第10話 最期の夢

『九日目』


 アオイは静かに目を覚ました。いつぶりだろうか、こんなにも穏やかに目が覚めたのは。

 だが脳裏には、失われたはずの幼い頃の記憶が鮮明に焼き付いている。


 記憶を思い出したところで、目が覚めてしまい、サクラに伝えなければいけないことを伝えれなかった。

 急いでヘッドギアを外し、ベッドから降りる。


 共有スペースへ向かうと、そこにはユウキ、ケンタ、サクラ、そしてアヤカの姿があった。

 皆、表情が軽くなった気がする、だがその目には、どこか吹っ切れたような光が宿っていた。


「みんな、無事か!?」


 アオイが声をかけると、ユウキが大きく頷いた。


「ああ! 今夜は、キラーが出てこなかった! その代わり、俺たちは昔の記憶を取り戻したぜ!」


 ケンタも興奮した声で続いた。


「俺もだ! タカシのこと、すっかり忘れてたけど、全部思い出した! あいつ、俺たちの大切な友達だったんだ……」


 サクラは、目に涙を浮かべながらも、穏やかな表情で言った。


「アオイくん……私……私たち小さい頃よく一緒に遊んでいたよね」


 サクラの言葉に頷いた。

 アオイもまた夢の中で両親や町のこと、そしてサクラのことを思い出していた。


「ああ。ブランコや花見、よく家族ぐるみで一緒に出掛けてたよな。」


 サクラとアオイの両親はとてもなかがよく一緒に出掛けることも多かった。

 その時事故に遭い、アオイとサクラを残して両親は他界してしまったということも。


 言葉にはしなかったが、サクラも全てを思い出しているみたいだ。

 アヤカも静かに頷いた。


「私も。私がなぜ孤児院に預けられたのか。そして、私の母親が誰なのか……全て、はっきりと。まさか、自分の父親がいたなんて……」


 全員が、キラーのいない夢の中で、それぞれの忘れ去られた過去を取り戻していた。

 それは、キラーに追い詰められる恐怖とは別の、精神的な消耗を伴う体験だったが、同時に、彼らの心に大きな変化をもたらした。


 失われた記憶を取り戻したことで、彼らの顔には、どこか清々しさと、諦めにも似た落ち着きが広がっていた。


 しかし、その背後には、まだ解明されていない謎が残されていた。なぜ、キラーは現れなかったのか?

 残された日数は、あと1日。


 共有スペースに残された者たちの顔には、これまでにないほど強い疲労と、張り詰めた緊張が浮かんでいた。

 あと一日。この言葉が、希望と同時に、深淵な恐怖を呼び起こす。


「本当に、これで最後なんだな……」


 ケンタが、乾いた声で呟いた。彼の目の下には、治験開始当初よりもはるかに濃い隈ができていた。


「終わらせるしかないわ。何が何でも、今日を乗り越える」


 アヤカの目は、恐怖を押し殺したような、強い光を宿していた。


「またキラーがでてこなければいいけどな」


 ユウキの言葉に全員が頷いた。

 昨日、夢の中で過去と向き合ったことで、彼らの間には、奇妙な静けさと決意のようなものが漂っていた。


 しかし、最終日が目前に迫る今、その感情は、未知への不安と、これまでの悪夢への恐怖に変わっていた。


「必ず生き残る。みんなで、この地獄から抜け出すんだ」


 アオイは、自分に言い聞かせるように呟いた。サクラも、その言葉に力強く頷く。


『九日目・夜』


 アオイはベッドに横たわり、ヘッドギアを装着した。最後の夜。

 今までのどの夜よりも、心臓が激しく脈打つ。高額な報酬。

 そして、生き残りたいという本能。それだけが、アオイを突き動かす唯一の理由だった。


 次に意識が浮上した時、アオイは、見慣れた白い廊下に立っていた。そこは、この治験施設の中だった。

 白く清潔な壁、規則正しく並んだドア、天井の蛍光灯。

 すべてが、アオイがこの9日間を過ごしてきた場所そのものだ。


「ここ……は……?」


 アオイは困惑した。夢なのか、現実なのか、判別がつかない。

 まさか最後の夢が、この治験施設の中だとは想像していなかった。


 周囲を見渡すと、アオイと同じように困惑した表情で立ち尽くす人々が見えた。

 ユウキ、ケンタ、サクラ、アヤカもそこにいた。彼らもまた、夢なのか現実なのか区別がつかないという顔をしている。


「みんな……ここ、どこだ?」


 ユウキが声をひそめて尋ねた。


「ここ……治験施設の中……だよな?」


 ケンタも混乱した様子で呟いた。


「夢……なの? それとも、私たち、まだ眠ってるだけ……?」


 サクラが不安げにアオイを見上げた。

 アヤカだけが、冷静に周囲を見渡していた。


「おそらく、夢よ。しかし、なんでここなの?」


 九日間とはいえみんなで過ごした施設は記憶に根強く刻まれている。その結果がこの夢を見せているのだろう。

 キラーはまだでてこない。ひとまずアオイたちは共有スペースへと向かった。


 そこには、多くの被験者らしき人々が、集まっていた。彼らの顔にも、疲れと困惑の色が浮かんでいる。


 どれくらいの時間が経っただろうか。ざわめきもないまま、静かに時間が流れていく。アオイは、ここが夢であることを疑いつつも、キラーが現れないことに安堵していた。

 しかし、その安堵は、長くは続かなかった。


 ふいに、共有スペースの明かりが、フリックと音を立てて消えた。

 そして、どこからともなく、あの冷たい空気が押し寄せてきた。


「ドスッ……ドスッ……」


 漆黒の巨体、人型のキラーが、共有スペースの入り口に、ゆらりとその姿を現した。

 その存在感だけで、空間全体の空気が重く、粘つくものに変わる。


「ッ、来たぞ……!」


 アオイが叫んだ。

 被験者たちは、一斉に悲鳴を上げて散り散りに逃げ始めた。

 しかし、この治験施設の中は、アオイたちが初日に案内された場所であり、日中の自由時間にも散策した場所だ。

 廊下も、部屋も、階段も、全てが既視感に包まれている。


「どこもかしこも、知ってる場所だ……!」


 ユウキが焦って叫んだ。


「逃げ場所がねぇぞ!」


 アオイたちは、必死で記憶にない場所を探した。スタッフルーム、研究室、医務室……。

 しかし、どのドアにも、頑丈な鍵がかかっていて、びくともしない。


「くそっ! どこも開かない!」


 ケンタが叫びながら、ドアを叩いた。

 キラーは、ゆらりとした動きで、逃げ惑う被験者たちを次々と捕らえていく。


 その漆黒の腕が、被験者の身体を鷲掴みにするたび、彼らの叫び声が、施設中に響き渡る。


 アオイたちは、どうにかしてこの施設から逃げ出そうと試みた。

 非常階段を駆け上がり、屋上を目指したが、屋上への扉も固く閉ざされている。


 地下へと続く階段を駆け下りたが、地下通路は行き止まりになっていた。

 まるで、最初から逃げ場がないように、この施設は作られていたのだ。

 キラーは、容赦なく被験者たちを追い詰めていく。

 廊下のあちこちで、悲鳴が上がる。


「やめろぉぉぉっ!」

「誰か、助けてくれぇっ!」


 次々と、被験者たちが漆黒の闇に飲み込まれていく。

 その度に、アオイたちの胸に、深い絶望感が広がる。

 まず、キラーの巨大な手が、ケンタの肩を掴んだ。


「うわぁぁぁぁっ!」


 ケンタの絶叫が響き渡り、彼の身体が宙に浮いた。

 漆黒の闇がケンタを包み込み、彼はそのまま意識を失った。

 次に、ユウキが捕まった。


「くっ……! まじかよ……!」


 ユウキは最後まで抵抗しようとしたが、キラーの圧倒的な力の前には無力だった。

 彼の意識も、闇の中へと消え去った。


「サクラ! アヤカ!」


 アオイは叫んだ。

 アヤカは、冷静さを保とうとしながらも、顔は蒼白だった。


「逃げて! アオイくん!」


 サクラがアオイの背中を押した。しかし、その願いも虚しく、キラーの腕は、サクラにも伸びた。


「いやっ!」


 サクラの悲鳴が上がり、彼女の華奢な身体が闇に引きずり込まれる。

 残されたアオイとアヤカは、必死に走った。

 しかし、この施設内には、本当に隠れる場所がなかった。


 アヤカは、突き当りの壁に追い詰められ、キラーの巨大な影が彼女を覆い尽くす。


「っ……!」


 アヤカも、最後まで抵抗したが、キラーの力には及ばなかった。

 彼女の意識もまた、闇の中へと沈んでいった。


 最後に残されたのは、アオイ一人だった。キラーは、まるで獲物を追い詰めるかのように、ゆっくりとアオイに迫る。

 アオイは、壁際に追い詰められ、逃げ場を失った。


「くっ……!」


 キラーの巨大な手が、アオイの肩を掴んだ。その冷たい感触に、アオイの全身が凍り付く。

 悪意に満ちた気配が、アオイの全身を覆い尽くす。


 意識が遠のく中、アオイは、深い暗闇へと飲み込まれていった。

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