第25話


 文遠が官舎の自室に戻ると、すでに子賁はそこにいて書を読んでいた。

「帰るぞ」

 それに子賁は腰を上げて、一緒に歩きだす。

「忙しそうだな」

「まぁね。人との交流も損にはならないし、面白いし」

 子賁のやっていることの半分は人の話を聞いたり相談に乗っているだけだったりするわけだが、結果的に「子賁は使える」という評価につながっている。それが後々のやりやすさになるのであればそれもいいさ、というのが子賁の考えであり、文遠もそれが分かっていた。

 文遠が手を上げる。右手にはちゃぽん、と音がする甕がぶら下げられていた。

「酒?」

「殿にもらった。還ったら飲もう」

 下賜品の酒ならうまかろう、と思ったのか子賁の機嫌がよくなり、歌を口ずさむ。

 異国の言葉のそれは文遠には分からなかったが、意外にも子賁の歌のうまさに微かに目を見開く。

「上手いな」

「歌が?」

「ああ」

「まぁ本格的に習ったわけじゃないけどね。亀茲は歌舞と医術の国だからな」

 そういわれ、文遠は納得した。胡人好きの董仲穎のもとには西域の流れ者の芸者がくることがあった。その中に亀茲人も時折見ることができたのである。

 彼らの歌舞は異邦の物で珍しく、また非常に美しいことで有名だったのだ。

 そして思い出す。

 一度彼らの中に金髪の舞人がおり、酒宴の折見事な舞を舞ったことがあった。

 彼女の舞を見て、子賁を思い出した文遠だったが、舞い終わった彼女はそのまま仲穎に半ば無理やりに召された。

 更衣の室から仲穎の宥める声と少女の泣き叫ぶ声を聴きながらの酒宴は、異様だったとしか言いようがない。

 仲穎は男女問わず、珍しい外見の歌い手や舞人を愛し寝所に召す癖があったのだ。

 まだ子供と言ってもよい年齢の舞人が数日後庭の池に浮かんだのを発見した文遠は、暗い胸の内で子賁を手放した自分の判断が正しかったと思わざるを得なかった。

 蕝も、仲穎の手が付いた女であった。

 一度だけの逢瀬で飽きられ、傷ついた蕝を見かねた呂布の側室に紹介されたのである。

 その思い出を、ふっと文遠は吐息のような笑いで飛ばす。

 隣で歩く子賁の輝く金髪も、美しい魂も、もはや誰にも奪うことはできない。

 仲穎は死んだ。

 今ここにいるのは自分と子賁である。

 歌もうまい子賁が歌舞をする場面は想像しただけで見たくなる。

「よく見聞きしていたのか」

「城の中でね。よく侍女も歌ってくれたし、踊ってたよ」

 その回答にあらためて、子賁が王子であったことを認識する。

「歌詞はどんな意味なんだ」

「ああ、…ええとね」

 ちょっと考えた後に、子賁は訳を今度は詩のように口ずさむ。


 肌を刺す風  冬には青雪

 涙も凍らす  天の雪山

 頂に住まうは 冷たい貴女

 摘んだ青芥子 凍らす一笑

 いくら恋せど 近づけぬ


「亀茲の歌か」

「いや、これは行商人が教えてくれた唄だよ。大宛のほうから来た商人だったね」

 子賁が歌を歌うのも幼いころの話をするのも珍しい。思い返せば、太原にいたころに子賁は亀茲の話をほとんどしなかった。賢い子供だった子賁は、故郷を恋しがると文遠に気を使わせると思っていたのかもしれない、とふと思い当たる。

 文遠は急にもっと子賁から様々な話を聞きたくなった。

 大人になった今だからこそ、子賁は話してくれることも多かろう。

「大宛には山があるのか」

「少し外れたところに天を支えるような高い山がたくさんあるんだって」

 そして子賁が自身の剣を見て、そっと手を掛けた。

「こいつはその山の女神から曾祖父がもらったもの、って触れ込みだけど本当なのかね。嘘か本当かわからんけど、その山には緑松石の肌を持つ女神が住んでいる。その女神の宝剣だってね」

 確かに朝游の鞘には細かく緑松石が埋め込まれている。子賁が幼いころから文遠も当たり前のように目にしていた剣であるが、そんないわれだったと聞いたのは初めてだ。

 山に住まう青い女神の剣。

「冷たい女の剣か」

「山の神様にとんでもねぇ語弊のある言い方だな」

 文遠の感想に半目で子賁が言う。そして続けた。

「同じ旋律で、続きがあってね…こういう歌詞なんだ」


 風が微笑み  温み雪解け

 青芥子飾るよ 天の雪山

 麓に降りるは 優しい貴女

 花さえ摘まず 笑うて愛でる

 いくら愛せど まだ足りぬ


「春になったら雪が解ける。水を恵むのもまた山っていう話。女も冷たいばかりじゃないってこと」

「いい歌だ…舞も舞えるのか」

 王族は舞を見て楽しむ側で自分が舞う側ではないが、子賁ならできるかもしれない、と思い文遠が聞くと、少し子賁は唸って考えた。

「まぁさんざん見てきたし、素養として習ったからできないわけじゃない、程度かな?」

「そうか。では今度舞を舞ってくれるか」

 無骨な文遠らしからぬ求めに、子賁が驚いたように文遠を見た。

 そして半目になる。

「…靡靡之楽を演らせた挙句北里之舞も舞わせるつもりかよ、暴君め」

 べっと舌を出す。

 今度は俺が董仲穎か。

 そう思った文遠だったが、古の暴君・紂王になぞらえた毒舌を吐いた子賁に文遠は懐手になりしれっと返した。

「比干に舞わせれば北里之舞も淫らと言われず、紂王も暴君とは言われなかったろうな」

 それに子賁が渋い顔になった。

「それをやったら比干も忠臣と言われなかった」

「少なくとも俺はお前が舞わなくても胸を割いたりせんが」

「やめろ物騒すぎる」

 引いた顔で見上げてくる子賁に、文遠が哄笑した。

 しばらく黙った子賁だが、たがてぽつりと口を開く。

「御夫人の布で衣装を作ってくれたら、考える」

 そういう子賁に、文遠はふっと吐息だけで笑った。

 憎まれ口をたたきつつ、こいつも大概俺に甘い。

 そんな話をしているうちに、家につく。

 子賁が席につくと盃を突き付けるように渡してくる。そして子賁は文遠と自分の盃に酒を注いだ。

 肴は干した魚である。

 子賁は干し魚の硬さと苦戦している。子賁の好物であるが、実は食べるのがうまくない。やや小さめの口の子賁は子供のころから嚙む力があまり強くなかったせいである。今になっても変わらないようで、四苦八苦しながら歯を立て直していた。

 そのしぐさに子供のころを思い出し、文遠は几越しに腕を伸ばし、そっと子賁の頭をなでる。

 大きな手が撫でるその感触に、子賁は目を閉じ、されるがままに頭を預ける。

「もう一曲」

「ん?」

「何か歌ってもらえるか」

「?」

「なんでもいい…西方の歌を。気に入った」

 そう言われ、子賁は首を傾げた。

 文遠が舞楽に親しんだ姿を子賁は知らない。それゆえにこの変化は何だろうといぶかしんだのだろう。

 拒否されるか、と思ったが子賁は何かを感じ取ったらしい。

 魚を持った手を口から離して少し考えこみだした。亀茲を離れて十七年である。幼いころの記憶をたどっている気配だった。

 そしておもむろに唇を開いた。

 先程の歌は童謡のようだったが、今度の歌は全く違う。

 ゆったりとした、どこか物悲しさを感じる旋律の歌だ。

 文遠は子賁の顔をじっと見つめている。

 その歌は、西域の風はこのような音を立てるのだろうか、と思わせるような不思議さを感じさせる

 やがて、ふと子賁の唇が開いたまま声にならない息を吐き、止まった。

 唄は途中のようであったが、子賁はそのまま続けようとしなかった。

 しばらく静寂が場を包む。

 ようやく口を閉じた子賁に、「意味は?」と穏やかに文遠が問うた。

 それに子賁が静かに口を開く。 


 風の如き優しい貴方 

 星の下で誓った貴方

 砕け砂礫となりし天山

 流れ砂河になりし星霜

 共に歩み嘘偽りもなく

 互いを支え強く生きんと 

 なのに酷き我らが運命

 誓いを引き裂き隔て万里

 優しい貴方を忘れ生きよと

 神が我に囁く億夜…

 

 そこまで詠んだ時に、子賁の唇が再びかすかに開いたまま音もなく震えた。

 俯き表情の見えなくなった子賁に文遠が嘆息し、几を押しやると子賁を腕に収めた。

「…忘れられんのは、俺だけではなかったな」

 その一言に、子賁も口元を緩めた。そっと文遠の腕を撫でる。

「忘れられない。忘れるわけがない…この腕に抱きとられ、この腕に育てられたんだ。いくつも海を越えて、砂漠を横切って…でも、亀茲でも、太原でもなく。…恋しいのは、ここだった」

 深く呼吸をし、子賁が呟く。

「やっと、還ってこれた」

 その言葉に、感情をこめて文遠は子賁を抱きしめる。

 もう、決して離せない。 

 文遠は肩を揺らして息だけで笑う。

「お互い軟弱になったかな」

「かもね。こんな軟弱さも悪くない、って思うけど」

「違いない」


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