第26話
並んで座ったまま、しばらく盃を傾けていると、ふと文遠が口を開いた。
「隊に必要な物資が届いたと聞いた。…苦労を掛ける」
武器や甲、鎧や荷車、弓など必要な物は楊家を通して求め、すでに納品は済んでいる。練兵しように矛も戈もまともなものがないのは論外だろう。
「何、楊家に預けた俺の財は楊氏が投資や商売で増やしてくれている。苦労してくれているのは彼さ」
当然利益のいくばくかは手数料として楊氏に還元している。が、それさえも「わたくしから将軍に」といって楊異は惜しげもなく再度投資して増やし、手を付けていない。
曹公はもちろんですが…張将軍は歴史に名を残す方と楊異は信じております、と言って全面的に後援してくれている。文遠が直接利を生むわけではないだろうと一度言ったことがあるが、その子賁の疑問に楊異の答えは痛快な物だった。
中原の安全を張将軍が守ってくださり、商売人が自在に往来し商売できること。それが楊異にとっては何よりの利益であり、真の商人としての誇りです。
きっぱりとそういうのであれば間違いないだろうと子賁は思っていた。
そのように人を立て、まったく自分を誇らずさらりと言った子賁を文遠は慈しむ目で見ながら酒杯をあおった。
空になった盃に注ぎ直していた時、そういえば、と子賁は思いだしたことがあった。
「そうだ。馬も楊家に頼んで集めてもらっているが…さすがに馬の目利きは頼みたいんだけど」
その言葉に文遠が瞠目する。
「…もうそこまで手を回したのか」
「騎兵が馬なしじゃカッコつかんだろ。俺でもできんわけじゃないと思うけど、相馬はしばらくやってないからね」
馬の目利きが非常に難しいのは文遠から散々習っていることだ。単に馬格を見るだけではない。その馬の性格・性質、育てるとして何年働けそうか、どのような癖があるか。
調教の時間がどれぐらい必要かというのも馬によって異なる。どの時点で使用できるようになるかを見極め、どの戦でどの馬がどれぐらいの機動力で使えるようになるか。相手が生き物である以上前もって準備するに越したことはないのだ。
文遠は根っからの騎兵であり馬好きである。顔に喜色が広がった。
「わかった。もう集まっているのか」
「少し郊外の楊氏の牧場に集められているそうだ」
「案内してくれ。いつ行ける」
「明日は調練後文若殿の仕事を片付けて宮中に届けるから、明後日だな」
それにうなずき、上機嫌で文遠が盃を空けた。
…酒の席で言うべきじゃなかったか。飲むのはやくないか。
空になった盃に酒を注ぎながら、子賁は密かに昼間に話すべきだったかと後悔した。
…頼むから過ごしてくれるなよ。
翌日。
願いもむなしく結局酔っ払いの巨漢を牀に押し込むまで面倒見る羽目になった子賁はなかなかの寝不足のまま調練を終え、翻訳作業に入っていた。
文遠は早々に役目の為、将軍府に上がっていた。
調練の後の片づけを終え、帰宅するとなんと貌利が文遠邸の前にいた。戸口を見れば陰からこわごわと安衛が様子をうかがっている。
「取って食うつもりはないんだがな」
「でかい男は誰だって怖く見えるもんだ。入れよ」
そう言って中に案内する。
「衛、水を一杯汲んできてくれないか。俺の客だ」
そういうと安衛はすぐに井戸に走っていき、よく冷えた水を貌利に差し出した。
「ありがたい」
謝辞を述べると安衛は目を丸くした。すでに貌利は漢語を問題なく話せるようになっている。外見から想像できない流ちょうなそれに驚いたのだろう。
「一旦許に帰ってきたのでこちらに来た」
「どこまで行った」
「そこまで遠くない。遼西までだ」
「ほう、行商の見送りか」
「ああ、行商はそのまま遼東から南下して海を渡るそうだ」
「海」
「その向こうには倭という国があるらしい」
「面白い話だ…が、さしあたっては遼西の話が気になる。あたりのはなしをしてくれるか」
それにうなずき、貌利が水で口を湿らせると話し出す。
「ちょうどあの辺りは公孫氏という一族がいるそうだ。その一族が袁一族を後援しているらしい」
「ほう。俺が聞く限りではお互いににらみ合う程度と聞いているが」
「さすがに河北相手に抵抗する気はないらしいが、だからといって恭順する気もないという感じか」
「なるほどな。つかず離れずという感じか。丹香は」
「丹香は楊家の手伝いをしている」
きたなら手伝え、と大量の竹簡の書き損じを指し、削り直すようにいうと貌利は庭への降り口に腰を下ろして小刀で削り始めた。
一通り話し終えると、肩と背中の痛みがぶり返してきた。うつむいて書き物をしていると痛みが増してくる。
段々眉間にしわが寄ってくるのを自覚した。
貌利はしばらく無言で作業をしていた。子賁の機嫌が悪いのに気づいたらしい。恐れをなされているのは承知している。
が、子賁の書きこんでいる竹簡の余白が短くなるにつれ多少は機嫌が上向いたのを察知したのだろう。
「…お疲れさんだったのか」
貌利に言われ、げんなりしたように子賁がため息をついた。
びしゃりと硯に叩きつけるように筆を浸す。
「あの馬鹿酔っぱらった挙句人を下敷きにして寝こけやがったんだぞ。酒臭いったらありゃしない」
基本的に子賁は睡眠不足が体調不良と不機嫌に直結する人間である。体質なのだろう。その不機嫌ぶりを見て「相当だな」といいながら勝手を知る貌利もため息をついた。察してくれた模様である。
酒臭いもさることながら、おかしな体制で眠ることになったせいで身体のあちこちが痛む。
「これじゃ明日馬に乗るどころじゃない。竹簡届けるついでに恭和先生に針打ってもらおうか…」
書き終えた竹簡を乾かしながら、子賁がぐるぐると肩を回す。すると馬の世話を終えたのだろう、宋明が茶を入れて持ってきた。貌利に会釈をして茶を配る。
子賁の傍らに茶碗を置きながら、少しだけ気の毒そうな笑顔を向けられた。
「いつもあの感じだったんですか」
アレ、と子賁に問われ、苦笑いをしながら宋明は首を横に振った。
宋明には肴の追加を持ってきたときに相当酔って子賁にウザ絡みをしていた文遠を目撃されている。
「…あれだけ過ごされた主は久しぶりでした」
「よかった。あんな酔態あちこちでさらされたらたまらんでしょう」
ひらひらと竹簡の墨跡を手で扇ぎながら子賁が答える。
それに宋明が微笑んだ。
「主が酒を過ごされるのは家でのみです。しかもあれだけ楽しそうな主も本当に久しぶりで」
良かったと言わんばかりの宋明に、子賁は口をつぐんだ。宋明も文遠を心配していた人間である。
「白氏がいらして明るくなりました。この明るさを逃したくないと主も必死なのでしょう」
丁建陽の前で引き取られた時、目を輝かせて自分を抱き上げた文遠を思い出す。
あの時と何も変わらない目を文遠は子賁に向けている。
宋明は穏やかな顔を子賁に向けた。
「白氏、生きてくだされ。決して主より先に死んでくださいますな」
その言葉に子賁も静かな目を宋明に向ける。
「…主はもう十分に傷つかれました。奥方を亡くされ、主君を亡くし。太原から付き従った我らのごとき麾下ももうほとんど残っておりませぬ」
「…戦乱の世の習いとはいえ、な」
「わかっております。でも…まるで干天の下の大樹が豪雨の中で生き返ったように感じたのです」
この家に子賁を抱えて文遠が帰宅したとき。
確かに緊迫した顔をしていたが、その表情がまるで息を吹き返したようだったと。
「この世の習いなら、俺もいつ死ぬかわかりませんよ」
静かなその言葉に、宋明ははっきりと答えた。
その言葉に子賁は息をのむ。
「その時は、今度こそ本当に主の武が死ぬ時です」
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