第4話 水中博物館
『止まりなさい。止まりなさい。無許可の退勤は認められません。ただちに持ち場に戻りなさい。繰り返します……』
無機質な合成音声で警告を繰り返す飛行ドローンが、すぐそこまで迫っていた。四つのカメラアイの威圧的な赤い輝きが、逃亡者に投降を促し威圧する。
だが、ここで投降しても殺されて海に捨てられるだけ。そのことは彼にも分かっていた。だからおとなしく捕まるなどという選択肢はない。とはいうものの、すでに逃げ場はなかった。仲間の協力でシフトをごまかし、警備の目を掻い潜り、危険な建設途中のエリアを進んでここまで来た。船を手に入れる手はずも整えていた。あと一歩。あと一歩というところで、彼の逃亡計画は瓦解してしまった。
吹き付ける強風を一身に浴びながら、彼は眼下に広がる暗黒を見た。一寸先も見通すことのできない暗闇。記憶が間違いでなければ、そこには海が広がっているはずだった。
彼は背後を見た。ホバリングする飛行ドローン。その数は先ほどよりも増えていた。逃亡を試みて射殺された友達を思い出す。投降した後の処遇は分かりきっていた。射殺か過労死のどちらかだ。
彼は決断した。分の悪い賭けだが、ドローンの包囲網を正面から抜け出すよりも、夜の海に身を投げることのほうがマシに思えた。
彼は、助走をつけて走り出し、二十メートルの高さから海めがけて飛んだ。
着水する音が暗闇に木霊する。
ドローンはその場でホバリングしたまま動かなかった。飛行ドローンには、アクパーラ2の外を警備するようにはプログラムされていない。幸か不幸かそれが逃亡者の命を救った。
ドローンが飛び降り現場から離れ通常挙動に戻ってから数分後、水を掻き分ける小さな音が夜の海を泳ぎはじめた。自分たちの窮状を伝えるため、彼は一縷の望みを胸にアクパーラを目指す。
※※※
空がオレンジ色に染まった頃、ハオランは手すりにもたれかかりながら潜水艦を眺めていた。
さほど興味があったわけではない。それでも、ホールのような構造になった水中博物館の最奥に置かれた潜水艦の展示は、否が応にもハオランの目を引いた。展示スペースを割り振ったスタッフの思惑通りというわけだ。
<第一次大戦のドイツ潜水艦。艦名はU29か…… 今にも動きそうだな>
博物館の目玉であろう岩の上に鎮座する潜水艦。その全体は錆びていたが、それ以外に損傷の類いはなかった。説明のパネルによると、U29は敵国の補給艦や民間の商船の破壊任務を中心に行動していたとあり、沈没の理由については、内部設備が破壊されたためにこの潜水艦は発見された深海で座礁するはめになったのだと書かれていた。
船内からは乗組員と思わしき遺体も一緒に回収された。大半の遺体には射殺された痕跡があったため、何らかの理由で反乱が起きたのだろうと締め括られていた。
潜水艦の納められた巨大ガラスケースの脇には、潜水艦の覗き窓を実寸大で再現した体験装置が設置されていた。
ハオランは体験装置の窓に映る発見されたのと同じ深さの水深八百メートルで撮影された海中の映像を見ながら、潜水艦の乗組員たちの気持ちを想像してみた。
映像の中の海はどこまでも暗く、一メートル先すらも見通せなかった。
<ずっと水中の中で、見えるのは真っ暗な空間だけ。それが何日間も。誰だっておかしくなるはずだ。自分ならどれくらい耐えられるか。そんなこと考えたくもない>
体験装置にはいくつかのボタンがあった。そのひとつを押してみると、映像が暗闇から、ライトで窓の周辺を照らす映像へと切り替わった。そこに何かが横切った。ヒレを持った哺乳類。丸みのある頭部に平たく突き出た特徴的な口。
<イルカだ。こんな深海でも泳げるのか>
映像の中で、イルカの群れが窓を横切っていく。感心しながら映像をさらに見続けたが、それ以降変化らしいものはなかった。
「つぎみーせて」
子供の声が聞こえた。ハオランが体験装置から顔を離して声のした方を見ると、数人の子どもたちが体験装置の順番を待っていた。
「ごめんごめん。はいどうぞ。ライトを点けるとイルカが見えるよ」
体験装置は思いの外よい暇潰しになったようで、気付けば二時間ほど時間が経過していた。ホテルに戻ってもいいくらいの時間だ。
夕食をどうしようか考えながら、ハオランは子供たちに体験装置を譲り、博物館の出口へと足を向けた。
「イルカだってえ! どこだろう?」「あれかなあ?」「アン、これ何度も見たことあるけど、イルカなんて一度も見たことない!」
子どもたちが装置に群がり口々に言い合う。友達とのおしゃべりが盛り上がっているのだろう。楽しげな様子が声からも分かった。
顔をほころばせながら歩いていると、ぴちゃぴちゃと水音がした。ハオランが靴裏の違和感に視線を落とすと、床に水たまりが広がっていた。水たまりは二つの方向に伸びており、一方はハオランの正面。もう一方は博物館出口に近い左手側に伸びていた。
ハオランが顔を上げ正面を見た。目に入ったのは緑色の人型ピクトグラムの避難経路表示と、半開きになった非常口の扉だった。
ただならぬ気配を感じたハオランは、注意深く非常口に近づき隙間から通路を覗き込んだ。見えたのは上下に続く階段で、下の階段に水たまりが続いていた。そのうちのいくつかは靴の形のように見え、残された痕跡から、水を滴らせながら移動してきた人物は、幾度か休憩を挟みながら階段を上り、博物館のある階層まで到達。そして非常口の扉を開けて出口の方向へと歩いていったのだと推察できた。
扉から身を離し博物館出口の方向を見ると、男性が足元に水たまりをつくり立ち尽くしていた。
周囲の観光客は遠巻きに様子を伺ったり、携帯端末で動画を撮影したりしている。
「こ、ここ、ここは……、ここは……」
男性はうわごとのように繰り返しながら、助けを求めるように手を伸ばした。しかし観光客の誰もその手を取ることはなかった。せっかくのバカンス。皆、明らかに異常な状況の人間とかかわり合いになどなりたくないのだ。
「おい、あんた。大丈夫か?」
だが、ここに一人の変わり者がいた。ハオランだ。彼は男性の正面に立ち、話しかけた。高ストレスな状況に長らくいたのか、その目は血走り、視線はきょろきょろと彷徨っている。
「あ、ここ、ここはどこ」
男性はハオランの質問には答えず、おどおどした口調で逆に質問してきた。
「ここは博物館だ。水中博物館」
「博物館……、じゃあ、ここはアクパーラ?」
「そうだ。アクパーラの水中博物館だ」
ハオランが肯定の頷きを返すと、男性は糸の切れた人形のように座り込んだ。そして生きていることに感謝する言葉を何度も何度も繰り返していたかとおもうと、唐突にハオランに縋りついた。
「頼む! えらい人にアクパーラ2へ人を送るように伝えてくれ! 早く、早くあの海の底の街を壊さないと、みんな、みんな……!」
訴えるその目は恐怖に染まっていた。
「来る! 海が、海が来る! やめろ! 来るな!」
男は何か恐ろしいものが近くにいるかのように周囲を見回し狂ったようにわめきたてた。だが周囲には何もない。海中から引き揚げられた船の残骸や、博物館の壁に表示された海の映像。室内にはそれしかなかった。
男はぐるぐるとその場で回ると、ぱたりと倒れた。
呆気に取られていると、博物館のバックヤードに続く通路の方から、軽快な音楽を垂れ流しながら洗濯機にタイヤがついたようなドローンが近づいてきた。
ペペーペ、ぺぺぺ、ペペーペ、ぺぺぺ、ぺぺーぺ、ぺぺぺ
『当機は救護ドローンとなります。簡易診断を行いますので、救護者の方は下がってください』
ドローンのスピーカーから流れる人工音声の指示に従い、ハオランは男から距離を取った。
救護ドローンの箱形ボディから伸びた三本のロボットアームが、倒れた男の診断を開始する。
『呼び掛けへの反応。ナシ。意識。ナシ。極度の緊張状態にあったと思われる。最寄りの医療機関を検索。……搬送します』
救護ドローンが、箱形ボディの正面をハオランに向けた。
『救護者に要請。要救護者を担架に載せてください』
ドローンが変形をはじめた。箱部分が四角形の展開図のように開き担架へと変形した。
『担架に載せてください』ドローンからもう一度メッセージが発せられた。
現在ドローンから救護者と認識されているハオランは、いわれるままに担架に気絶している男を寝かせた。
『ご協力ありがとうございます。引き続きアクパーラをお楽しみください』
ペペーペ、ぺぺぺ、ペペーペ、ぺぺぺ、ぺぺーぺぺーペペー
変形したドローンは、自分の担架に気絶した男を寝かせた状態で、ゆっくりと自走をはじめ博物館から出ていった。
ハオランはその搬送を見守りながら、自分の濡れた手の匂いを嗅いだ。ほんのわずかに磯の香りがする。
<海水?>
男の全身を濡らしていたのは、海水だった。階段から続いていたものも全て海水だろう。
ハオランは男の叫んでいた言葉を呟いた。
「海が来る……」
その言葉の意味するところは不明だ。海は来ない。そこにあるのだから、来るという言葉選びはおかしい。何か別の意味があるのかと考えながら、ハオランもホテルに戻るために博物館を後にした。
博物館に設置されたスピーカーからさざなみの音が流れる。太陽はすでに水平線の下に沈んでいた。
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