50. 裏切り

 その夜――リゼと連絡が取れることはついになかった。


 本来なら、聖堂の業務終了後に必ず報告を受ける決まりだった。

 それは調査の進捗を共有するためであり、同時に彼女の安否を確認する意味もある。

 連絡が途絶えるということは、つまり、リゼの身に何かが起きたということだ。


 セシルとルミナは救出に向けた打ち合わせのため本部から戻らず、屋敷の中はいつになく静まり返っていた。



 翌朝。

 マリアと二人、向かい合って朝食をとる。


 食卓に並ぶのはいつもと変わらないメニュー。

 なのに、味がしない。

 フォークの触れる音だけがやけに耳につく。


 しばらくして、マリアがぽつりと口を開いた。


「ねえ」


 席を立とうとした俺の動きが止まる。


「昨日、何があったの?」

「いや、別に……何も」

「嘘ね」


 その声は静かだった。

 けれど、逃げ場がないほど鋭かった。


 顔を上げると、マリアの瞳が真っすぐこちらを見ている。

 すべてを見透かされているようで息が詰まる。


「昨日から目も合わせようとしないし。それに、いつものあんたなら、とっくに『どうにかしてリゼを助けよう』って動いてるはずよ」

「……ごめん。でも、本当に何でもないんだ」


 言えない。


 昨日のことを話したらもう終わりだ。

 マリアとは二度と笑い合えなくなる。


「ひとつ聞かせて。リゼとは関係のないこと? もしそうなら、これ以上は聞かないから」


 無関係……なわけないよな。

 もしアレンの言っていた“フィオナの協力者”がルーティだったとしたら。

 俺とリゼ、そしてマリアとの関係から、何かに気づいていてもおかしくない。


「……関係、あるかもしれない」


 これ以上、隠すわけにはいかない。

 それに、リゼのことが心配でたまらなかった。

 俺の保身と、リゼの安全。

 そんなもの、天秤になんてかけられない。


 マリアは何も言わず、続きを促すように視線だけを向けてくる。


「……聖堂で知り合った女の子と、遊びに行ってたんだ。ルーティっていうんだけど……」


「ルーティ!?」


 その名を聞いた瞬間、マリアの瞳が大きく揺れた。


「最近浮かれてたの、それのせい? 昨日だけじゃなくて……前からでしょ」


 反論できず、無言でうなずく。

 マリアは深く息を吐き、額に手を当てた。


「はあ……」


 完全に呆れられている。

 言い訳の余地なんてない。


「それで、いい感じになって……でも、俺が断ったんだ。そしたら、彼女が豹変して……。マリアを悲しませるために、俺に近づいたって言ってた。それで……」

「それで?」


 マリアの声が、少し震えていた。


「……聞かされたんだ。マリアが中央を辞めることになった、事件のことを」


 ――時間が、止まった。


 マリアの目は、どこにも焦点が合っていない。

 わずか数秒。

 けれど、その沈黙は永遠にも思えた。


「……信じてた。信じてたのに……」


 ぽつりと落ちた言葉は、床に吸い込まれて消えていった。


「マリア、あの、俺――」

「近寄らないで」


 反射的に出た声は、刃のように鋭く俺の胸を刺した。

 何か言わなきゃ。

 

 ――なのに、声が出ない。


「……大っ嫌い」


 その一言を残して、マリアはリビングを出ていった。

 扉が閉まる音がやけに遠く、冷たく響く。


 追いかけることも、止めることもできなかった。

 足が動かない。

 言葉も出ない。


 胸の奥がじわじわと痛みに変わっていく。

 自分がみじめで、愚かで、どこかへ消えてしまいたい。

 そんな思いだけが頭の中をぐるぐると回っていた。




 気がつくと、俺は聖堂へと足を運んでいた。


 リゼの身に何かがあった。

 そうだとして、俺に何ができる?


 今までだって、俺の行動は全部裏目に出てきた。

 マリアを傷つけ、リゼを危険にさらし……。

 何もしないほうがいいのかもしれない。


 今もセシルたちは本部で対策を練っているはずだ。

 俺なんかよりずっと頭が切れて、経験もある。

 彼女たちに任せておいたほうがいい――理屈では、そうわかってる。


 それでも。

 それでも、友達がピンチなのにじっとなんかしていられるか。


「すみません。ここで働いている“リゼ”って子に用があるんですが」


 受付に声をかける。

 仮に職務に従事できなくなっていたとしても、何らかの説明がされているはずだ。


「リゼ……ですか? ええと、そのような者は在籍しておりませんが……」

「そんな!? 少なくとも昨日までは働いてたはずです。相談係で……俺も相談してもらったことがあります!」


「うーん、そう言われましても。最近入られた方で私が知らないだけかと思い、念のためデータベースも照会しましたが……該当者はおりませんね」


 そんな、馬鹿な。


「じゃあ、“マリア”って子は? 以前ここで働いてたはずです。すごく人気の聖女で……」


「私もここで長く勤めていますが、そのような方は存じませんね。……どなたかとお間違えでは?」


「冗談だろ!? あんな濃い2人を知らないなんてありえない!」


 声が裏返った。受付嬢が少し怯えたように目をそらす。


「どうかしましたか?」


「カリナ様……この方が従業員に用があるとのことなんですが、在籍の確認が取れなくて」


 現れたのは、気品の漂う大人の女性だった。

 立ち居振る舞いだけで、格が違うのがわかる。


「そうですか。申し遅れました、わたくし、ここの第一聖女をしております、カリナと申します」


 やはり第一聖女か。

 丁度いい。

 ここまで来たら彼女に直接聞くしかない。


「ここで働いてたリゼって子を探してるんです! 昨日までいたはずなのに、在籍してないって……」

「リゼさん、ですか。……確かに、在籍しておりませんね」


 マジか。

 いったいどうなってるんだ!?


「ですが――」


 カリナの声音がわずかに低くなる。


「その名前、確かにどこか……引っかかるものがあります。念のため、こちらで詳細を調べておきますね」

「あ、ありがとうございます!」


 胸の奥がかすかにざわめいた。

 やはり何者かが、リゼやマリアにまつわる記録と記憶を消している。

 けれどカリナの反応を見る限り、それは完全ではない。

 まだ“何か”が残っているのかもしれない。


 今はそれに賭けるしかない。

 このことをセシルたちに伝えなければ。


 そう思い、俺は聖堂を後にした。

 

 外に出た瞬間、目の前の光景に息を呑む。

 聖堂の前――そこにいたのは、ルーティ。

 だがその周囲を、数人のガラの悪い男たちが囲んでいる。

 昨日、俺たちに絡んできた男の姿もあった。


「ルーティ!」


 気まずさを押し殺し、声を上げる。

 彼女がこちらを振り向く――その目は、まるで汚いものでも見るようだった。


「リゼと連絡がとれないんだ! 何か知らないか!? それと……マリアを見なかったか!?」


「ルーティちゃん、コイツ知り合いか?」

「昨日いっしょにいたヤツじゃねえか?」


「……知らない」


 短く放たれたその言葉に、頭が真っ白になる。


「知らないって……どっちだ!? 君も、リゼのことを忘れてしまってるのか!?」


 ルーティは鼻で笑い、つまらなそうに髪をかき上げた。


「ウザいわね。ねえ、ネルド。この鬱陶しいハエ、追い払ってくれたら……前に言ってた“付き合う”って話、考えてあげてもいいわ」


「ウッヒョ! マジかよ!」


「なあルーティ、話を――」


 俺の声に、彼女は一瞥すらくれずに背を向けた。

 その仕草が、完全な拒絶だと悟るのに言葉はいらなかった。


「なあ兄ちゃん、諦めの悪い男ってのは、みっともないぜ。ちょっと向こうでお話ししようか」


 ネルドと呼ばれた男に肩を掴まれ、取り巻きに囲まれて路地裏へ連れて行かれた。




「人の女に手出そうとしてんじゃねえぞ!」


 重い拳が頬を襲う。

 鈍い衝撃とともに痛みが広がった。

 男たちに殴られ、頬の感覚がどんどん薄れていく。


 一般人に対する戦闘ギアの使用は禁止されている。

 ギアが使えなければ、ただのチンピラ相手にすら歯が立たない。

 力を得たことで感じていた万能感も、自信も、すっかり剥がれ落ちていた。


「ルーティと楽しそうに手なんか繋ぎやがって……! ぶっ殺してやる!」


 馬乗りにされ、連続する拳。

 顔面に響く音が耳の中でリズムを刻む。


 ああ、自業自得だな……。

 ここで消えてしまったほうが、楽かもしれない。

 そんな思いがふと頭をよぎる。


「何をしてるんです!」


 遠のく意識の淵で、聞き慣れた声が割り込んだ。

 その声を聞いた瞬間、胸の中で何かがほっとほどけた。


 ――セシルの声だ。

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