第34話

 雲長は曹にくだった。

 許帰還後、文遠は大層褒められたそうである。人材収集癖が膏肓の病に達している曹公からしたら、雲長は垂涎だっただろうな、と子賁は思った。

 一つの邸を曹公が一行に与え、劉氏一家と雲長はそこで生活しているという。彼らにとっては命の保証はあれども敵地である。子賁は楊氏にも依頼し、何くれと無く付け届けをするように依頼した。

 文遠や自分からというと気を遣うだろうと考えたのだ。だとしたら一商人から一武人への敬意という形にする方が気が楽だろう。

「関将軍が校尉にお会いしたいとおっしゃっておられました」

 一日仕事が早く終わったので楊家に顔を出すと、芍から言伝をもらった。

「俺に?」

「はい。いつも気を使っていただいているから、御礼したいと」

「俺からじゃない、楊氏からだよ」

「『楊氏に話してくださったのだろう。おかげで夫人方も不自由なく暮らせている。御礼には到底ならないが粗茶でも差し上げたい』と」

 少々困ったように芍がいう。自分たちのことを伏せてくれ、という話は楊異から芍も聞いているだろうから、どう回答したらよいか困ったのだろう。

 とはいえそういうなら芍の顔は立てるべきである。顔を出したほうがよいだろう。

 文遠はまだ仕事が終わっていない。軽く挨拶だけして帰ってくるか、という気分になった子賁は沈香の箱を一つ選んで化粧道具一式を収め、春秋穀梁伝の初巻を一緒に布に包み、ぶらりと劉氏の邸に向かった。

 楊家に来るときは蟾に乗ってきたが、劉氏邸は楊家からそこまで遠くない。手綱を引いてのんびり歩いていく。

「蟾、あとで果物をやる。もう少し付き合ってくれ」

 そういうと蟾は首を大きく縦に振ったあとで鼻づらを子賁に寄せてきた。なででやると目を瞑る。人の会話が分かるように蟾は反応する。非常に賢い馬だった。

 やがて劉氏邸が見える。と「白校尉」と声を掛けられた。

 門の近くにある番小屋の中が黒い。

 そう思ったところそこから雲長が出てきた。大柄ゆえに番小屋一杯になってしまい、黒く見えたらしい。

「お呼びになりましたか」

「すまぬ。御礼をしたかったのだが、呼び立ててしまうことになった」

「何、毎日竹簡に埋もれていると嫌になります。たまには気分転換も必要です」

 そういうと、雲長は邸内の一室に案内した。差し向って円座に座る。

「つまらないものですが、奥方様に」

 そういって沈香の箱を差し出す。それを受け取りながら雲長が丁寧に礼を述べた。

「あとこちらは将軍に。左伝癖の将軍には物足りぬかもしれませんが、暇つぶしにはなりましょう」

「穀梁伝…なるほど興味深い。お心遣い、感謝いたす」

 深く礼を言い、雲長は竹簡を納めた。

「いつも楊氏という商人から差し入れがある。文遠と貴方のご友人と伺った」

「楊氏は侠の人です。関将軍のお人柄を好いているのだと思います」

 暗に自分は何もしていないと返すと、雲長はじっと子賁を見返した。

「白校尉はどちらの出でらっしゃるのか」

「亀茲になります。もっとももう故郷を出て十七年になりますが」

「大変失礼ながら髪色も目の色もなかなか見ないので、気になっておりました」

「母も祖母も康国の出身で、祖先は希臘の人間です。確かにこちらでは珍しいでしょう」

 康国―サマルカンドは紀元前四世紀にアレキサンドロス三世が東方遠征で到達した最終地点である。五百年経過しても一部の希臘系の末裔は比較的にその外見を残している。また、西からの隊商が来てしばしば定住することもあり、子賁のような外貌の者は決して珍しいものではない。

 「文遠が来たとき、隙なくこちらをみていらしたな。かなりの使い手と拝察し、いつかお話ししたいと思っておった」

「はは、大したものではございません。剣は文遠に習ったものです。あの強さには到底追いつかない」

 そういうと、主を字で呼び捨てにした子賁におや、という顔になった。

「白校尉、文遠とどのような関係でいらっしゃるのか。ただの麾下とも思えんが」

 それにちょっと子賁は考え込んだ。

 文遠からすると子賁は家族であり、校尉である。

 ただ家族の部分を説明する時にはいつも何かしらのややこしさのついて回る関係でもあるので、子賁はあまり触れないようにしていた。

 本人たちも親子か兄弟か、師弟なのか判然としていない。

 結果的に無難な回答になった。

「部下という回答しか出せません」

「そうかな。失礼ながらあの見送りの際、あなたに手を掛けた兵に向けた文遠の殺気はただならぬものだったが。剣があったら抜いておっただろう」

「…」

 気づいてはいたけど。

 馬鹿め、感情駄々洩れかよ。

 思わず内心で文遠をののしる。

 そんな内心をおくびにも出さず、子賁は微笑んだ。

「関将軍の結ばれた義兄弟の誓いは有名です。その前でこういうのもお恥ずかしい話ですが、義弟として遇してもらっております」

「なるほどそれならばわかる…」

 いいつつまだ得心していない、と子賁は見た。

 と、邸の外から馬の蹄の音がする。

 盈の足音だとすぐに子賁は気が付いた。楊家に行くことは官舎に書置きをしておいたので、楊家によった後にこちらに来たのだろう。

「迎えが来たようです」

 というと、「ちょうどよい。上がってもらおう」と中座した雲長はすぐに文遠を連れてきた。

 置いていかれたと思ったのか、機嫌が悪い。

 うへぁ、と子賁はげんなりした気分になった。

「文遠、校尉を借りた」

 更に機嫌の悪くなった文遠に、頼む髭殿やめてくれ、と子賁は思った。

 子賁の隣の丸座に座り、重く文遠が礼をする。

「子賁が迷惑をかけた」

「何を言う、礼を言いたいと呼び寄せたのは俺だ」

 雲長が言うのをじっと文遠が見返す。

 子賁からすると完全に針の筵だ。

 雲長はそこでふと何を思ったのか、面白そうなものを見る眼の色になり、並んだ二人を眺めだす。

 やがて口を開いた。

「文遠、白校尉―子賁はわが子のようなものかな」

 ズバリと言われ、思わず子賁が息をのむ。

「…そうだ。俺が育てた」

 唸るように回答する文遠に雲長が膝を叩いた。

「なるほど兄弟であり親子、そして師弟か。それで納得した」

 呵々と笑う雲長に、子賁は肩の力を抜いた。

「文遠、もう少し気を楽にせよ。子賁も孝行が大変になるばかりだ」

 笑いながら雲長が言うのに、文遠も肩を落とす。

「どうして分かった」

 文遠が聞くのに、雲長が答える。

「義兄弟と言われれば我らも兄弟、理解は届く。あの時に俺が文遠を害そうとしたら子賁が盾になっていたであろう。それは我らも同じことだ。が、子賁に手を掛けられた時の文遠の態度に我らの関係とはまた違う深さを感じた。…兄弟でない深さとしたらあとは親子ぐらいしか考えつかん」

 そう言われ、この人にごまかしは効かないな、と子賁は感じた。

「さすがの御慧眼。…文遠には十歳から十七歳まで育てられました。おっしゃる通りです」

 子賁が穏やかにそういうと雲長は目じりを下げた。

「わが手で育てた子に汚らわしい目を向けられれば、激怒するのも無理はない。ましてその子が今自分を支える人間ということはわが身に等しい存在ということだ。…子賁に手をあげさせなかったのは正しかったな。何かあれば今頃我らはこの世にいなかっただろう」

 子賁に何かあれば文遠はあの場で剣を奪って斬り死にの覚悟をしただろう。使者として辱めを受けたまま復命すれば、それはすなわち曹公への侮辱そのものになるからだ。まして文遠の子賁に対しての情はそのまま怒りの炎をいや増したに違いない。

 文遠が斬り死にすれば降伏どころの話ではなくなり、曹公も自分の面子にかけて雲長も劉一家も攻め滅ぼさねばならなくなっていた可能性が高い。

「それを決してさせぬほど正道を問い続ける貴方だからこそ、直接降伏を勧めたのだ」

 と文遠がぽつりと言った。

 その言葉に子賁は関雲長という人間を再認識した。

 文遠がふと遠い目で窓から庭を眺めながら口を開いた。

「太原にいたころに狼の親子を見たことがある。傷ついた子狼を舐めて癒そうとした母親が、あきらめたと思ったとたん涙を浮かべて子を殺し、喰い始めた」

 内容の悲惨さにもかかわらず静かな声音に、雲長と子賁は文遠を見る。

「…むごいとその時は思ったものだが、今ならわかる。あの時子賁を救えないと判断したら、この手で刺し殺していただろう」

 その独白に、子賁は驚きもせず静かな目で文遠を見た。

 文遠であれば一撃で命を奪ってくれるであろうという目だった。

 文遠と子賁を見た後、瞠目したまま雲長は唸った。


 なるほど、言葉にしがたい関係性か。

 雲長は内心、どうして初めに子賁が困ったような顔をしたのか、文遠と子賁を並べてみてようやく納得していた。

 しかしなんと恐ろしい関係性だろうか。

 子賁は非常に冷静な性格である。心胆が座っている。

 下邳で兵の暴力にさらされかけても子賁は全く動じることがなかった。使者という立場と役目を理解したうえで抵抗しないことにしたのだろう。剣を抜く判断をするのはあくまで正使の文遠である。あのまま雲長が止めなければ、そして文遠が反抗しなければ、恐らく子賁は自分の身に加えられる穢行も甘んじて受け入れていただろう。

 降伏を勧める使者である以上、それは子賁も覚悟していたはずだ。

 文遠も武一辺倒の将ではない。一皮むいたときの気性は炎のように激しいが、普段は理知的な言動を見せる男だ。

 が、子賁に手を掛けられた時の殺気はすさまじい物だった。目が一瞬で理性を失い、同時に子賁に手を掛けた兵の腰の剣に向いていた。それに気づいてとっさに雲長が殴り飛ばしたのである。

 恐ろしい、と思ったのは文遠の言葉に嘘がないと雲長が感じていることだ。

 あの時、文遠の近くにはほかにも兵がいた。そこから剣を奪うことは可能だったが、文遠はあえて自分から少し離れた場所にいる兵の腰に目をやっていた。

 あえて子賁の近くにいる兵の剣に目を向けた理由。それはそこにたどり着く三歩で子賁を助けられるかどうかを判断するつもりだったのだろう。

 助けられない、と判断したときに子賁を刺し殺しやすいように、あえて子賁の近くの兵から剣を奪うつもりだったのだと雲長は初めて気づいた。

 しかもである。

 子賁はその時はっきりと文遠を見ていた。実に静かな、澄んだ緑色の目が文遠の目と合うのを雲長は見ていたのである。

 狂気ともいえる理性を失った文遠の目に対して、子賁の目にはまったく恐怖も驚きもなかった。

 そしてかすかに微笑み目を閉じたのである。

 その目には信頼があった。殺すにしてもお前なら自分を一撃で苦しませず殺してくれるだろう、という信頼である。

 子賁は文遠の激情を受け入れ許す覚悟がある。雲長の目には子賁が慟哭する文遠の刃を優しくわが身で抱きとめる様まで浮かぶようだった。当然そのあとに文遠は斬り死にするつもりだったであろう。

 喉が渇く。

 劉備は自分を置いて逃げた。それでいいと雲長も思っている。

 が、劉備にわが手にかけることを乞われたとしてそれを雲長ができるかといえば、とうていできる話ではない。

 どうして文遠が強くなったと感じたのか、この場で雲長は初めてはっきりと分かった。下邳城内でも今でも文遠は自分を剣士の目で見ている。前はこのような場で隙のない目をする男ではなかった。

 文遠は騎兵のため騎乗と弓の名手として知られているが、実は剣士としても相当の実力者である。呂奉先の元にいるときの文遠と何度か手合わせをしたことがあるが、あの時点で華北で五指に入る腕だと雲長は見ていた。

 とはいえ、昔であれば雲長と並んでいたかもしれない。

 文遠があこがれていた呂奉先がまだ存命だったということもあったろうが、もう少し強くなれると感じる一方で、その最後の壁を崩せていない、というもどかしい印象を雲長は常に持っていた。

 が、今の文遠は間違いなく華北第一の剣士であろう。

 護るものがあるものは強い、という言葉をあらためて雲長はかみしめた。文遠はあこがれた相手を失い、護るものができた瞬間に比類ない強さを手に入れたのだ。

 同時に文遠の態度が示すことはなんと激烈な傲慢さだ、とも雲長は感じていた。

 この世で子賁を手にかけてよいのは自分だけ、という態度である。

 これは、もはや清冽な狂気ともいえるものではないか。

 二人が帰宅した後の二つ並んだ円座をみながら、一人雲長はつぶやいた。

「兄弟の情は理解していたが…かほどに清らかな業愛がこの世にある物か。肝に銘じねばならん」




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