ手に手錠をかけられたクロウが警官に両脇を抱えられて出てくる。黒いコートの裾が風にゆれ、薄い笑みだけが顔に貼りついている。


すれ違いざま、クロウはずっとソーレンを見ていた。ソーレンにもクロウにも言葉はない。

ただ、勝ち切れなかった彼を嘲るかのように、口角だけがわずかに持ち上がる。パトカーのドアが閉まり、赤色灯だけが残響のように回った。


「……なんとか終わったな」


背後からイーライの声。ソーレンの隣に並ぶ。


「……怪我人を出してしまった」


「いや、お前はよくやったよ」


「でも——」


「あの傷なら命に別状はない。それに、あれは……」

と言いかけて、イーライは言葉を飲み込み、代わりに大きな手でソーレンの髪をがしがし掻き回した。


「とにかくクロウの奴を捕まえたんだ、これで一安心じゃないか。ほら調書取らないとな。アマリさんもいいかな?」


「はい」


三人は再び駅舎の内へ戻る。夜気と硝煙が入れ替わるように、ひんやりした石の匂いが迎えた。




現場聴取は粛々と進む。

質問とメモの擦れる音だけが、広い館内に薄く響いた。


終わると、ミラはふらりと壁画の前に立った。

血の鉄臭さがまだ残っている。その向こうから、やはり“古すぎる匂い”が微かに立ち上ってくる。新しい薬剤や塗料のヴェールを押しのけて、それでも届く何か——。


「……やっぱり、モロー夫人は市長の妹だったんだな」


横に並んだソーレンが低く言う。


「ええ。だから匂いが似てたんだわ」


「ルシアンとも、あの感じは……家族、だな」


ミラは壁画を見上げたまま、ふっと笑う。少しだけ、さびしい色が混じっている。


「三人が並ぶと、空気がぴたりと合うんです。不思議なくらい……“家族”って、ああいうことなのかなって」


ソーレンがそっと肩に手を置く。その手の温度で、胸の波が少しだけ静まった。


「……二人から、直接聞いたことはないよな?」


ミラは頷く。そこへイーライが近づき、会話の温度を測るように目を細めた。


「アマリさんにも隠してたわけだ、あの三人が家族だってことを」


「はい。でも、どうしてなのかは……」


ミラが言葉を探すと、イーライはどこか晴れやかな顔になった。


「さぁな、ただ――誰かの為に自分の身を投げ出すなんてなかなか出来る事じゃない。あの市長は大した人だな」


理由も語らず、どこか合点のいったような笑み。

ミラとソーレンは顔を見合わせる。イーライだけが、遠い昔のピースを一つ思い出したみたいに機嫌がいい。


外では警察無線が短く鳴り、足音が遠のいていく。

館内の空気は少しずつ冷え、音が消え、最後に残ったのは——壁画の奥から、微かに立ちのぼる“古い匂い”だけだった。

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