29.1945年(春和元年)9月 テヘラン①
「これでいいわ」
ほっそりとした白く長い指。
その薬指には銀の指輪がはまっている。
蔦模様の彫金細工に小さな深紅のガーネットが光る。
「ルビーもあるが……?」
明るい栗色の髪に灰青色の瞳、洋の東西が混在した美しい容姿の青年━━マコトが、少し困惑したようにガーネットよりも高価なルビーを指し示した。
高貴なあなたには少し安っぽいのではないか、とでも言うように。
だが、睦子は三白眼気味の大きな目の黒曜石の瞳に、黒揚羽のようにはためく長い睫毛を少し伏せた。
肩までのぬばたまの黒髪を揺らして、首を横に振る。
「色が好みじゃないわ」
「じゃあ、もう少し大きめの石でもいいのではないか?」
「大きいと邪魔じゃない。これぐらいがちょうどいいわ」
偽装結婚のための偽の結婚指輪。
マコトはいくらか、とペルシャ語で店主に聞き、少しばかり値段交渉をして、ポンド札を幾枚か支払う。
銀は魔除け、古代ローマでは十九歳の成人の幸福を願い、銀の指輪が贈られた。
蔦模様は生命力の象徴。
ガーネットは旅人の守護石で一月の誕生石。
━━偽の結婚指輪だが、十九歳で、生き延びることを願う亡命の旅の途中の、一月生まれの彼女にはぴったりの護符だな。
一歩離れたところで、様子を窺っていたダニエル・スペンサーは、半ば呆れるように、そう思った。
━━1945年(春和元年)9月下旬、イラン首都テヘラン。
乾いた空気は澄み渡り、空は青く、アルボルズ山脈の峰々に万年雪が白く輝く。
テヘランの
モザイクタイルの幾何学模様のドーム屋根を天窓から差し込む光が照らし、反射する。
息を呑むほど美しいドーム屋根付きの中庭がある、歴史あるティームチェ。
そこでは貴金属が扱われている。
買い付けの商人や買い物客で大いに賑わっていた。
ドーム屋根の天窓から漏れる光に銀細工の指輪をかざしているのは、東の果ての島国の『帝国』、その国家元首である女帝・睦子。
睦子は、敗戦から五週間後の今、ペルシア縦断鉄道を経由し、テヘランへたどり着いていた。
彼女は敗戦の八月十五日から五日後に、帝国占領下にあった香港から逃亡した。
香港出身で商人を騙る帝国陸軍特務機関の混血の諜報員、英国と二重国籍のマシュー・ケイレブ・エヴァンス━━帝国国籍名、
皇女時代の称号、
ダニエルは亡命女帝の英国側の監視役だった。
エリザベスこと、リズ━━本名リズベス・ターナーとともに派遣された。
二人とも英国秘密情報部MI6の
一応、スマトラ島で戦時抑留されていた英国の外交官夫妻という
「エヴァンスさん、指輪代は何で自分の財布から出しはったんや?」
クイーンズイングリッシュではあるものの、アクセントが独特な英語を話すのは、
東洋人にしても細すぎる目の彼は、中華民国
イラン、トルコの大使館で書記官を務めた経歴を持ち、今は女帝の外交顧問、イラン南部アフワーズからの水先案内人でもあった。
「お手元金、預かってますやろ?」
綾小路は口調こそ柔らかいが、明らかにマコトを咎めている。
「今、手元金は高額紙幣しかなくて……こういった市場では受け取ってもらいにくいので」
ため息混じりのマコトの発言は八割は本当だろうが、二割ぐらいは『何らかの私情』が絡んでいる。
睦子は、マコトが代金を支払った左手薬指の指輪を眺めて、微笑を浮かべている。
彼女は、おそらく、帝でない今の時間━━限りある『少女のモラトリアム』を満喫している。
もっと直截な表現をすれば、『火遊びの恋』と呼ぶものを楽しんでいる。
━━そして、一方。
恋愛感情、もっといえば性愛が自身の感情として『理解できない』ダニエルは、女
それ以上に、護衛対象とどうにかなるなど、そもそもあり得ない、と思っている。
だが、マコトは諜報員でありながら、睦子に惑わされている。
━━諜報員にあるまじき失態。
睦子とマコト、両者の有り様は、ダニエルの理解をちょっと超えている。
エリザベス曰くは『男女の関係にはなっていない』ようだが。
それも、もう『一歩手前』で踏みとどまってるに過ぎないように見える。
でも。
━━アフワーズの宿の中庭での夜の抱擁。
垣間見た月下での二人の抱擁は、一流の役者が舞台で演じているように、美しかった。
美しくて、少しばかり、作り物めいていた。
あれは、『観客』への意識が少なからずあった。
これは、演劇学校で学んだダニエルの勘に過ぎないが━━。
ダニエルは二人の関係が、どこまでが本当で、どこからが偽物か、よくわからない。
火遊びで済むのかも、よくわからない。
でも、よくわからないことは考えるのはやめよう━━そう、ダニエルは思っている。
わからないことは報告することが出来ない。
報告書に記せないので考えるだけ無駄、だとも思っている。
「後でお手元金から精算しなはれや、必ず。帳簿見せてもらうさかいに」
だが、臣下の綾小路は、同じようには思えないだろう。
極東の島国の女帝は、男系で継承される皇統の混乱を避けるため、生涯独身、という定めがあるらしい。
それもあって、偽装夫婦という嘘を盾に、公然と恋人同士のように振る舞う睦子とマコトに対して、思うところがあるというか、心中穏やかには決して見られないというか。
「後、服も買わないと。テヘランは標高が高い。随分涼しいから、ハルが風邪を引いてはいけない。あと、必要な小物も買わなくては」
だが、マコトは綾小路には取り合わず、話をそらした。
「服は仕立て屋に採寸表を先に送ってますさかいに、試着して微調整で済みます」
それに、下手なものをお上に着せるなと言わんばかりに、綾小路は棘々しく返した。
マコトは「そうでしたか」と薄い笑みを浮かべ受け流す。
その後、マコトは、綾小路が手配したりその場で選んだ服や小物の代金、それは細々としたものまで、手元金の財布から出した。
逆に睦子が指で刺繍をなぞり、
「これ、素敵ね」
と選んだ紺地に控えめな銀糸の刺繍のスカーフや
「あら、いい香り」
と言ったダマスクローズの香油などは、自分の財布から出すので、何というか━━。
強い風が、市場の路地を吹き抜ける。
エリザベスが風で乱れた亜麻色の髪に小花柄のスカーフを巻き直しながらボソっと言った。
「わざとか。いい根性してるじゃん」
その使い分けは、おそらく━━今日、彼女が選んだものだけは、女帝のためのものではなく、彼女個人の持ち物にするため。
初めて市場での買い物を楽しんだ彼女の思い出のため。
「まったくだな」
ダニエルも同意し、綾小路を横目に見た。
綾小路は整髪料をつけても、すぐに崩れてしまう直毛の髪を、うっとおしそうに中折れ帽に仕舞い直しながら、大きく息を吐いた。
「後は写真館ですな。お上の英国配偶者パスポート用の写真と『結婚写真』……」
綾小路が眉間の皺を人差し指で伸ばしながら言う『結婚写真』とは、もちろん、偽装結婚を怪しまれないためのものである。
ちなみに、『お上』、とは帝を指す言葉だ。
彼は決して睦子を『ハル』とは呼ぼうとしない。
その呼び方には、あくまでも儀礼に従っていたい、という信条が滲み出ていた。
白いレースのベール。
白いレース襟の細身のツーピーススーツ。
小さなガーネットの銀の指輪。
女帝の地位にはそぐわぬ、質素な婚礼衣装で。
この日、零れるような笑みを浮かべた
この日、隣に『夫』として立った、
写真とともに、生涯、残り続けるだろう。
予感めいた、確信を、ダニエルは覚えた。
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