第9話
一通り話した後に、ふと部屋の片隅に控えている文官に気づく。
恐らく話し込んでいるうちに入室し、控えていたのだろう。
その文官のほうを向き、曹公が声をかけた。
「嘉よ、想像していた通りだった。文の話は尽きないぞ」
「はい。わたくしも傍らで聞かせていただきました。面白いものですな」
文官は年のころ30前半であろうか。鼻梁から目に向けて智慧が刷かれるかのような透明感のある男だ。首が長い、というより肩が落ちて線が細く見える。肺に病があるかもしれない、となんとなく子賁は思った。
その文官は子賁に軽く会釈した。冠を止める簪には小さな金の鈴がいくつもあしらわれており、会釈に合わせて涼やかな音を立てた。
ちらりと見えている袿はどうやら女もののようだ。
嘉と呼ばれた男は、子賁を見て笑いながら言った。
「本日あなたがいらっしゃるかなり前から、殿は大変愉しみにされていてまだか、まだかとおっしゃっておられたのですよ」
「これ嘉よ、余計なことを言うな」
恥ずかしそうに曹公が言うのに、子賁も思わずつられて笑みを浮かべた。
「嘉、部屋を一室準備したな。文は本日ここに泊まる。また明日話を聞くことにするぞ」
曹公の言葉に態度を改め拝礼する嘉と呼ばれた文官を見て、しまったと子賁は臍をかんだ。やんわり釘を刺して退出しそこなった。
曹公の意志はわかっている。自分の思うようにせよというだろう。が、その才知は計り知れない。約束を破らず何をしてくれるか想像もつかない。
主が退出した後に、嘉という文官に案内され回廊を歩く。
庭の茂みに気配を感じる。恐らく丹香だろう。
この遅くまで張り付きか。お前も大概頑固だな。
横目でちらりと庭を見た後で、ちりちりと音をたてながら前を歩く文官に目を戻す。
「あの」
どう読んだらいいのか迷うとそれを察したらしい文官は、ゆっくりと立ち止まり向き直って拝礼した。
「失礼いたしました。申し遅れてしまいました。私は軍祭酒の郭奉孝と申します」
「郭祭酒ですか。お手数おかけいたします」
話ながら軍祭酒という肩書が気になった。この細さで従軍するのもさぞつらかろう。同時にその知的な雰囲気に納得する。
しかし曹公もなにも軍師の立場にあたる人に案内させることもあるまいに、と型破りな性格を改めて認識し子賁は少々呆れた。
もっとも型破りといえば奉孝の装いもそうである。鈴のついた簪はどちらかといえば女物のように見える。格式ばった場所で使えるものではない。
主従そろって脱線気味なのかもしれなかった。
「ではこちらで。明日また呼ばれましたら殿のお話し相手をお願いいたします」
そういって退いていく。
牀と几。几の上には水差しが置いてあった。灯火は一つである。
「さて鬼が出るか蛇が出るか」
と独り言を言いながら子賁は牀に腰かけ、足を組んだ。
腰のものも預けたままである。朝游も月明も形見である。差し迫った事態でもないのに放り出して逃走することもできない。
「子賁」
屋根裏から囁き声が呼ぶ。丹香だ。
「子賁、おかしい。逃げたほうがいい」
「どうした」
「この建物の周りに変な奴らがいる」
「変な奴ら」
「黒づくめの人間、オレが見る限り10人以上だ。うろうろしている。何か起きる」
「おぅ」
その言葉に子賁は思わず呻いて額を抑えた。こんな時に嘘だろう。
そして先日の騒ぎを思い出す。
すでに中原の状況は楊異や柳から簡単に聞いてはいた。いま曹公が敵対している最大の勢力は袁本初の北方勢力であることも聞いている。
ばかりではない。昨年の末にようやく呂奉先を倒してはいるが、南方では袁公路、そして孫伯符の勢力が勃興しており、四面此敵という始末だという。
一方で南の様子を聞く限り、まとまりがある様子ではない。また公路は偽皇帝を名乗るほど驕慢であるが、逆に言えば皇帝が暗殺という手を取るのは自分が許さないだろう。そして伯符は裏工作をするような性格ではないのは欒潜思の経緯からも明らかである。
となると刺客を送れるのはやはり袁本初ぐらいなものだろう。
だとしたら先日の失敗の直後、油断しているであろうところに再度刺客を送り込むことも考えられないではない。
「お前は巻き込まれないようにしろ。俺に何があっても、最後まで何があったか見届けろ。どんな形であれ騒ぎが収まったら楊家に行き、楊氏と貌利に事の次第を知らせろ。そのあとは動くな。楊氏の指示に従え」
「…わかった。子賁、気を付けるんだぞ」
そう言って一瞬気配が消えかけたが、すぐに戻ってきた。
硬い声で丹香が告げる。
「子賁、誰かがこちらに向かってきている。大きな男だ。朝游と月明を持っている」
恐らく文遠だと直感する。が、何が起きるかわからない。
子賁は丹香に鋭く言った。
「いい。お前はすぐに去れ。行くんだ」
屋根裏の気配が消えた直後に、扉が叩かれる。
腰をやや落とし、子賁は身構える。素手ではたかが知れているが、何もしないであきらめは付けられない。
扉にかぎはかかっていない。きしんだ音を立てて開くところに子賁は相手の顔面に向けて足を叩き込んだ。軽い挨拶である。
が、その影は予想していたかのように容易に子賁の足首を掴み、軸足を払った。床でしたたか背中を打った衝撃で思わず子賁が呻く。
しかしそれきりだった。その影が小さくなる。床に転がった子賁の前にひざまずいたのだ。
「文よ」
影が声を発した。間違いなく文遠の声だった。
体を起こし思わず手を取る。記憶よりはるかに硬く厚いその手に驚いた。
その手から察する。体躯が記憶より大きくなっていたのは鍛えていたからだった。恐らく死とすれすれの鍛錬を積み重ねたゆえであったろう。子賁でさえ一瞬文遠に気づかないほどのそれはどれほど厳しく激しい物であったことか。
月明りに浮かんだ顔は陰影が濃く、表情も荒んでいる。形相が変わってしまっていたのもすぐに気づかなかった一因だろう。
思わず名を呼ぶ声がかすれる。
「…文遠」
「一目だけ、会いたかった」
うれし気な、しかし諦観を含んだその声に、10年隔てているにもかかわらず、昔のような気軽な言葉が口をつく。
「かなりしょげてるな。負けをまだ引きずっているのか」
その言葉に、自嘲するような笑いが返ってくる。
「何もかも失ったからな」
「取り戻せるものもあると思わないのかよ」
挑発的な言葉が口をつく。
それに静かに影は顔を横に振った。
「得たいと思うものはもう、なにもない。何も得られない」
胸が痛んだ。絶望の淵にもがくことさえせずに沈みゆく姿がそこにあった。
らしくねぇ。
その言葉がよぎった。
「もういい。文…もう子賁だな。明日の殿との面会が終わったら城から下がれ。そして早くこの国を出ろ」
「あんたはどうするんだ」
それに影は答えない。
燃え残った灰が崩れるような音を聞いた気がした。
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