53.氷月律にとっての現実
「運動した後のお風呂って気持ちいいですねー」
「天熾くんそれジェラピケ? かわいい……」
深夜十二時前。天熾家。
「お待たせしました。後風呂組、上がりました……って、あれ?」
「おや。寝ちゃってるね」
夕飯を終えてつい1時間ほど前までダンスの練習をしていた部屋に布団が敷かれている。
白いシーツの上に、撃沈したオレンジとピンクブラウン。
「先輩、僕らを教えながら結構動いてましたから」
「しぃちゃんも珍しく本気で運動してたからなぁ」
「自主練を……と、思ってましたが。起こしちゃいますし寝ますか」
「そうだね。天熾くんも疲れてるはずだ」
「失礼します」と小さな声で囁いて、三上の隣の掛け布団を捲る天熾。
潜り込み横になった彼の視線の先には。
「……日記ですか?」
「ん? うん。癖で。書かないと安心して眠れないんだ」
布団の足元であぐらをかき、ハードカバーの日記帳を広げた氷月。
サラサラとボールペンが紙を走る音。
「ちょっと時間がかかるから先に寝てて。明かりは消しておくよ」
「……はい」
言葉通り、氷月はかなり長い記録を書いているようだった。何気ない日記というよりは、まるでノンフィクションの物語を綴るような。
「……氷月先輩」
ずるり、と寝そべったまま天熾が氷月の元へ向かう。
おそらくもう日付は変わってしまっている。
「ん? どうしたの。明るいと眠れない?」
「いえ……その……」
「なぁに」
膝の横にある癖のある金髪を、大きな手が撫でる。
「言いたくなかったら、誤魔化していただいて結構なのですが」
天熾は掛け布団の皺に目線を落としながら。
「……舞台に立ちたくなかったのって、それが原因ですか。もしかして」
くるくると動いていたペンの頭が、止まった。
「いえ、別に。隠し事を解き明かしたいとか、そう言うことじゃないんです。ですけど……僕も、前に。無意識で隠していたことを言い当てられて、それで。悩んでいたことが、少し、軽くなったことがあるので」
言葉を選びながら、ゆっくりと。
天熾佑宇が返事を伺う。
「……もしかして知ってる? 私の『持病』」
「えぇ……はい。黙っていてすみません。少し前に、部長さんから教えていただきました」
「そう。そっか。多分しぃちゃん、私を守りたかったんだな」
喋りながら、紙を滑るペンの音が再開する。
「確か。記憶がなくなってしまう……んです、よね?」
「そう。ある日突然、寝て、起きたら、昨日の記憶が丸ごとない。木曜のつもりなのに金曜になってる。授業で聞いたことも、みんなと話した内容も、誰かとした約束も、何も覚えてない」
「だから日記を?」
「当たり。今の自分が覚えている限り、今日したこと、忘れちゃいけない会話、全部を書いてるんだ。明日の自分への置き手紙みたいなものだね」
「……」
「頻度も、期間も、わからないんだ」
氷月の赤い目が真摯に紙を見つめている。普段よりも小さな字で綴られた日記。今日指摘されたダンスの癖、コツ。それ以外の会話。ありふれたかけがえのない日を一つたりとも取りこぼさないように。
「わからない。一ヶ月起きない時もあれば、一週間くらいごっそり抜けちゃう時もある。……だから怖いんだ。だから積み重ねるしかない。勉強とか、何もかも」
「それで努力を続けてらっしゃるんですね」
「うん。そう。だけど舞台はそうもいかない。テストは最悪その日の結果が悪かっただけで済むけど、演劇も、ライブも、私だけじゃない他の誰かに迷惑がかかる。その日にまで積み重ねてきた全てが、本番当日、急に抜け落ちてしまったら?」
それはきっと、恐ろしい想像だろう。
彼にとって夢でも杞憂でもなく、差し迫った現実の不安。
赤い瞳がどこか遠くを見て震えている。
「だから目立つ場所に立たないようにと思ってた、のに」
「……氷月先輩」
「どうしたんだろう、あの日の私。自分から舞台に立つと言ってしまうなんて」
「それは」
天熾佑宇は知っている。
氷月が疑問に思っているそれは、彼の中に眠る別人格がやったことだと。
しかし元凶を知っていたとてできることは唇を噛むことだけ。
天熾佑宇は知らない。
今の彼にどんな『正解』を与えればいいか。
彼に真相を伝えることは彼を壊すことそのものであり。そもそも別人格の心境だって天熾にはわからないのだから。
だから。
「氷月律さん」
「……え? わっ⁉︎」
呼びかけられ顔を上げた氷月に与えられたのは、ただ温もりだった。
起き上がった天熾が包み込むようにして氷月を抱きしめる。
「ここにいるのも、忘れてしまった過去にいるのも、どちらも『氷月律』です。それだけは変わりません。……あなたが何を思ったか。僕には何も分かりませんが」
視界を温かな暗闇で塞がれ、氷月はただ言葉を聞いている。
「でも、踏みとどまっていた今を、変えたかったのではないでしょうか」
「……」
「部長さんみたいに、あなたを理解して、完璧に寄り添うことはできませんが。だけど僕だからこそできることがあるはずです」
ゆっくりと少年は体を離す。
座った氷月の横に膝立ちになって。珍しく先輩を見おろして。
普段整えられている氷月の前髪が、目にかかるかかからないか程度に乱れている。
どちらの人格とも見えない彼を前に、天熾が手を差し伸べた。
「僕も先輩も。ステージを完璧にするためここにいるんです。たとえ律さんが全て忘れてしまったとしても」
「ぅえ、えっと……」
「先輩が言っていたでしょう。無意識でも踊れるくらいまでって。多分そこまで考えて言ってます。僕も明日から、無意識で歌えるくらいまで叩き込みます。律さんの記憶が忘れても、律さんの体がパフォーマンスできるくらいに」
エメラルドの瞳に宿る星が、力強く輝いている。
「だから安心してください。絶対に失敗なんてさせませんから」
大きな手がゆっくりと、差し出された手のひらを握る。
「……ありがとう。なんだかまるで、きみの方が王子様みたいだ」
「ふふ。お望みとあらばいくらでもお姫様扱いしますよ?」
「明日からスパルタで練習するって言ってるのに?」
「それはそれ。これはこれです」
「冗談。…………ごめん。本当にありがとう。よろしく、お願いするよ。佑宇くん」
文化祭当日まで、あと7日。
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