第8話

 二月も終わりに差しかかるころ。

 あれから山田は無事に運転免許を取得して引っ越しの準備も済ませていた。

 忙しいだろうに、合間を縫って山田は俺の元を訪れていた。

 このままではいられないという想い以上に遠からずこの逢瀬は終わりを迎える確信があった。

 だからこそなのか、にもかかわらずなのか、俺は山田を迎え入れていた。

 土曜の昼下がりに『会いたい』と山田からのメッセージが届く。こうやって当日に唐突にメッセージを送ってくるのはいつも通りだ。既読が付いた途端、いまから行っても大丈夫かと尋ねる山田に『一時間後に来るように』と返した。


「合格祝いくらい用意してやろう」


 免許を取ってからは、今回が初めてだ。この前はコンビニケーキだったが、今日はケーキ屋に行くとしよう。

 滞りなく買い物を済ませて帰宅すると、車を停めたタイミングで近所のコンビニから山田が姿を現した。


「早く来ちゃった……」


 いつもは時間通りの山田がばつが悪そうに笑う。変装用に渡しておいたサングラス越しの表情は少しだけいつもと違う気がした。


「ケーキ、買ってきた。ほら、コーヒーも淹れるから、来いよ」

「……うん」


 いつもなら軽く飛び跳ねそうなもんだが、大人しく頷くだけだった。

 そうか。今日で最後か。

 そう気付くと同時に、一緒にコーヒーが飲めそうでよかったなと妙なことに安心していた。



◇◇◇



「おーい、ちょっと」

「なに?」


 コーヒーがもうじき用意できるタイミングで山田をキッチンに呼びつける。


「カップ、どれがいい?」


 戸棚を開けてコーヒー用のカップを見繕わせると彼女は眉根を寄せた。


「料理、しないわりにカップ多くない?」

「デザイン重視で衝動買いだ」

「あ~」


 納得した山田はしばらく棚を漁っていたが、気に入るものを見つけたようだ。


「これっ、可愛い!」


 山田が取り出したのはソーサー付きの小振りのカップだ。赤を基調にした色使いが独特だが冬にはちょうどよさそうだ。コーヒー用には小さいが、普段飲まない相手になら丁度いいのかもしれない。

 それを受け取って、残しておいたお湯で山田と自分のカップを温めてからキッチンタオルで拭いた。


「翔くんって、基本ズボラなくせにそういうとこちゃんとしてるよね」

「それ褒めてる? けなしてる?」

「純粋に、疑問を呈してる」


 いつもの調子で軽口を叩き合いながらコーヒーをカップで注いでいく。


「こういうのは大体……元カノたちの影響で、そうしてる」

「へぇ、いがーい。他人の忠告とか聞かなそうなのに」

「そーでもねーよ。案外引きずったり、こうして律儀に従ってたりするんだぞ」

「ふーん」


 肌に馴染んだこだわりが染みついただけかもしれないけど。

 赤いカップを渡すと、山田はその中身を初めて見たかのようにじっと見つめた。

 その肩をそっと叩いてリビングへ向かわせる。


「さあ、合格祝いだ」


 その言葉に山田が笑う。その柔らかく見慣れてきた笑顔がなんだかもう懐かしい気がした。


「そうだね」



◇◇◇



「あぁ~、うまっ」


 先程までの雰囲気はどこへやら。並んで座るソファで山田は身悶えている。


「確かに……」


 評判のお店だけあって美味しい。甘過ぎないのにコーヒーを飲んでも霞まない甘さがあって、それでいて後味が軽やかだ。


「コーヒーも……いいなぁ」


 山田がうっとりした瞳でカップに口を付ける。初めはちろりと口を湿らせる程度だったが、いまではコクリと喉を鳴らしており堪能しているようだ。


「牛乳あるけど……いらないか?」

「ブラックで大丈夫」

「コーヒー、飲めたのか?」

「甘いのが好きなだけで、飲めるよ。あんまり好きじゃなかったけど」

「……悪くなかった?」

「そうだね」

「ケーキにも合うだろ?」

「うん。少し、翔くんの気分が分かった気がする」

「そうか」

「……少しだけ、ね」


 合間にケーキを頬張りながらの会話のうちに山田のカップは空になった。


「お代わり、要るか?」

「ん……でも」


 こちらの確認に首肯する山田だが、続いて小首を傾げて見せる。


「その前に、……」


 そうしてフォークを置くと、こちらに腕を拡げた。

 少し眠たげなとろんとした表情と湿った榛色の瞳。それは固いのか柔いのか、青いのか熟しているのか。

 眺めたところで分からないから触れて確かめるが、それでも分からない。


「これだけ……?」


 肩に軽く食い込む指先と耳に響く囁き。

 ヒントは貰ったけど、こういうのは初めてな気がする。


「合格、おめでとう」

「……うん♪」


 子猫にでも触れるように恐る恐る山田の頭に手を乗せ、よしよしと撫でる。細い黒髪の感触は頼りなく戸惑いが大きくなっていく。


「いいこ、いいこ~♪」


 それを知ってか知らずか、彼女は頬ずりしてくる。肯定されているのか、それとも催促か。いずれにしても答えは変わらない。さらさらの髪の感触を確かめるように頭を撫でていく。

 そうしているうちに首に手を回された。


「こういうの、好き」


 子どものような無邪気さで告げた言葉に彼女は自分で違う色を重ねていく。


「大好き」

 


◇◇◇



「これはこれで……」

「なかなかいけるだろ?」


 冷めてしまったコーヒーに牛乳を入れてやると山田はその味に納得の様子だった。


「氷を入れるとキリッとしていいだろ」

「うん。スーパーのコーヒー牛乳とは違うね」


 コクリと喉を鳴らした山田がグラスを差し出した。


「翔くんも、飲む?」

「ちょうど喉乾いてた」


 ありがたく頂戴したグラスを一気に呷る。普段作ることはないが、確かにこれはこれで旨い。

 甘過ぎず苦過ぎずでこうやって格好つけずに楽しめるのはいい。


「……っ、はぁー」

「美味しそうに飲むね」

「コーヒーとは別物な感じだけどな」

「そうだね」


 サイドテーブルに置かれた空のグラスを山田は寝ころんだまま見つめている。


「……なーんか」


 ぽそりと呟き彼女はベッドの上でころころと転がりだした。


「なーんか、なんだかな~」

「どーした」


 山田は答えず何度かころころしてから、毛布を身体に巻き付け背を向けてしまう。

 普段は傍若無人というか自由に好き勝手にしている印象だったが、ここ最近気づいたことがある。

 意外とこいつは甘え下手だ。

 身を寄せ、山田の頭を包むように両手を乗せる。


「山田ぁ、どうした~?」


 くすぐるように髪を梳くと彼女はぴくりと反応して、笑い声をあげる。

 そのままくすぐりを続けるとやがて観念した山田が口を開いた。


「すっごいアホらしい話、なんだけど……」

「どうぞ」

「コーヒー牛乳を見てたらさ」

「うん」

「自分と重なって……落ち込んだ」

「……もう少し、詳しく」


 アホらしいかの判断もつかない話の続きを促すと、俺の手に山田の手が重ねられた。その動作に従い彼女の頭をもっと荒っぽく撫でてやると、満足そうな吐息が漏れ聞こえた。落ち込んでいるというのは本当のようだ。


「さっきのコーヒーは、そのままじゃ飲めないからコーヒー牛乳にした。美味しかったけど、コーヒーとしてはベストというか、一番の状態じゃない。でしょ?」

「そうだな」

「例えば私の家族。愛されてることは知ってるし、大事にされてる実感もある。でも、今は弟が中心。私は一番じゃないんだよね」

「そうか」


 珍しくムキになることが多かった家族の話題。第一子ならではの悩みにも聞こえるが、彼女の声には確信めいたものがあるような気がした。


「でも、それでいいんだよ。私の弟はね、凄いの。天才ってヤツ。才能ある人間には特別な教育を、みたいな考えって好きじゃなかったんだけど、あの子見てたら納得しちゃったもん。そうしたほうがいいよって」

「お前だって、文武両道で充実した高校生活送ってるじゃないか」

「私は何でも器用にこなせるほうだけどさー、それだけ。万事そんな感じ。特別じゃない」


 山田の声音は少し寂しげだけど、深い悲しみのようなものは感じさせない。本当にそう思っている。ただ、自分の意見を述べているだけといった様子だ。


「それに、今が私のピーク、てっぺんだよ。これからもっといろんな子に追い抜かれていくんだと思う」


 若いうちからそんなことをと言いたくなるが、俺にそれを言葉にする資格はないだろう。


「だから……」


 山田が毛布を剥いでこちらに向き直る。少し冷えた身体に温もりが触れる。


「今のうちに、いいなって思ったものには飛びつくようにしてるんだ」


 悪戯っぽい声で山田が耳をくすぐる。


「そーいうこと達観するの、早くないか?」


 呑み込めなかったモヤモヤが言葉カタチを求めて口から零れていた。

 それでも山田は悔しがる素振りもなく俺に尋ねてくる。


「置いてきぼり食らったって思うほどの才能や情熱ってもの、見せつけられたこと、ない?」


 じっとこちらを見つめる榛色の瞳はただ静かに俺の答えを待っている。


「……ある」


 嘘は付けない。

 美大に進学して、絵で身を立てることが出来ず就職した。イラストやキャラデザはメインでこなせず、もっぱらモデラ―をやっていたなかで、そういう気持ちにならないなんて嘘だ。


「いいね、翔くんは。きっと努力して挑戦して、傷ついたんだね」


 俺の答えに納得したのか、山田は強く俺を抱きしめてきた。


「そういう人はギュッてしたくなるなぁ。ねぇ、私のことも――」


 気付けば山田を抱きしめ返していた。いきなりのことに一瞬強張った彼女の身体はあっという間に弛緩して、背に回していた腕も力なく垂れ下がってしまった。


「あは、やばっ……


 息苦しそうに、それでも山田は嬉しそうに妙なことを口走る。


「なに言ってんだ」

「とっても……アホなこと」


 それだけ言うと、こちらの胸に潜り込むように額を押し当て山田は黙り込んだ。

 こんなに柔らかくてまるできずひとつない玉のような彼女にも心の傷というものがある。そのことを分かっていても、細い黒髪を撫でているとそれが和らいでしまう。

 山田の痛みもそうなればいいと思いながら髪を梳いていると、不意に指先が耳に触れた。


「「あっ」」


 その熱に揃って声を上げてしまう。


「「…………」」 


 山田が追及してこなくて助かった。

 自分でもわかるくらい、顔が熱い。

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